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【 30日間アーカイブ視聴できます 】 2/28(月)まっすーさん、ネドじゅんさんとおしゃべり


日時: 
2022年2月28日月曜日 pm13:00〜

場所: 
Twitterスペース(音声ライブ機能)
※ 当日より30日間アーカイブ視聴できるそうです。

https://twitter.com/i/spaces/1OdJrBNDXvyJX

枡田智(まっすー)さん

@マインドフル筋を鍛えるツイート
https://twitter.com/MasudaAkira6
https://linktr.ee/MasudaAkira6

ネドじゅん さん

https://twitter.com/nedojun3nou
note https://note.com/nedo_jun

※ ネドじゅんさんとは、去年にもTwitterスペースでおしゃべりさせてもらいました!▶︎ 2021.10/13 「 左脳さん、右脳さん。:あなたにも体感できる意識変容の5ステップ」の著者ネドじゅんさんにいろいろ聞いてみた  https://anchor.fm/wrsayaka/episodes/2021-1013-e18nhut

本日のまえおき

「しっている・わかっている世界に生きている住人」


たとえば、わたしは

いま、どこにいるか「しっている」 
自分がなぜ、ここに存在しているのか「しっている」 
お父さんお母さんから生まれてきたと「しっている」
自分の顔はどんな顔か

「しっている・わかっている」

とおもっています。

ことの発端は

踊りを踊られている田中泯さんのコトバ
(実際はツイッターの田中泯さんbotのつぶやき)

「 踊りはライブでしか語ることはできないです。絶対に映像にならないです。 」


わたしは 

その「絶対に映像にはならない踊りの映像」でみて
「踊りをみた」 と言います。

歴史の教科書で勉強したから
「世界で起きたことをしっている」 と言います。

鏡にうつる自分の顔をみて
「自分の顔をしっている」 と言います。

ネドじゅんさんのお茶会で まっすーさんが
「 ダグラス・ハーティングの指差し実験 」をしたんだと聞きました。

「じぶんのからだ」で見える部分( たとえば、膝を指差して )「これは、なに?」「膝です」などとやっていって、最終的に「自分の顔」とよばれる部分を指して「これは、なに?」と問うやつです。

いま、わたしは、
わたしの顔を「憶測・想像上」でしか、しりません。

いま、このあたりに「じぶんの顔」があるんだ
ということを「概念」でしか、しりません。

なぜなら、いまここ、直接、確認されてないからです。

つまり「 わかりません 」

この「わからない」ということを、知らない

自分は「しっている」とおもっています。


「あの人がこんなことを言った」
「歴史上のあの人がこんなことをした」
「人間はこのように進化して、いまに至っている」
「ニュースで流れる今日の出来事」

実際に見ても聞いてもいなことは、
いまここに「情報」として現れている(だけです。)

そんなふうな

「しっている・わかっているとおもっている世界」に生きている。

この「わからない」ことを「しっている」とおもっている、、、この状態のことを「 夢 」と表現されているのかもしれません。

これは いろんなレベル でいえることです。

知っていることは、とても表面的な「切り取られた一部」なのですが
「それがすべて、全部、ホント」だとおもっています。

自我(じぶん)というのも「与えられた概念」です。

映画「マトリックス」でいったら「マトリックスというプログラミングの中」で、そのプログラミングという夢を「現実」だとおもって生きている住人です。

 #般若心経 の 
色即是空 空即是色 でいう「色の世界」

ライブは映像にはならないの「映像の世界」

ロシア人のゲオルギイ・グルジエフという人が、この状態で生きる人間のことを「 機械人間 」と表現しています。その状態( =いわゆる色の状態 )から目を覚ますプログラムを「切断プログラム」とよんでいるみたいです。

わたしは、この、とても狭く限られた
「しっている・わかっている」という世界で遊んでいます

そして、そのことに無意識です。
「 夢なんだと気づいていない夢 」です。

もし、それについて「気づいても」
「このしっている世界」を選ぶだろうか?


もし、意識的であっても「これ」を選ぶだろうか?


という問いには

答えがあるわけではなくて、選択でしかないようです。


映画マトリックスでいうところの

「 赤いピルを飲むか、青いピルを飲むか?」

というあれです。

この「しっている世界」から出る方法が
まっすーさんの マインドフルネス だし、

そして、ネドじゅんさんの次回作

「 次の人類 悟りの先に進化はあるか 」

のお話ともつながっておるぞーーーというところで、きょうは、そんな話ができたらなとおもいます。



ことの経緯は、、、


「 今朝、浮かんだこと。」

それをネドじゅんさん、まっすーさんに聞いてもらったのがはじまりです。それについては音声メモもしているので、よかったら、ご参照ください。

 #音声配信 #スタエフ
知っている、わかっているという「与えられたもの」 
https://stand.fm/episodes/62196b65357eee0006d16678

要は、、、こんな話でした。

わたしが「わかっている」とおもっているものって、
すべて与えられた「わかった・知っている」

「概念ーわかったー知っている」すべて。。。

この「わかった=知ってる=概念=ストーリー」は
すべて「与えられたもの」なんですけど、
実際はそんなものはなかったりする
= いまここに「ない」 直接確認でき「ない」

非二元ノンデュアリティ的な表現としてでてくる
「 フランスはない (←国名はなんでもいい)   」

ダグラス・ハーティングの
自分の顔を指差して「じゃあ、これは?」と問う実験

目は目自身を見ることができない

「自分の顔」も直接みたことはありません

、、、とかとか、そんなハナシです。

わたしが「しっている・わかっている・真実・ほんと」として扱っているものほぼすべて「又聞き情報」でしかなく、そこから「そのように想像したもの」、、、

それを差し引いてしまうと、
なにも「わからない」

ということだけが明らかになります

この「わからない」に気づかないと、、、、
または「知っている」という状態にいる限りは、


その「知っている世界の住人」である

わたしたちは、とても狭く限られた
「しっている・わかっている」世界で遊んでいる

もし、それについて意識的になったとしても
「この世界の住人」であることを選ぶのか?

、、、みたいな

ちょっと 映画マトリックス のようなハナシ

キーワードとしては

#シュレディンガーの猫

#観測者効果

です。

ウェルカムレイン☆サヤカ http://sky.holy.jp

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