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健康における人間性の回復を目指して

ヒューマニティ、というのは最近のトレンドというか、本来目指す人間のあるべき姿である。工業や産業の発展によって、我々は豊かさを得たが、それと同時に機械的労働が増えた。学校はチャイムが鳴れば皆遊び時間は終わり、17時すぎには仕事終わりの電車は混み、工場前の道路は混雑する。効率的な工業管理は、人間の管理も例外ではない。

しかしこのような管理をされることが当たり前ではなくなった。昔はそれでしか産業発展がないように思えたが、現代はその認識が改められたのだろう、随分とこういったしばりはなくなり、少なくとも自由な方向へ向かっているのだろうと思う。

人間性と健康

さて、本題に入ろう。私たちは仕事、プライベートなど多くの面で人間性の回復が見られるだろう。しかし仕事+プライベート=生活ではない。私たちの行動にはさまざまな要因があり、それはこの二つでは考えることができないはずである。

ここではその要因として健康を考える。健康とは多くの人にとって仕事でもプライベートでもない領域、しかし全てに関わる領域である。直接的な考慮はないかもしれないが、いやでも関わってくる領域である。
さて、そんな健康はヒューマニティの側に立っているだろうか。私は現状そうではないと思う。病院も薬も、単純に使うならばそれは身体維持工場や潤滑油であり、我々は働く機械である。プライベートにおいても経済循環装置と考えるとこれもまた社会の機械でしかない。
いささか悲観的すぎるかもしれない。だがしかし我々が健康を求めるシチュエーションは何であろうか。家族と一緒にいたい、長生きをしたい、仕事を続けたい。パーソナルトレーナーとしてはそういったことはもちろん応援したい。しかし、それには一つ問題がある。

健康は生活を便利にする道具ではないか?

病院も処方される薬もジムへトレーニングに行くのも公園をジョギングするのも、何かしら目的づけられているのではないだろうか。これら行為をヒューマニティと捉えるのではなく、そもそもヒューマニティを達成するための道具としての健康の面が強いのではないだろうか。そうであれば結局ヒューマニティ製造のための機械的管理という不思議な構図が出来上がる。映画『マトリックス』で自分の世界が本当の世界と勘違いするように、ヒューマニティの溢れた世界で機械的健康管理社会が生まれるだろう。

健康的活動は省略されるべきか

ここで批判している工業はヒューマニティの側に立っていたはずである。人間の手作業による工場はすでに存在していた。そこへ機械が参入することにより、人間一人当たりの生産量は増え、時間は短縮され、本来であれば自由な時間が、すなわち人間性のための時間が増えたはずである。しかし実際はそうではなく、同じ時間で生産量が増え、拘束時間は変わらなかった。

しかし健康においてはそうではない。個人を考えた場合、健康の生産目標、すなわち「どのぐらい健康になったか」というのは上限が存在する。その上限に対してどれだけ早く生産できるか(健康になれるか)というのが工業的健康である。
例えば風邪をひいた時、薬もない時代は自然治癒に任せるしかなかったが現代では処方された薬を飲めば最短で明日にでも治る。すなわち健康治癒行為は省略されたことになる。
ジョギングやトレーニングもそうである。日常が効率化されることにより日々の運動量が下がる。それを補うため、効率的な運動を行う。日常所作を省略することに成功している。

つまり健康的所作は効率化が図られている。これは人間性に根ざしたものではないからであろうか。

ヒューマニティとアニマリティ

私の好きな言葉の一つに、次のようなものがある。

無駄な量を食って、それをただ無益な運動で消費するランニングは生物学的におかしい。

確か生物学者が言ってたはずだったが、誰が言っていたかは忘れてしまった。よくあることであるがこの「生物学的におかしい」という単語はたびたび批判を受けるフレーズである。これは人間の活動が生物学に当てはまらず使われるものであるが、人間の活動を批判的に捉えているためそれはもちろん人間が批判するだろう。

しかしここで気になる点がある。
上記の理屈でいくならば、人間的活動、すなわちヒューマニティと生物学的というものは対になりやすい関係であることである。そういえば生物学的というものはおおよそ理解が及ぶが、ヒューマニティとは一体何であろうか。

ヒューマニティ、人間性は主にポジティブな言葉として使われる。それは機械的な管理からの脱却という、自由、創造的活動へ充てることができるという意味であろう。
たまにこのヒューマニティという言葉に批判がある。それは「私利私欲なども人間らしさではないか」ということだ。いささか重箱の隅をつつくような指摘だと私は思うが、これをアニマリティと呼ぶことにする。ケインズの経済学において「アニマルスピリット」、つまり野心的という言葉が出てくる。つまり動物的に根ざした欲のことだと私は思う。
兎にも角にも、ヒューマニティ、すなわち人間性というのは一枚岩ではないことがわかる。

動物的に根ざした、つまり人間特有なものではないこの要素というのはまさに生物学的ではないだろうか。つまり生物学的というものと人間性というものは共存しうる要素がある。決して人間性と生物学というのは対比構造にない。上記の言葉も、確かに生物学的でないかもしれないがランニングなどが決してヒューマニティかと言われると疑問に残る。これはヒューマニティの言葉の曖昧さもあるわけであるが。
つまりこの言葉で批判しているのは、人間的でないことではなく、機械的であることではないだろうか。いつの間にか食べ過ぎてしまい、それに対してランニングをする。確かに自然的行動ではあるが、どこか管理的である。


ヒューマニティに根ざした健康とは

結果として、ヒューマニティに根ざした健康とは何であろうか。先ほど議論した通りヒューマニティは生物学性と共通項があり、さらにそこに「人間特有な創造的なもの」が加えられたものであろう。どちらの言葉も機械的とは対極に立っている。すなわち機械的脱却である。この機械的脱却はもちろん健康の道具性からの脱却も含めている。

まず重要なのは、先述のとおり工業的なものは省略を行っている。それは非人間的、機械的な作業を効率化し人間性を高めるためであった。それに対してヒューマニティはそもそもその行動自体が人間性であり、省略する必要はない。すなわち健康という目的ではなく、健康そのものを楽しむこと、それが大事になる。また、アニマリティであることも忘れてはいけない。私もウェイトトレーニングなどは好きで、そういった効率的なトレーニングはいい。なんだかんだ言っても一日の活動量を増やすのは簡単ではないし、まとめて効率的にトレーニングしたほうがいい、すなわち工業的な意味合いは抜け出せない。しかし私はトレーニングを楽しんでいる。トレーニングしなくても健康になれると言われてもトレーニングするだろう。ここに関しては決して省略を求めたわけではない。
また、例外的であるがこの省略の過程を楽しむこともよくある話だ。IT系の友人と話すと「システムの最適化、高速化が楽しくて時間が過ぎていく」と聞く。普通であれば時間の省略なのに時間かけて何してるんだということだが、その過程は彼は楽しいようなのでいいのではないだろうか。決して効率を目指さないことがヒューマニティではない。ヒューマニティとは、省略したら寂しくなってしまうような、実は心の中で重要な位置づけをしているかではないだろうか。

健康というもの、健康的な活動は、あなたにとってどういった位置づけだろうか。修行のように耐えながら行うものか、遠い未来の喜びのためか、それとも生命維持のためか。

健康そのもの、健康的行動、それぞれにおいて個々人にとって重要な位置づけがなされている、これが健康のヒューマニティではないだろうか。


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