『オッペンハイマー』と崇高な対象
クリストファー・ノーラン監督が手がけ、第96回アカデミー賞で作品賞や監督賞を含む7部門を受賞した『オッペンハイマー』。3月29日から日本での公開が始まったこの作品について、ラカン派精神分析の視角から縦横無尽に映画を/も論じるスラヴォイ・ジジェクのように考察することを試みたい。以下は『オッペンハイマー』鑑賞後に読まれることを想定し、作品自体の説明は深くせず、(伝記映画ではあるが、具体的なシーンを参照するという意味で)ネタバレ含め記載する。
『オッペンハイマー』制作前の問い
この作品に対する私的考察の焦点を絞るために、ノーラン監督がオッペンハイマーを題材とした映画を制作するに至った動機を参照する。配給のビターズ・エンドが公開しているインタビューと、NHKによるクローズアップ現代 取材ノートでは、以下のように語られている。
要約すると、“全世界を破壊してしまう可能性があったにもかかわらず、なぜ、オッペンハイマーと仲間の科学者たちはトリニティ実験をおこなったのか”という問いが、ノーラン監督が『オッペンハイマー』の制作へと駆り立てたのだろう。
この問いについて、『オッペンハイマー』を二度鑑賞した私がラカン派精神分析の視角を借りて答えるなら、次のようになる。“オッペンハイマーと仲間の科学者たちは、崇高な対象の実体を明らかにするためにトリニティ実験をおこなったのだ”、と。
以下、「全世界を破壊してしまう可能性」を入り口として、「崇高な対象」を含む結論に至るまでを、順を追って考察する。
ユーモア
トリニティ実験のために豪雨が止むのを待つあいだ、フェルミが爆発規模の賭けを募っているなかで「大気の発火 atmospheric ignition」のことを発言し、科学者たちのみが笑う。南観測所への移動後、その意味するところを聞いたグローヴスに対して、オッペンハイマーは「絞首台のユーモア gallows humour」だと答えた(日本語字幕では「ブラックユーモア」と表記)。この直後の会話で、グローヴスは原子爆弾が全世界を破壊してしまう可能性、「ほぼゼロ near zero」のことを初めて知ることとなる。
では、なぜこのタイミングで、このようなユーモアが出てきたのか(絞首台のユーモアだとオッペンハイマーは捉えたのか)。このオッペンハイマーの返しは、作中で彼も読んでいたことがわかるジークムント・フロイトを参照しているはずである。それを理解するために、アレンカ・ジュパンチッチの説明を以下に引用する。
つまり、オッペンハイマーと仲間の科学者たちはトリニティ実験で〈もの〉と近接していたために、ユーモアを出し、笑ったのである。
〈もの〉
〈もの〉という概念とは何かを理解するために、次はスラヴォイ・ジジェクの説明を以下に引用する。(〈もの〉と〈物自体〉は同義としてお読みいただきたい。)
専門用語の多い込み入った文章のため、平易な文章へと大胆に書き換えてみたい。
〈もの〉とは、主体が決して獲得できない(=不可能な)実体である。
不可能な〈もの〉に向けてしまう欲望が、享楽(あるいは欲動)である。
“身の回りの対象”が、“あるきっかけ”で、〈もの〉の気高さまで高められる。
〈もの〉の気高さまで高められた対象は、“崇高な対象”と見なされる。
〈もの〉の具現化である崇高な対象は、“中途半端な状態”に映る。
“崇高な対象の実体を明らかしようとする”と、対象は消え、“痕跡”のみ残る。
以上の説明を踏まえると、オッペンハイマーと仲間の科学者たちは崇高な対象と向き合うことを経由して、不可能な〈もの〉に享楽していたように考えられる。
崇高な対象
では、オッペンハイマーと仲間の科学者たちが向き合っていた崇高な対象、そしてその周辺にある要素とは何だったのか。私が考察した結果が、以下の一覧である。(上記の箇条書きの“太字箇所”に対応している。)
“身の回りの対象”:戦争を止めるための原子爆弾開発=マンハッタン計画
“あるきっかけ”:テラーの指摘に対する再計算、「理論だけでは限界がある」
“崇高な対象”:全世界を破壊する(可能性のある)「装置 Gadget」開発
“中途半端な状態”:全世界を破壊する可能性は「ほぼゼロ」
“崇高な対象の実体を明らかしようとする”:トリニティ実験
“痕跡”:「兵器 weapon」としての原子爆弾が存在する世界
ここでようやく、冒頭で述べた結論、“オッペンハイマーと仲間の科学者たちは、崇高な対象の実体を明らかにするためにトリニティ実験を決行した”の意図するところ、その文脈を理解いただけたのではないかと思う。
なお、崇高な対象として挙げた「Gadget」とは、『オッペンハイマー』撮影時点の脚本に記載されたタイトルでもある。(インターネット上でアクセスできるFINAL Shooting Scriptによる。公式的な情報源は見当たらなかった。)
責任
『哀れなるものたち』のnote記事ではそのラストシーンを「倫理的行為」と関連づけて考察したが、(「倫理」がカントの示す意味合いであることを十分に認識したうえで、)オッペンハイマーと仲間の科学者たちがトリニティ実験を決行したこともまた、道徳律=義務にただ従う、自由の遂行、つまり倫理的行為として考察できるかもしれない。そうだとしたら、以下のジュパンチッチの説明は、最後の場面でアインシュタインがオッペンハイマーにかけた言葉と重なるだろう。
追書:3月25日のTokyoプレミアで一度目を観て以降、映画の内容をどんな言葉で理解したらいいのか、そのもやもやが頭の片隅にあり続けた結果、たまらず3月29日に二度目を観た。それから丸一日考えて続けて、この記事を書き終えた。理論や他人の言葉を借りて、距離を持ち込むようにしか受け止められないのが、正直な今の心境だ。ノーラン監督は以下のように述べているが、あなたはどう受け取っただろうか?
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