6:福祉について考える。


5:三事業所を通して
https://note.mu/welfare/n/n28552291792f



6:福祉について考える。

これまで僕の所属する福祉事業所について考えてきた。
「利用者」と「支援者」の関係性。その方向性。
それら一つ一つが何か答えを含む哲学的な変遷を追ってきたように思う。
最後に、そのおおもとの「福祉」について考えたい。

「福祉」の「福」も「祉」も、どちらも「幸福」を意味している。
なので「福祉」とは幸福を意味する、
はずであるのだが、社会的に見ると、必ずしもそうとは限らない。
生活保護法や生存権では、
福祉とは、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」
という意味合いで使われている。
字が示す「幸せ」なはずの福祉は、
最低限度のニュアンスを多く含んでいる。
多くの人が「福祉って介護ってイメージがある」と語る時に、
言いたいことは伝わるのだけれど、
「そもそもどうして福祉って
 そんなにも限定的な捉え方がされているのだろう」
と首をかしげるような部分があった。
確かに僕にもそういう見方をしていた頃もあった。
その先入観を辿ると福祉の仕事にまつわる否定的な印象は、
この制度から発せられるメッセージを発端にしているような気がする。
これは日本の話で、もう少し広く「福祉」を見ると、どうなるのだろう。

これを英語にすると、その意味はまるで変ってくる。「福祉」とは「wellfare」と言われる。
「Well」―「fare」、
「平等」に「良い状態」をもたらす
取り組み全般というような意味合いになっているこの言葉が、
福祉と訳される。
「wellfare」の目指すものは「well-being」とされている。
目指すべきは「よくある状態」だと。
満足や充足感といった、満たされている状態を目指す言葉になっている。

「最低限度」ではなく、「幸福」だと。
どちらが劣っていて、
どちらが優れているという話ではなく、
両者の価値観の違いには歴史的経緯があり、
その文脈を理解しないと、先入観へと繋がってしまう気がする。

ざっくり言うと、福祉と宗教は関係があったし、
それは戦争とも関連があった。
そこには歴史が存在するという話なのだ。
戦争の被害者は障害を持つだろうし、
そういった反省と人権は切り離せないし、そして福祉もまた、関連がある。

前に、善悪の判断の基準の最高峰は憲法に寄る。
という話をしたけれど、これはあくまで日本という国のスケールの話だ。
これを世界のスタンダードから見るならば、その最高峰は人権だと思う。
これは法律の話ではなく、国際連合が採択した、
国際人権宣言に基づく人権の話。

福祉と人権との関連で話をすると、人としての幸せを考えた時、
すべての人が人としてあるために認められるべき権利と、
人が等しく平等に良い状態を目指す在り方というのは
鏡写しのように重なって見える。

これはあくまで福祉について論じるもので、
歴史について語るものではないので詳細は省くけれど、
福祉に携わる人が全て
福祉の用語や歴史的な背景を理解するべきとは思わない。
実際、福祉の学がなくても、
熱意と想像力による創意工夫で利用者に寄り添う支援者は
現在もどこかの現場で奮闘し、素晴らしい支援をしている。
けれどもこの福祉観とでもいえる意味を理解した上で、
福祉に携わるか否かでは、
仕事への目指す地点がそもそも変わってくるのではないか。
たとえ日本がその地点と合致していないとしても。
より高い理念は、行動原理そのものを変える。

子どもの権利条約では、遊びとは成長に必要な権利だとうたわれている。
遊びを自分勝手なわがままと捉えるのか、
それを成長に必要な権利と思うかでは、
捉え方は大きく変わってくるだろうし、
言うことをきかせる対象として不完全な子どもだとして関わるのと、
最善の利益を考慮し、権利を持つ完成された子供として見るのとでは、
支援者の姿勢はまるで変わってくるのではないだろうか。

自分の働き方として、その在り方を目指すなら、
支援の先にあるのは人としての尊厳や普遍的な生活の実現に直結する。
専門用語でいうと、
ノーマライゼーションだったりソーシャルインクルージョンだったりする。福祉とは幸福である。そのためのサービスが支援である。
僕はそのように解釈したい。少なくても生きることが権利というならば、
ただ生きればいいというものではないはず。どのように生きていくか。
当然中身が問われることになる。
生きて、成長し、老いていく。働き、出産し、結婚する。
時には介護をし、仕事を失い、子育てもする。
そうしたことの全ては生きる中で自然に訪れる変化であり、必要な営みだ。それらすべては、
当事者の「自分らしさ」の実現のための軌跡であってほしいと思う。
きっと誰もがそう思う。

自己実現のための人生であり、生きるということが、
すでに一つの自己実現を含んでいる。
そういうことの中に、福祉というものは息づいている。
少なくても、対象となる利用者によって、あるいは行政と民間によって、
一括りに仕切られるようなものではない。
福祉を問うならば、幸福について問いたい。
支援を問うならば、理想を問いたい。理想と現実は乖離するのが常だ。
しかしその中でどうやって橋を架け、渡っていくのか、
その歩みは利用者の意思と歩みによってでしか実現されない。
その可能性を支えるのが支援だ。
どうか「仕事」という責務の重さに「幸福」を見失わないでほしいと思う。福祉とは生きることそのものを指している。
より良い支援を目指すことは、
より良い生き方を模索することと同じではないか。

さきほど触れたけれどノーマライゼーション、という考え方がある。
普通の生活を目指す社会の在り方を目指すこの理念は、
けれどもあるだけで国全体に浸透していかないと実現はされていかない。
そう考えていくと、福祉施設の従事者は、
社会福祉関連法で位置づけられているから、見方を変えると、
すべてその法律の体現者ということになる。
いわば、人権の履行者だ。
支援者一人一人が努力したところで
社会が変わるのかと言えば分からないけれど、
でもその権利とか理念の実現は間違いなく我々、
支援者の手にあるのだと思う。

五章:軌跡を振り返る
1:価値観と支援観の繋がり
https://note.com/welfare/n/n102cc3be432a?magazine_key=m8d74f67f43fb


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?