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臨界パワーモデル(11)

 「臨界パワー(critical power)」とは、運動において無限に保てる理論上の最大パワーです。ランニングはパワーと走速度が比例しているので、臨界パワーは「臨界速度(critical speed=CS)」に置き換えられます。CSより下のペースであれば、理論上は永久に走り続けられます。

 CSを超えると、酸素摂取量、血中乳酸濃度、クレアチンリン酸濃度などは上昇・下降を続け、限界値に到達して疲労困憊に至り、速度を保てなくなります。一方でCS以下では、これらの値は変動しつつも一定の値に落ち着き、定常状態になります。CSちょうどの時、血中乳酸濃度は「最大乳酸安定状態」(the maximal lactate steady state=MLSS)になるとされています

 実際にはCSなら永久に走れるわけではなく、30分から1時間で限界がくるそうです。エリートランナーならば、10㎞やハーフマラソンの距離となります。いやいや20分から30分であるという指摘もあったりして、この辺はまだ議論のあるところのようです。

 CSは練習強度の分類にも用いられ、CSと有酸素性作業閾値(LT)を元に、CS以上を「severe(シビア)」、CS~LTを「heavy(ヘビー)」、LT以下を「moderate(モデレート)」として、練習強度をカテゴライズする方法が、学術界では定番になっているようです。一個前のリンクの文献にも出ているように、例えば酸素摂取量に着目すると、モデレートだと即座に安定し、ヘビーだと安定するも少々時間を要し、シビアだと安定しないまま疲労困憊に至るということです。

 さて前回に続き、今回は新谷仁美選手がハーフマラソンで日本記録を樹立した試合前の練習の2か月目を分析していきましょう。

 分析のために新谷選手のCSを計算しておきます。直前の1万mと5千mの記録を基に、下記の式から求めます。

競走距離=CS×時間+予備距離

 上の式は「時間」と「競走距離」が変数になっていて、ベスト記録を代入します。CSと予備距離は定数で、1万mと5千mの記録から2つの式ができるので、その連立方程式を解いて求めます。

 使ったのは2019年9月28日の1万m:31分12秒99と、同年7月20日の5千m:15分20秒03です。ここからCSを求めたところ、1kmで3:10.59秒のペースとなりました。400mでみると76.2秒となります。練習が進むにつれて、この値は変動するはずですが、一定とみなしています。

 11月の練習は下記のとおりです。

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 10月の表では「継続時間」としていた項目を「合計時間」に変更しました。合計時間の内容は、インターバル練習だったら疾走部の合計、ペース走なら走った時間です。「継続時間」という表現だと、インターバル練習ではぶつ切りの時間の合計なので、イメージが合わないのでやめました。

 「平均%CS」は、インターバルの疾走部やペース走系のペースを、CSを100%として記したものです。11月はCSを超えていたのが7日ありました。

 ここでジャック・ダニエルズの著書「ダニエルズのランニング・フォーミュラ」を参考にすると、CSを超える強度はI(インターバルトレーニング)とR(レペティショントレーニング)です。新谷さんの上記の5千mの記録をもとにIとRを求めると、103%CSと113%CSになりました。ダニエルズを参考にしている方は、強度が思い浮かぶのではないでしょうか。

 CSを超えた日を見ていきましょう。2日の1600m×6本は、CSの103%くらいで実施されました。8日後の東日本女子駅伝の想定ペースを分割したのかも知れません。同じく1600m×6本という構成の練習が約1か月前にもやられていて、この時はCSの102%弱だったので、いわゆる「質」が上がっています。

 ダニエルズ氏の定義を借用すると、ちょうどIペースになります。リカバリー90秒では全回復は無理で、未回復のまま次の疾走に進むため、心肺は追い込まれていったでしょう。

 インターバル練習の効果を評価する方法として、最大酸素摂取量の90%以上の状態にあった時間の長さがあります。疾走部の最初の方のサイクルでは、無酸素代謝が動員されやすいので、なかなか酸素摂取量が上がりません。後のサイクルになるほど酸素摂取量が上がりやすく、90%以上の状態が長くなります。8日後に試合があるので、当然ながらオールアウトはさせず、適度な本数が6本だったということでしょうか。

 5日は400mの繰り返しです。疾走部の平均が107.6%であり、新谷選手の最大酸素摂取量の走速度(vVO2max)※とほぼ同じくらいでした。練習ではこの平均より遅く入り、最後は上げています。Iペースより速いので、きつさは推して知るべし。リカバリー30秒ではこれも未回復のまま次に行くので、いやまじきつそう。ペースは10日の試合より速くなっています。これでガンガン追い込むと疲労が残るので、後半はリカバリーを45秒に延ばしたのかも知れません。

※vVO2maxは約7分間保てる最大速度だそうで、CSを求める式から逆算し、トラック1周70.7秒と割り出しました。

 10日は試合(東日本女子駅伝)で、7日はその前の「刺激」というところでしょう。

 東日本女子駅伝から8日後の18日に、再び400mの繰り返しをやられています。疾走部の総時間は5日の約2倍、リカバリーは終止30秒でした。5日と比べて負荷が倍ほどになっており、鍛錬モードに戻ったようです。

 その3日後には2000mの繰り返しが登場しました。10月を含めて初めて出てきたのではないでしょうか。こちらCSとほぼイコールで、本番ペースとも一致しています。練習設計時はCSなど気にされていないか、本稿とは異なる数値を設定していたと思われるので、このインターバル練習のペース設定は、想定試合ペースを意識されたのかも知れません。本稿はCSを5千mと1万mの記録から推測しているため真の値より遅い可能性があり、CSは上述の通り20分から30分保てるスピードだとすれば、2000mよりもっと長い距離を維持できる可能性が高いです。

 11月最後のCS超えの練習は、25日に400mの繰り返しが再度登場します。前回の同じ種類の練習からちょうど1週間後で、本数が16本から20本に増えました。本番に向け、さらに負荷を上げていったようです。

 ほかに特記すべき事項としては、20㎞を超えるロング走が3回あったことでしょうか。7日ごとになっていますから、メニューは1週間単位で立てられているようですね。ハーフマラソンは新谷さんにとって70分間の試合ですから、それより長い時間の走りが必要です。

 CSは2分~20分程度の競走のベスト記録から求められるとされていますが、その範囲の試合とは別の生理的な限界が成績を左右するとみられるマラソンの結果とも相関するとされています。その部分を鍛えようとすると、長く走ることが恐らく重要であり、それはいわゆる「スタミナ」という言葉で集約される何かかも知れません。

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