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BORN TO RUN re :


 山王寺いちる。彼には、人の心がなかった、と川中悟は述懐する。
 川中悟と山王寺いちるは、少年院で出会った。
 「キミとボクって、なんだか表裏一体じゃない? 川と山だし、さとるといちる。似てるよね」
 おおよそ、少年院には似つかわしくない、鈴の音のような声でころころと、山王寺いちるは笑った。それが、初対面の挨拶だったと言う。
 川中は、初めての少年院で、舐められたら終わる、職員にも在院者にも。ただそれだけを恐れていた。
 そもそも、立ち回りが上手な訳ではない。頭も当然良くはない。それでも、やれると思ってた。何とかなる、と。だから、その結果が少年院だ。
 力を見せつけて来られたのは、荒くれどもの中で生きて来たからだ。あいつは強い、と言う噂や、仲間がいたからだ。確かに、喧嘩には少し自信があった。だからこそ、そのままじゃ敵わない相手がいる事も察知できたのだ。それが、普通の喧嘩なら。
 それが組織的な何かになると、個人の腕っ節ではどうにもならない事までは理解できていなかったのだ。その際たる組織が、警察や、国だった。その結果が少年院なのだ。
 だから、舐められる訳にはいかなかった。この特殊かつ孤立無援な場所で、自分の居場所を確保するには、それがどれだけ虚勢であったとしても、舐められたら終わる。それが全身の筋肉を強張らせていた。
 その強張り過ぎた川中の隙に忍び込んできたのが、山王寺いちるだったと言う。
 収監後三日目の昼食時に話しかけて来たのは、いちるの方だった。
 およそ少年院には似つかわしくない、華奢な身体つきの少年だったと、川中以外の在院者も証言している。顔立ちも、いわゆる女顔で、更生が必要なタイプには見えず、むしろ優しい、穏やかな優等生に見えた。
 普通に考えれば、まず一番最初にシメられる、そんな外見である。だが、どうにもそうは思えなかった。川中の本能がそう訴えたのか、一瞬で懐柔されてしまっていたのか、それとも、違和感がそうさせたのか。
 川中もいちるも、保護処分在院者ではなく、受刑在院者である。決して軽い罪で収監されている訳ではない。
 思えば、川中と同じく、院内での地位を確立しようと躍起になっている時に、いちるは平然としていた。それが、川中の緊張をほぐし、付け入る隙を与えたのだと後悔の意を表している。
 ほぼ初対面だった川中の名前を、いちるは知っていた。
 この時だけではない。いちるはいつも「ボクとキミ」ではなく、「キミとボク」、「さとるといちる」という風に川中を先に呼んだ。知らずのうちに、自分の存在を認められているという快感に酔わされていたのだ。
 そんな小さな事から、マインドコントロールは始まっていた。
 「さとるみたいな人を探していた」
 「外でさとると出会えていたら、キミもボクも、こんな場所にはいなかった」
 「さとると出会えたんだから、少年院に来た価値はあったよ。さとるはそう思わない?」

 自分がいちるに心を奪われていった言葉の全ては、出所後、洗脳の常套句なのだと知った。いちるが特にそんな本を読んでいた様子はなかった。人たらしたる才能は天然のものなのかも知れない。実際、後から考えてみれば、この洗脳にかかっていた在院者は、少なくとも数名いる。その中には法務教官や法務技官もいた。それぞれの役割を持たされていたのだ。
 川中の役割は、いちるの番犬だった。
 対等な親友として扱ってくれるいちるに、もっと認めて欲しくて、いちるの犬に成り下がっていたのだ。そう。いちるは、対等以上に「扱って」くれた。だが、番犬以下にしか思っていなかったのだ。
 いちるには、人の心がない。
 一言で言うなら、サイコパス、と言えば済むだろう。いちるはまさに、人の心を持たない怪物だったのだ。言葉でいとも簡単に人の心を操る、典型的な精神病質。
 だが、サイコパスにも苦手な人種が存在する。彼の言葉に乗せられない類だ。
 野生的な勘で、いちると反りが合わない事に気付き、その姿勢を変えないタイプ。姿勢を変える奴は、一旦懐柔に成功すると、むしろ御し易いらしい。
 頭が悪過ぎて、いちるのして欲しい事を察せないタイプ。これには近寄らない。
 鈍臭過ぎて、いちるの足を引っ張るタイプ。これには優しくするが、何もさせない。
 いちると同等以上に頭脳が明晰で、いちるの目的を察するタイプ。だが、少年院内には、一人しかいなかった。
 普通に頭が良い程度の相手なら、好条件を示せば靡くから、洗脳するまでもない。
 そんな中、少年院内でいちるが自分の王国を作り出すのに必要だった時間は一年。
 川中を筆頭にして、身の安全を確保するのに一ヶ月。基本的に番頭は川中だったが、実のところ、表に出て来ない護衛は、既に何人もいたのだ。
 その全員が「川中は矢面に立つカカシ」「自分こそがいちるの本当の番犬」だと思わされていた。
 その、表に出て来ない番犬の存在が組織的になった。いちるのシンパが番付を持って派閥を作るのに三ヶ月。誰も番付に文句はなかった。組織の順位などと言う数字よりも、いちるに褒めてもらうことの方が甘美だったからだ。
 そして、いくつかの対立派閥を潰す、あるいは懐柔するのに半年。最終的に、残った勢力がいちるに逆らわない、関与しない所になるまで一年。
 この間に、川中が実際担当した荒事は少なかった。いや、正確に言うなら、いちる以外が暴力による実力行使をした事は、多くなかったのである。
 「キミの前に、まずはボクが出るから」
 いちるが暴力を示す時は、絶対に邪魔が入らない状況が確保されていた。いわば、彼の配下は、そのための駒だったのだ。彼が院内に、彼の王国を作ったのは、彼が彼でいられる場所を確保するためでしかなかったのだろう。
 「ボクが負けても、ボクより強いキミがいるから大丈夫」
 いちるはそう言っていたが、川中以下数名の番犬は、おそらくいちるに勝てないであろう事を次第に思い知っていった。
 朝比奈アルベルト。おそらく、いちるが収監されるまで、一番強かった男だ。
 何人もいた「腕っこきの派閥のトップ」としては三番目に戦った。
 最初は、弱い相手を選んだ。この時はまだ、いちるの怖さに気付いていなかった。相手は簡単に屈服させられたが、単に弱かったからだと思っていたのだ。いちるが並外れて強いのではない、と。二番目は、強いが孤立している相手を選んだ。孤立しているだけあって、簡単には屈服しなかった。だから、屈服するに至るまで、破壊された。ありえない怪我は、階段から落ちた怪我として処理される事となる。川中がいちるに対して、初めて疑問や恐怖を抱いた瞬間だったと言う。
 そのいちるが、三番目に選んだ相手こそ、院内最強だった。
 ブラジル人の父を持つと言う。背こそ高くないが、体格的に見ても、細身のいちるには荷が重いように思えた。腕も足も胸板も、いちるの倍もあるように見えた。そもそも背だって、わずかとは言え、いちるより高いのだ。いや、フィジカル面でアルベルトに勝っている在院者はいないと言えるだろう。職員の中にもいないレベルだ。
 確かに、少し太り過ぎている。肥満と言っても問題ないアルベルトの肉体をあんこ型とするなら、いちるはソップ型にも満たない。
 勝ち目がない。これまで二度の圧倒的勝利を目撃しているが、それでもここは、アルベルトに敵わないまでも、体格的に恵まれている川中や他の番犬が行くべきだと忠告さえもしたのだ。
 だが、結果は惨憺たるものだった。無論、アルベルトにとって。
 組み付かれたら、いちるに勝ち目はない。それは、物理的に見ても事実だろう。体力、筋力、体重は圧倒的な「力」だ。いくら喧嘩が強いと言っても、技が通じない土俵に持ち込まれたら勝てない。
 それは、アルベルトにもわかっていた。
 組み付きさえすれば、勝てる。負ける要素があるとするならば、意識を刈られてのノックアウト。あるいは、急所を狙われての戦闘続行不能。これだけなのだ。
 アルベルトは、両拳を額の位置にまで引き上げた。ピーク・ア・ブー・スタイル。日本語で言うと「いないいないばあ」である。
 そして、左脚を前に低く構える、クラウチング。
 決して頭脳派ではないアルベルトだが、彼の採った作戦自体は完璧だったと言える。
 体力、筋力、体重で勝るアルベルトが、一発で逆転される可能性のある顔面をガードした。まず、ノックアウトされる危険はない。
 踏み込み足を晒すクラウチング・スタイルは、ボクシング以外ではローキックの格好の餌になる。だが、この体格差を考えれば、いちるのローキックが強烈だったとしても、一撃や二撃で崩折れることなど有り得ない。
 警戒すべきは鳩尾辺りへの蹴り。だが、これが来たとしてもアルベルトには対策があった。
 ーーー負ける要素はない。
 アルベルトに続いて、いちるが構えた。地面に対して、アップライト。アルベルトに対し、半身に。腕は、左が顔面。右が胸を。左脚が脚と腹部をガードしている。
 ーーー少しは喧嘩も出来るってか?
 決して頭のいい方ではないアルベルトだったが、いちるを舐めてはいなかった。誰が見ても勝ち目がない戦いに挑むには、何か作戦があるのかも知れない。あるいは、目的が。
 いちるが負ける事を見越して、次の川中に勝たせるため、怪我でも負わせるなんて企てがあるかも知れない。だからこそ、一撃で、一瞬で終わらせる必要があった。
 ーーー狙いは、タックルだ。
 ピークアブーに構えたのは、ノックアウトを防ぐだけじゃない。打撃に付き合ってやる、という誘いだ。無論、打撃で打ち合って負けるはずもない。だが、コンディションを考えれば、タックルを決めて、体格差を活かしてそのまま押し勝つ事が望ましい。
 フェイントを掛けて、そのまま突進するか? いや、左脚をガードに回している。今なら簡単にタックルが入るか? 来るのが前蹴りなら突進の勢いで押し勝てる。だが万一、タックルと膝が噛み合ったら、流石にまずい。それだけは避けなければ。
 そう思った瞬間、意外にも、仕掛けたのはいちるの方だった。
 ガードに回していた左脚を一気に踏み込み、左のジャブをフェイントに、右ストレートを顔面へ叩き込むー、そんなビジョンが見えた。アルベルトにも、川中たちにも。
 アルベルトは左右の膝が来ない事を察した瞬間、タックルに踏み切っていた。いや、タックルと言うよりは、体当たりと言う方が正しい。両拳を顔面のガードにしたまま、組み付きに行くのではなく、身体をぶつけるのだ。組み付くのはそれからでいい。この体格差なら、それでいい。自分ごと壁に叩きつけてからでも組み付ける。
 その筈だった。だが、身体はぶつからなかった。
 いちるは、踏み込んだ左脚をバネにして、そのまま横に跳んだのだ。
 そして、タックルの軌道上からギリギリの離れぎわに、こつん、とだけ左脚の爪先を、アルベルトに脚に引っ掛けたのである。
 コントロールを失ったアルベルトは、前のめりのまま部屋の壁に衝突する。この時点では、まだアルベルトに勝機は残っていた筈だ。だが、その勝利の目を摘むべく、いちるの追撃が待っていた。
 自身の体重で壁に突進したとて、顔面の防御はしていたのだ。大層なダメージではなかっただろう。ただ、体勢を立て直すまでには時間が必要だった。
 完全に背を向けた状態のアルベルトの膕(ひかがみ。膝の裏)をいちるの踵が襲ったのだ。
 重心の制御を失っていたアルベルトには、更に立て直し時間を延長されたようなもの。それに、背を向けている状態はまずい。アルベルトは咄嗟に、壁に両手をついて、いちるの方へと向き直る。
 が、そのがら空きの顔面に、踵が蹴り込まれた。
 通算二撃目の踵はどうにか耐えた。耐えたが、結果としてそれは悪手となった。
 三撃目の踵が、半端な方向を向いている膝を踏み込む。ごきん、とも、めしゃっ、とも聴こえる、枯木と生木を同時に折ったような音がした。
 四撃目が再び顔面に。脚という支えと心を折られたアルベルトの顔面は、踵と壁の両方に蹴られていた。壁についた両手が、耐えようとしていた。それが仇になった。
 五撃、六撃、七撃と、それはまるでバスケットボールのドリブルのように。
 八、九、十撃目辺りで、アルベルトの両腕が下がっている事に気付いた。
 十一、十二、十三と、周囲がまだ呆然と見ている。
 十四、十五、十六と、事態を周囲が理解した。
 十七、十八、十九と、そこでようやく、川中がいちるを止めに入った。
 この日の出来事は、いちるでも川中でもなく、樋代という男とアルベルトの喧嘩、という事で済まされた。
 川中はいずれ、いちるが三人の人間を殺して収監された事を知る。一度目は正当防衛だとされた。二度目は目撃者が出て来た。三度目で、過失ではあり得ないと判断されて少年院へと送られた。
 川中は、よくよく考えれば、自分がいちるに自分の事を多く打ち明けて来たが、いちるは川中に何一つ明かしてはいなかったのだと言う。
 あの怪物には、人の心がない、と。
 だが、山王寺いちるはポツリと話す言葉の中に、何度か出て来たフレーズがある。
 「人の考えは手に取るようにわかる。でも、何故そう考えるのかが、わからないんだ」
 それが、あの怪物の、僅かに残された人の心なのか。他人と違う自分。他人を理解しつつも共感できない自分。サイコパスの決定的な特徴、共感性の欠如。
 だが、
 「キミだけが、ボクの事を理解してくれると感じてるよ」
 それもまた、あの怪物の言葉の魔術なのかも知れない。
 出所するまでに、次第にいちるの存在を恐れるようになった川中は、出所(いちるの方が先に出所した)と同時にいちるの前から姿を消した。
 出所の際に名前も苗字も変え、そこから更に引越しと転職を繰り返し、養子縁組をしてまで、川中だった痕跡を消した。それほどに、いちるの存在は大きく、抗いがたいほど魅力的で、消しきれない程の恐怖だったと言う。
 自分には、いちるが自分を探し当てるほどの価値がない、と信じている。だが、いちるの事だ。何かの計画に最適な駒が自分しかないと判断したら、すぐにでも探し出す手段を持っている、とも。
 流石にもう、出所から六年が経過している。日常的に、いちるの影に悩まされる事はなくなった。だが、ふとした事でいちるが傍にいるような恐怖と安堵が蘇る事があると言う。
 なお、筆者と、この川中だった男は知人である。ある居酒屋で知り合って以来の付き合いで、彼の過去について知ったのも、比較的最近だ。
 基本的に過去の事を話そうとしない男だったが、酷く酒に酔った夜、少年院で出会った怪物の影が消えないと、私に打ち明けたのだ。
 だから、山王寺いちるが格闘技界のダーク・プリンスとして登場して来た時、それがその少年院の怪物であると、一瞬で理解した。
 そして、いちるがスターダムにのし上がって来た事を知った彼を問い詰めると、色々な条件のもと、私の取材に応じてくれたのだ。
 その条件のひとつが、公開までの時間である。取材を記事にするのはいいが、発表は条件を満たすまでしないこと。
 つまり今、これを執筆している時点では、これは私と川中だった男の二人しか、この内容を知らない。
 だが、この文章はいずれ公開されると確信している。それは私も、その条件を提示した彼も、だ。
 条件はいくつかある。だが、通常では考えられない条件がひとつ。
 試合の内外を問わず、山王寺いちるが、四人目の誰かを殺したと「発覚」した時。それが、この記事の公開条件なのである。

 週刊パトス・編集長 横田克也



 (´・Д・)」 あ。スミマセン。昨日、まだ未発表だと思って上げたコレがとっくに発表済みだったのを忘れて再掲してしまいました。お詫びに、1日で何とか新しく書き下ろしたのでご勘弁ください。

 ただ、まぁ、再掲ですよって気付いて知らせてくれた人って、一人だけだったんだよな。確かに、書いて、上げた本人が忘れてるくらいだしなあ。


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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。