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南シナ海で対立するフィリピン 対中・対米観は複雑|【特集】押し寄せる中国の脅威 危機は海からやってくる[Part6]

「中国の攻撃は2027年よりも前に起こる可能性がある」──。アキリーノ米太平洋艦隊司令官(当時)は今年3月、台湾有事への危機感をこう表現した。狭い海を隔てて押し寄せる中国の脅威。情勢は緊迫する一方だ。この状況に正面から向き合わなければ、日本は戦後、経験したことのないような「危機」に直面することになるだろう。今、求められる必要な「備え」を徹底検証する。
※年号、肩書、年齢は掲載当時のもの

南沙諸島へ「海上民兵」を送り込む中国を、フィリピンは激しく非難している。だがドゥテルテ大統領は反米・親中派──。日本は、複雑なフィリピンの対中・対米観を理解する必要がある。

文・水谷竹秀(Takehide Mizutani)
ノンフィクションライター
1975年三重県生まれ。上智大学外国語学部卒業。新聞記者やカメラマンを経てフリーに。『日本を捨てた男たち』(集英社)で開高健ノンフィクション賞を受賞。

 南シナ海南沙諸島の領有権問題をめぐり、フィリピンと中国の緊張関係が再び高まっている。中西部のパラワン島から西に約320㌔離れたウィットサン礁周辺で、中国の「海上民兵」の船、約220隻が停泊していたためだ。停泊が確認されたのは3月7日。フィリピンは即時撤退を求めたが、中国側は2カ月近く停泊を続け、5月上旬現在、両国で非難合戦が繰り広げられている。

今年3月、ウィットサン礁付近に停泊している「海上民兵」とされる船団 (NTF-WPS VIA PCOO/AFP/AFLO)

 フィリピンのロレンザーナ国防相は、ウィットサン礁は排他的経済水域(EEZ)内に位置すると主張した上で、中国を非難した。

 「海上民兵が乗る中国船の停泊は、(南沙諸島を)軍事拠点化する明らかな挑発行為だ」

 これに対し、在フィリピン中国大使館は「海上民兵は存在しない」としてこう反論した。

 「中国の漁船は海が荒れていたために避難しただけだ。普通の対応だ」

 中国は、ウィットサン礁は南沙諸島を管轄する南沙区の一部だと主張。フィリピン側も譲らず、当日の天気は良好だとして抗議した。

 「悪天候であれば、中国船は隣り合って停泊しない。列をなすのは、船同士で水や燃料などの補給をしやすくし、長期間停泊する意図がある」

 フィリピン国軍は3月末、現場周辺を監視するための海軍艦船や航空機を派遣。4月5日には、外交ルートを通じて中国に再び抗議を行い、その1週間後にはフィリピン外務省が、黄渓連・在比中国大使を呼び出し、中国船の退去を正式に要請した。 

 ウィットサン礁周辺に停泊していた中国船は約220隻から大幅に減ったが、周辺に分散しただけで、依然として留まり続けている。

 そもそも中国船が停泊していた目的は不明である。『日刊まにら新聞』の石山永一朗編集長が約5年前、共同通信記者時代に南沙諸島をルポした経験を踏まえて説明する。

 「3~5月の南シナ海は凪いでおり、航海にはベストシーズン。『海上民兵』と言われているが、保護対象生物ながら中国で珍重されるオオシャコガイやウミガメを狙った密漁船団が混じっていた可能性もある」

 中国批判を繰り返したのはもっぱらフィリピンの閣僚だが、停泊が確認されてから1カ月半後の4月20日、ドゥテルテ大統領がついに沈黙を破った。

 「もし中国が(南シナ海で)石油やその他の天然資源を採掘したら、その時は行動に移す。軍艦を派遣する」

 その言葉通り、フィリピン沿岸警備隊は巡視艇を派遣し「撤退する気はない」と強気の姿勢だ。中国に対して弱腰だったドゥテルテ政権。態度を一変させた真意とは何だろうか。

対中宥和姿勢の背後に
経済依存とコロナ禍

 南沙諸島領有権問題をめぐり、近年、比中間で最も緊張が高まったのは、アキノ前政権下の2012年4月だ。ルソン島中部の西方沖約230㌔のスカボロー礁で、両国の艦船が2カ月以上にわたってにらみ合いを続けた。

 フィリピンは翌13年、オランダ・ハーグの仲裁裁判所に中国を相手取って提訴し、同裁判所は16年7月、南シナ海ほぼ全域に主権が及ぶと主張する中国の境界線「九段線」について「法的根拠はない」とする判断を下した。

 同年6月末に就任したドゥテルテ大統領は、元々反米だ。きっかけは、彼がミンダナオ島ダバオ市長時代の02年にさかのぼる。市内のホテルで爆破事件が起き、容疑者の米国人男性が負傷して病院に搬送された。ところが米連邦捜査局(FBI)によっていつの間にか本国へ移送されたと言われ、これが彼の逆鱗に触れたのだ。以来、反米感情が強く、大統領就任後間もなく訪問した中国では、習近平国家主席から約240億㌦という巨額の経済援助を引き出す代わりに、国際仲裁裁判所の判断を棚上げした。

 この親中路線は、南沙諸島での人工島建設を容易にし、中国の軍事拠点化を加速させたが、ドゥテルテ大統領は黙認してきた。昨年7月に行われた大統領施政方針演説では、あっさり「敗北宣言」をしたのだ。

 「比には中国ほどの軍事力がない。もし(中国と)戦争になるなら、対抗する余裕はない。他の大統領は可能かもしれないが、私は何の役にも立たない」

 この1週間後に大統領は、南シナ海で他国との合同演習に参加しないよう海軍に命じた。海軍はこの2カ月後、南シナ海で警戒・監視活動に当たる非武装のフィリピン版「海上民兵」を配備する計画を公表したが、間もなく大統領は資金不足を理由に当面凍結する方針を表明した。今年2月、中国が海警局に武器の使用を認めた「海警法」が施行された際も、ロクシン外相らが抗議はしたものの、ドゥテルテ大統領自身は態度を表明しなかった。

 こうした弱腰外交の背景に浮かび上がるのが、中国に対する経済依存だ。中国はフィリピンにとって最大の貿易相手国である。輸入元は中国が約23%を占めて断トツで、日本の約8%を凌ぐ。フィリピンへの観光客も韓国に次いで多い。

 中国からの開発援助も存在感を増しており、マニラ首都圏には現在、2本の橋の建設が急ピッチで進められている。このほかの大型借款案件は未知数だが、情報通信分野への投資も行われており、フィリピン経済にとって今や、中国は欠かせない存在なのだ。

 これに加えて、最近のフィリピン情勢を左右するのがコロナ外交だ。海事分野に詳しいフィリピン大学のバトンバカル教授は、こう言い切る。

 「大統領が今最も必要としているのはワクチンだ。中国からさらに入手することができれば、その実績は来年実施の大統領選の票につながる。典型的な政治的思考だ。だから中国を刺激する発言を避けてきたのではないか」

 フィリピンは3月に入ってから、新型コロナウイルスの変異株が発生して感染者が急増し、下旬には1日の感染者数が連日1万人を超えた。これまでに普及しているワクチンは主に中国シノバック社製。4月半ばに接種回数は100万回を超えたが、接種率は人口約1億人の1%に留まっている。

ドゥテルテ王朝は続くのか
フィリピンに向き合うには

 今回の中国船停泊で、表だって中国への批判を繰り返したのは、ロレンザーナ国防相とロクシン外相だ。この2人は親米派である。東アジアの国際政治を専門にするデ・ラサール大学のデ・カストロ教授がこう指摘する。

 「ドゥテルテ自身は習近平国家主席と良好な関係を築いているので、中国に面と向かって何か発言することは少ない。すべて側近が対応している」

 しかし中国への刺激を避けるなら、閣僚の発言も控え目になるだろう。つまり国防相と外相の中国批判は、大統領からのお墨付きを得ている可能性がある。この点についてデ・カストロ教授は、来年5月の大統領選を見据えたパフォーマンスだと分析する。

 「『中国の操り人形ではない』という姿勢を野党や国民に示す必要がある。特に野党勢は、中国に対するドゥテルテの弱腰外交を批判しており、大統領が今回、沈黙を破ったのも、対外的な意図よりは、対内的な世論を意識した可能性が高い」

 フィリピン国民は親米反中の傾向が強い。民間調査機関の結果でも毎回、日米などに比べると、南シナ海問題の影響があるとはいえ、フィリピン国民の中国に対する信頼度は著しく低い。

 一方の対米関係では、フィリピンを訪問する米軍の法的地位について定めた訪問米軍地位協定(VFA)の破棄問題がくすぶっている。ドゥテルテ大統領は昨年2月、VFAの破棄を命じた。上院議員への米国査証発給拒否がその理由とみられるが、大統領のこの判断には親米派から反発の声が相次いだ。現在は破棄が一時的に凍結されているが、ドゥテルテ政権による中国批判は「米国から武器を調達する国軍内部の親米派にも配慮している側面がある」(デ・カストロ教授)という。

 次期大統領選では、ドゥテルテ大統領の長女で、父親のキャリアをなぞるようにダバオ市長の地位にあるサラ・ドゥテルテ氏が有力候補に挙がっている。サラ氏は現時点で出馬を否定しているが、ドゥテルテ大統領自身が16年の選挙でそうだったように、直前になって態度を一変させるかもしれない。

 ドゥテルテ大統領の直近の支持率は65%と、コロナ対応で落としたとはいえ依然高い。このまま与党が選挙戦に突入し、勝利を収めれば、親中路線は継承され、南シナ海において中国は実効支配を拡大し続けるだろう。

 では米国とともに「自由で開かれたインド太平洋」構想の実現を目指す日本は、どう向き合うべきか。バトンバカル教授は提言する。

 「フィリピンだけでなく、南沙諸島の領有権を主張するマレーシアなどと自衛隊の海上訓練を増やし、南シナ海における日本のプレゼンスを高めることだ。海洋に関連する多様な情報を集約・共有する『海洋状況把握』(MDA)で関係各国が連携を強化するのも重要である」

 日本はすでに、フィリピン沿岸警備隊に巡視船10隻を供与しているが、海上警備能力の強化に向けた支援の継続も求められるだろう。

 ドゥテルテ大統領は、麻薬撲滅戦争によって「暴君」のようなイメージが強いが、米中の狭間で微妙なバランスを取りながら外交を展開している。日本はその動向を見定めながら、フィリピンの対中・対米観を正しく汲み取った上で付き合っていく必要がある。

出典:Wedge 2021年6月号

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