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野外でも蒸し風呂だったSUMMER SONIC 2023レビュー

個人的には、2018年以来のサマソニ。8月20日の東京のみに行ってきたが、今年は特に暑かった気がします。予定を詰め込みすぎて疲弊しないように、のんびりスタート。観れたアクトは4組で、フェスにしては全然数は稼げなかったけれど、体力的にはこれぐらいがちょうどよかったかも。

FLO

1つ目はFLO。もろに中期デスティニーズ・チャイルドを想起させる。アン・ヴォーグも少し入ってる? 90s USのメインストリームな R&Bにコミットしているが、決してレイドバック感が強いわけではない。デスチャの“Independent Women”をインサートしたのも、ただのサービス精神というよりは、衒いのないルーツの表明に思えて、とてもナチュラルに響く。ショーアップされたところはないが、3人がある程度自由に歌唱を絡ませていたのが好ましかった。なによりもポジティヴな雰囲気で元気をもらえるのがいい。

UKのグループだと、もう少し音楽イディオムが雑多だったりするが、そういう側面があまり見受けられないのは珍しいかもしれない。と同時に印象的だったのは、3人とも黒人だが、肌の色が異なっていたこと。濃いめ、中間、薄めと分かりやすいレイヤーになっていて、UKブラックの多様性を象徴しているように思う。

Inhaler

2つ目はインヘイラー。アップテンポなナンバーでの疾走する悲しみ。まるで小林秀雄が評したモーツァルト?みたいだ。線は細いけれど、大味さとも表裏一体。フォンテインズD.C.などと同様に、アイルランド勢を含むUKロックは、いくら新世代であってもジョイ・ディヴィジョンのくびきを逃れられないという感を新たにした。

ただ、対象年齢がやや低めというか、内省の裏側に独特の「甘え」を感じてしまうのは、大ブレイク前のThe 1975を2014年のサマソニで観たときの印象に通じる。FLOの後、同じマウンテンステージで観ると、どことなく分が悪い。長年、ロックがR&Bに負け続けているという現実を突き付けられた思いになる、と言ったら言い過ぎだろうか。

Liam Gallagher

マリンステージに移動して3つ目はリアム・ギャラガー。インヘイラーでロックに悲観的になっていたというのに、リアムのパフォーマンスを観たら「まだ全然ロックは大丈夫じゃん」となるから、ほんとにスイマセン。

リアム、ちゃんと声が出ていて、昔とほとんど変わらないのに驚いた。アクセル・ローズと同じぐらい喉の状態がキープされている。ふてぶてしい態度や表情も不変だが、実はかなりご機嫌な様子、というのも愛されるロックスターだね。クソ暑い中、モッズコートを着込むプロ根性に感服しつつも、途中からタオルを首にかけてタオラーと化したのがいっそ微笑ましい。オアシスのナンバーを惜しげもなく投入し、周りも大盛り上がりだった。

正直に言うと、俺はリアルタイムではアンチ・オアシス派。言動はとんがってても肝心の音楽が丸っこいじゃねえか、この時代のロックはトリッキーだろ、と当時は息巻いていた。しかし、そこから30年経ち、オアシス・ナンバーは、極東の全然英語が通じない国でも大合唱になるほどスタンダードとなっている。その事実を目の当たりにし、さすがに感慨深いものがあった。

Kendrick Lamar

そしてトリのケンドリック・ラマー。ストイックかつパワフルなパフォーマンスが圧巻だった。

実は俺は、2017年9月、『DAMN.』ツアー最終日のマイアミ公演を現地で観ている。そのときと同様、ステージ脇で生バンドが演奏していたそうで、曲によってはレコードとは明らかに異なるドラムのパターンやギターのサウンドが聴こえてきた。一般的に、ヒップホップ・アクトのライヴの最大の課題は、プリセットのビートや上物によるカラオケにとどまらず、いかに生演奏によるダイナミズムを出せるかにある。その点で、ケンドリックの場合は、生演奏のくせにバックバンドの姿をあえて観客に見せないという倒錯したアプローチが特徴的だ。ステージ上のヴィジュアルの世界観を統一するためだろうが、楽器を演奏するミュージシャンの身体そのものが絵になると思い込んでいた自分にとっては、そういう発想があり得るのかと衝撃を受けたことを思い出した。

今回のステージでは、彼によく似た数人のパフォーマーたちが、つなぎのジーンズを履いて、パントマイム的に振る舞うシュールさが目を引く。明らかにこれは彼の分身であり、彼がアイデンティティの追求に自覚的であることを示すものだろう。ちょっとしたコンテンポラリーアートの趣だが、ダイレクトに彼の音楽観につながる演出と言っていい。

『DAMN.』ツアーのときは、もっとピリピリとしていたというか、彼のオーラにある種のいら立ちのようなものが感じ取れた。オルターエゴの「カンフー・ケニー」のモチーフを用いたステージで、本人はひたすらヴァースの速射砲に腐心し、キャッチーなコーラス部分は相当程度、いやけっこう頑ななまでに、自身は歌うのを放棄して、観客に委ねていたのを覚えている。むろん、多くのヒット曲を抱えるスターらしいライヴマナーといえばそれまでだが、ただのマナーに回収できない不穏なものがそこにあった。商業的成功に伴うさまざまな心理的葛藤の現れだったとの解釈も可能だろう。

しかし、今回のサマソニでは、そのあたりのわだかまりのようなものは払拭され、吹っ切れた感覚が強まっていたと思う。

ショーのオープニングは、最新作『Mr. Morale & The Big Steppers』のリリース前にお披露目された新曲“The Heart part.5”。といっても、サンプリングの元ネタであるマーヴィン・ゲイの“I Want You”のインスト部分のみが切り出されたものだったが、やはり当曲は、ケンドリックの現在地を示す格好のマテリアルであるのは間違いない。

マーヴィンによる原曲の歌詞では、“Want you to want me, baby”というのがレトリックとして効いていた。相手にも応えてほしいという双方向性への渇望である。さらに、ケンドリックは、原曲にはない一節“I want the hood to want me back”を加えた。ここでは地元コンプトンへの複雑な思いが滲んでいる。畳みかけるヴァースでは、黒人同胞の著名人たちに関わるエピソードを散りばめ、アフロ・アメリカンのシビアな現状を浮かび上がらせ、そこにシンパシーを重ねていく。本当に胸が痛むほどだ。ショーではそれらのリリックが全カットだったわけだが、フェス(ショー)で披露するにはヘヴィすぎるとの判断だったのかもしれない。

それはともかく、“Love.”の一節“I’d rather you trust me than to love me”のtrustの重み。ショーのラストを締めくくった“Savior”では、“are you happy for me?”と何度も繰り返す。信頼したいけれど、信頼しきれない。そんな不安をごまかさず、引き受けること。迷いや揺らぎを含む自分自身を引き受けること。そこから始めるしかないとの覚悟が、彼のパフォーマンスに独特のスケール感を加えていた。

彼の進化はどこまで続くのだろう。ケンドリック・ラマーと同時代に生きていることを誇りに思う。

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