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たとえる理由 - note と 「記憶の宮殿」


私はよく たとえ話 をします。

これまでに書いた note に関する記事でも、
毎回といって良いほど たとえ を用いています。

ストリートピアノをイメージした共同運営マガジン ”Street Note” や、
行きつけの喫茶店のように気軽に立ち寄れる場所を目指したサークル 「noteと過ごす1日」を作成したときも、そのアイデアは喩えから始まっています。

note におけるサポート機能はストリートパフォーマンスの投げ銭で、
有料記事は手づくり市の商品のようなものだと捉えています。

“Street Note” という共同運営マガジンをきっかけに始まった紹介合戦は、
ストリートピアノでの連弾 のような感覚であるとも書きました。


日常生活でも喩えをよく使います。

高校時代に生徒会長を務めていたときも、
全校集会などで人前に立って話すときには喩えをよく使っていて、
それが恒例行事のようになり、たとえ話が始まるたびに、会場が「その心は!」と言わんばかりの雰囲気になっていたのを覚えています。

仕事でプレゼンをするときも隙あらば たとえ話。
たとえ話から脱線して、雑談が盛り上がり、
あれ?何の話をしていたんだっけ?となったり、
たとえ話がマニアックすぎて、細かすぎて伝わらないたとえ話選手権になることも少なくありません(要改善?)。


こんな感じで たとえ話が好きです。
たとえ話を多用するのは、スマートではないかもしれませんが、
それでもメリットはあると思っています。
この記事では、私が たとえ話をする理由について書いてみたいと思います。


自分にとってわかりやすい


たとえ話はわかりやすいです。
聞いてくださる方にとって、というよりはむしろ自分にとって。

noteで記事を書くときも、人前で話すときも、
読み手・聞き手にわかり易い語りをすることが基本であるということは認識しています。

しかし、読み手・聞き手にとってのわかり易さというのは、
書き手・話し手がすぐに把握できるものではありません。

言葉が伝わったかどうかは、実際に読んだり聞いたりして頂いて、
その反応を受けて計ることができるものです。

わかり易い文章の書き方や話し方については、
書籍やネット記事から学ぶことができますが、
無限に考えられる たとえ話では、
どの たとえ話が伝わりやすいのかという判断ができません。

だから、ある意味開き直って(それで良いかはわかりませんが)、
自分にとって わかり易い喩えを採用します。

もちろん、ずっと自分中心で たとえ話を展開するわけではありません。

聴いてくださる方の反応をみて、
この喩えは失敗かと思えば、別の喩えに切り替えます。

また、共通認識のある話題を喩えに繋げるために、
その時々のトレンドを予習したりもします。

例えば、「丙午」で日本の出生数が大きく減少した話をした際には、
十干十二支の話題と関連づけて、『鬼滅の刃』に出てくる鬼殺隊の階級(甲乙丙丁……)の話をしたりしました。


でも、あくまで 喩えがわかり易いかどうかは、
実際に読んだり聴いて頂くまではわかりません。
それまでの判断基準は自分のなかにあります。

だから、「自分にとってわかりやすい」ことを第一にします。
それが他の誰かにとってもわかり易ければ御の字です。


記憶の宮殿を作りたい


自分の記憶に残りやすいということも、たとえ話のメリットです。

「記憶の宮殿」という記憶術があります。

以下のWikipediaでは、「記憶術の例 - 場所法」の項で説明されています。

場所(自宅や実際にある場所でも、架空の場所でも良く、体の部位に配置する方法もある)を思い浮かべ、そこに記憶したい対象を置く方法である。「記憶の宮殿」「ジャーニー法」「基礎結合法」とも呼ばれる。記憶したい対象を空間に並べていく方法である。人間は例えば他人の家に行った場合でも、どこに何があったかは比較的よく覚えており、その性質を利用する。記憶したい対象が抽象的なものの場合は、置換法を使い、イメージしやすい対象に変換してから記憶する。


私がこの記憶術を知ったのは、イギリス・BBC製作のテレビドラマ『SHERLOCK』がきっかけです。

とても面白いドラマです。
映像表現が見事で、ベネディクト・カンバーバッチ演じるシャーロックが捜査や推理をするときの描写がとても胸熱なのですが、
そのひとつに「記憶の宮殿」のシーンがあります。

上の画像はドラマに登場するものではありませんが、
このようにシャーロックの脳内には宮殿があり、
その一部屋一部屋に記憶が保管されているというイメージです。

ということで、シャーロックのような天才になれるとは思っていませんが、
場所法を自分なりに取り入れて、物事を身近なイメージと関連づけて記憶するということを意識してみています。


デジタル化された情報の管理には少し難しいところもあります。
紙の書類であれば、ファイリングしたり、本棚に整理したりすることを
直感的にできますが、データの整理ではフォルダ分けやタグ付けにひと工夫が必要です。

ほぼ無制限にデータを作成することができるので、
整理を怠ると溢れに溢れ、大変なことになります。

そこで場所法は有効でした。
実体のないデータを手に取ることのできる書類のように捉えると整理しやすくなります。

note のとらえ方も同様です。
そもそも note という名称が、ノートという馴染みのある文房具と同じなのも使いやすさの秘訣なのかもしれません。


たとえ話の危うさ


たとえ話には危うさもあります。

たとえ話では、本来伝えたいことを、別の物事に置き換えて説明をするため、伝えたいこと と たとえ話の間にズレが生じることがあります。

喩えた対象についてのイメージが、書き手・話し手と読み手・聞き手の間で異なっていたら、不本意にも不適切な喩えになってしまうかもしれません。

例えば、人を動物に喩えて褒めようとしたときに、
その人が苦手な動物に喩えてしまうと気まずい空気が流れます。

たとえ話から脱線して元々の話題が飛んでしまうのも、
時間の限られたプレゼンなどでは褒められたことではないでしょう。

そういった危うさを認識した上で、
たとえ話の良さをもう1つ書いて記事を締めくくりたいと思います。


喩えから広がる


たとえ話は話題を広げます。

学術用語や専門用語というのは厳密な定義を求めるため、
語義を極力限定して用いる場合が多いです。

論文等では拡大解釈によって論点がズレることを防ぐために、
序盤にしっかりと語句の用法を明記します。

日常的にたとえ話を多用する私も、
論文を書くときや研究発表をするときには比喩表現を封印します。

しかし、このズレは見方を変えれば話題の広がり。
日常会話や note では楽しみの一つであったりもします。

先日公開した note における連弾 についての記事(記事の引用を通じて新たな内容が展開されていく様子を、連弾やブラスバンドでの即興セッションに喩えた記事)に対して、いお様よりレスポンスを頂きました。

ユーフォ吹きの人だとのこと!
吹奏楽経験に基づいて、記事の内容について共感のお言葉を頂き、
とても嬉しく思います。


たとえ話には、一つの自己開示としての側面があると思います。
共通の経験・認識があってこそ、たとえ話は成立するもの。
自分の「記憶の宮殿」の一部を開放することでコミュニケーションが広がっていきます。


先日公開された芥川龍之介『地獄変』に関する記事も興味深く拝読致しました。


記事で言及されている「狂気」については私も関心があります。
大学の社会思想史や文化人類学の講義で「ポトラッチ」という慣行や、「ヤノマミ族」の精霊返しについて聴いたときのことを思い出しました。


最近では、映画『ミッドサマー』や同じくアリ・アスター監督による『ヘレディタリー 継承』の世界観に惹き込まれ、考察記事を読み漁ったりもしましたし、大好きなバンド King Gnu の 名曲 “Prayer X” のMVは何度も繰り返して観てしまいます。


そういう意味では、私も「狂気」を描いた作品が好きです。

ここで「狂気」について語るには、紙幅も文章力も足りませんが、
2つ私見を述べるならば「狂気と正気は紙一重なのかもしれない」「狂気には本質が隠れているのかもしれない」と考えています。


世の中には様々な信仰や伝統がありますが、
どれが正しいというものではありません。
うろ覚えですが、文化相対主義という立場もあります。

文化相対主義
人類学用語。人間の諸文化をそれぞれ独自の価値体系をもつ対等な存在としてとらえる態度,研究方法のこと。みずからの文化を,唯一・最高のものとして考えるエスノセントリズム (自民族中心主義) に対する批判として形成された概念で,アメリカの人類学者 F.ボアズが提唱し,R.ベネディクトによって確立されたといわれる。


私たちの感覚からしたら「狂気」と思えるようなことも、
その文化に生きる人々にとっては「正気」であるはずだし、
私たちが普段何気なくしていることも、
異なる文化から見れば「狂気」なのかもしれません。

豚肉、牛肉、海苔、タコ……
日本の食卓に当たり前のように並ぶ食材も、
海外では、え、食べちゃうの?と思われるように。


様々な文化があり、それぞれに理由がある。
「狂気」の理由を知ると、それは私たちが「正気」と捉える感覚と連続しているのかもしれない。「正気」も極まると「狂気」に見えるかもしれない。

上記のいお様の記事は、見事に狂気の中身を紐解いていらっしゃいます。
ぜひ、ご一読を。

文学に疎い私も、興味・関心の幅が広がったように感じます。

様々なクリエイターが共存する note という世界。
ある専門分野を極めていくことも素晴らしいことですが、
門戸を開いて様々な文化・価値観に触れることができるのもまた醍醐味です。

これからも note での旅を楽しんで、
記憶の宮殿にたくさんのお土産を持ち帰りたいと思います。


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