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【エッセイ】 好きなひとの好きなもの

彼はライフスタイル雑誌の編集者だった。
学生時代は映画を制作していたほど、映画が好きで、小説が好きで、漫画が好きだという。
美しいものをそのまま「美しい」といい、かわいいものを「かわいい」といい、素敵なものを「すてきだ」という人だった。

31年間生きてきて、私が好きなものを人と共有できたと思えたのは、彼がはじめてだった。

昔からガリ勉のくせにサブカルの興味だけ人一倍強かった私は、中学生の時にはFMラジオに張り付いて、洋楽と邦楽の最新曲から70-80年代の洋楽まで、ジャンルも年代も問わずに何でも摂取した。当時好きだった音楽はOasisのLylaであり、Micheal JacksonのRock with youであり、Bee GeesのHow deep is your loveだった。
海外かぶれの母の影響で当時は月額5000円ほどするWOWOWと、BS NHKに自由にアクセスできたがゆえに、同級生が誰も見ていないような海外ドラマにどっぷりハマった。
同級生が週刊少年ジャンプのテニスの王子様に各々の推しを見出しているなか、私が本当に好きなものを共有できる人は周りに誰もいなかった。
今でこそ海外ドラマはネットで簡単にアクセスできるけど、私が中学生だった15-20年前は海外ドラマが簡単に見れる環境にいる人はそうそういなかった。当時の友人たちにはダビングした『Grey’s Anatomy』のDVDを渡したけれど、彼女たちの好みとは違ったようで、いつも生半可な感想が返ってきた。

東京大学の工学部に進学した私は、ますます自分のサブカル嗜好を共有できる人を見つけられなかった。

勉強には時間がかかる。それも圧倒的な時間が。どんなにギフテッドな天才でも、理系の専門知識を習得するための時間は省略できない。
だから当時の全ての東大生が好む音楽はMr.Childrenであった。サブカルの嗜好を深める時間を、普通の東大生は待ち合わせていない。
同級生が好きな小説は当時映画化された直後の、例えば有川浩の『阪急電車』か、東野圭吾のいつもの何かの小説だし、好きな映画は『アバター』だった。

なんなら小説も映画も音楽も彼らには必要ない。彼らはテニス部で、アメフト部で、サッカー部で、東大生足る勉強ができることはもちろんのこと、スポーツまで完璧で、華々しい学歴に健全な体力と交友関係を携えて、大企業や国の省庁で働くか、医者や弁護士になっていく。

人生に挫折をしたことがない人は、創作物に救いを求めたりしない。
映画はデートの暇つぶしに見るものであり、音楽はカラオケの場を盛り上げるために、皆んなと同じものを知っている必要がある。
彼らにとって、創作物は、会社の同僚や後輩と当たり障りのない雑談の間を埋めるための話題作りにすぎない。
誰にも共有できない孤独についてどうにか答えを探そうと、すがりつく思いで創作物にアクセスする人間がいることを、彼らは知らない。

好きなものを人と共有することなんか諦めていた。
ましてや私の好みは、女性的すぎる洋服やアクセサリー、ビーズやスパンコール、刺繍、海外メーカーのインテリア、ワインとケーキ、フェミニズム要素たっぷりの海外ドラマ、外国人料理家の料理番組に、女性作家の書く繊細で可憐な恋愛小説。

昔の恋人には「わからない」と言われたこともある。「僕はおしゃれじゃないからわからない」と。
そんなふうに31歳まで生きてきた私は、自分の好みは人に共有するものではないと思っていたし、人の好きなものに対しても大して敬意を払うこともなかった。

彼は私が聞いたこともないような邦画を好む人だった。お金がなくて漫画を揃えられなかったから、学生の頃はクーラーのないコンセントも半壊した部屋で小説を読んでいた、一番好きな映画は『海がきこえる』だと言った。

綿矢りさの小説を好むという男性に会ったのは、彼が初めてだった。全部持ってる、と。
『生のみ生のままで』の冒頭が”美しかった”、と彼は言った。「青い日射しは肌を灼き、君の瞳も染め上げて」、「私の気持ちは瓶詰めされたままだ」という表現が、”美しかった”、と彼は言った。

私は、“美しい”という言葉を照れずに声に出していう人を初めてみた。”美しい”って話し言葉だったんだ、そう思った。
家に帰って読み返してみたその小説の冒頭は、私が知っている小説の中で最も美しい 1ページ目だった。

一方、私は彼が好きだというものにあまり敬意を払えなかった。
『海がきこえる』の表紙画にはジブリ特有の性癖を感じると言い放ち、あとあと知ったことだが、彼の思い出のエヴァンゲリオンの絵について嫌いだと言っていた。彼が良かったと言った小説『自転しながら公転する』は全く好きになれなかったと答えた。私の出身地に合わせて話そうとしてくれた彼の神戸旅行の話について、私はほとんど神戸には行ったことがないと切り返した。
料理の雑誌を作っている彼に、自分が家で作っている料理を答えなかったし、最近作ったキャロットケーキの写真を見せることを拒んだ。好きな料理研究家がいたけどその話は切り出せなかった。
彼に買ってもらった本はどうしてだか全くページが進まなかった。

彼が自分のことを話すたび、なぜだか私は自分が彼と釣り合っていないと感じて、ずっと逃げ出したい気持ちになった。

彼はサブカルの趣味を突き詰めて、雑誌編集の仕事に就いているような人だ。素敵なものに囲まれて、本や漫画や映画が好きな人が周りに沢山いて、好きなものをだれかと共有しながら生きてきたのだろう。
美しいものを紹介するライフスタイル雑誌を作っている彼にとって、”美しい”なんて言葉は日常に飛び交っている当たり前の光景のはずだ。LINEだって1秒で既読がついて、素敵な言葉がぽんぽんと送られてくる。

彼とは結局、3回会ったあと音信不通になった。

彼の方から付き合おうと言ってきたはずだけど、その直後に冷静になってそれが間違いだと気付いたのか、私のおかしな精神状態を察して離れたのか、私と彼との経験レベルの差に嫌気がさしたか、あるいはそのすべてか。

あのあと私は何度か彼にメッセージを送ったが、返信が来ることはなかった。だから彼が本当のところ何を思ったのかはもう分からない。ただ私はあっけなくフラれたのだ。

私は彼にフラれたことを理解したときから、俄然彼のことが知りたくなった。
ネット配信されていない『海がきこえる』を見るために、このネット配信最盛期の2023年において、私はTSUTAYAの店頭に出向いて新規会員登録をして、Blu-rayプレーヤーを購入した。
『海がきこえる』は、宮崎駿監督のジブリ作品特有のうっすらとしたペドフィリアの要素は一切なくて、音楽も映像もなにもかもが美しい、可憐でささやかな青春映画だった。

七尾旅人のTelepotionは、恋愛の焦燥感を歌う青春の象徴だった。

彼が良かったと何度も言っていた、川上未映子の『夏物語』は、美しくて繊細な文章で紡がれる、女性の自己決定権と生殖がテーマの私が大好きな種類の小説だった。

感想が言いたいし、彼が好きなものをもっと教えてほしくてたまらない。どうして彼と関係が続いている間にこれができなかったのか、自分でもわからない。彼とはもう二度と会うことも、連絡をすることもできない。

私はあの直後から、誰かに自分の好きなものを共有したくてたまらなくなった。
綿矢りさの話がしたい。今大好きな海外ドラマ、Sex EducationとMarvelous Mrs. Maiselの話を大声でしたい。グランドブダペストホテルのあのピンクのホテルは、絶対にインドのジャイプールのハワー・マハルをモデルにしていると思うから、今一番行きたい国はインドだという話を人にしたくて仕方がない。

それから、私が経験したこの一夏の出来事を聞いて欲しくて仕方がなくて、こうしてブログを始めた。
小説の話を、”美しい”言葉の話を、自分が好きなものの話を、誰かと共有したいという気持ちを、今ではもう抑えることができない。

彼にフラれたあと、私は意図的に綿矢りさの小説の話を男性にした。もともと好みが合う男性もいたし、そうではない3人の男性たちは、『勝手にふるえてろ』を私の目の前で購入してくれた。翌日にすぐに感想を教えてくれた人もいた。

だけど、「君の瞳を染め上げて」を”美しい”と言う男性に会うことは二度とできない。人に言われてうれしい言葉が「働きものだね」で、『海がきこえる』が一番好きな映画だという人間は、私の前にはもう二度と現れない。

同じ人間がこの世に二人といないという事実が、悲しくてさみしくて仕方がない。
どうして恋愛関係は1か100かの極端な関係しか許されなくて、たとえ完璧でなくても、例えば50とか60とかでもいいから、その人のいいところだけでつながるような、そんな友達みたいな関係が許されないのだろう。どうして恋愛関係には必ず「別れ」の可能性を内包させなければいけないのだろう。そんなことを昔からたまに考える。


人生は長い。
私はこの先、あまりにも少ない彼の思い出と、私の中に起こったあまりにも大きな変化と、少ない人生経験と、もう若くはない肉体と、この先にあるかどうかわからない限られたチャンスを抱えて、彼ではない人との新しい恋愛のはじまりを期待して、完璧ではない人生を生きていく。

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