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【論考】虎杖悠仁は「いつ」から来たのか?──『呪術廻戦』と「参照」をめぐって


はじめに

 2024年3月26日月曜日。この日発売された週刊少年ジャンプ2024年17号には、少年漫画『呪術廻戦』の第254話が掲載されている。2018年3月から連載されている本作は今年3月をもって連載6年目に突入したことになるが、今なお、その「終わり」は見えていないように見える。

 なるほど紙面で繰り広げられているのは「最終決戦」だ。呪いの王両面宿儺を中心に据えたレイドバトル。その決着は恐らく、漫画の決着にもなる。死滅回遊の結界を利用した日本国民呪霊の顕現だとか、あるいは「異戒神将」や古代日本の呪術など、示唆に留まっていた設定の掘り下げだとかが本腰を入れて行われ、長期にわたって連載が継続する確率はずっと低いはずだ。

 これは漫画家への歪んだ信頼ではない。そうした推察を行うに足る論拠が存在するのだ。

 二年前──ジャンプフェスタに際して、『呪術廻戦』作者:芥見下々は「あと一年くらいで終了します」というメッセージを送ったという。無論、現場レポの引用で知ったのみなので、詳しいニュアンスは分からない(そして恐らくは文字のみを読んだすべての観客・関係者にも)。そして漫画家によるこの種の宣言は常に裏切られ続けてきた(*1)。しかしこの「宣言」は、『呪術』の連載がそう長くないという「予感」を、少年漫画読みの中に根付かせたはずだ。しかしその一方で、表象のレベルにおいて『呪術』が終了する予感はない。ここには分裂があり、それこそが、少年漫画読みたちを当惑させ、時に非難へと向かわせている原因ではなかったか。

*1『ONE PIECE』の五年終了宣言や『ヒロアカ』の進行に対する作者の悲鳴(『僕のヒーローアカデミア ウルトラアーカイブス』)など

 無論、「当惑」や「非難」があらわれている、というのは、あくまでも一漫画読みであるところの僕自身の肌感だ。僕は原作2巻の刊行当初から単行本で物語の進行を追い、SNS上の反応を漁り、原作が「渋谷事変」の佳境に差し掛かったタイミング──「宿儺vs魔虚羅」戦くらいだったと記憶している──で本誌を買い始めたのだが、死滅回遊以後の「感想」には否定的なものが目立つようになってきたように思う。五条悟の結末をめぐるネタバレ(というよりほとんど「漏洩」だ)の発生によるゴシップ的な言及の爆増や、インプレッション数に応じた換金制度の導入に端を発したインプレゾンビの大量発生によって著しく感想を追うことが困難になってはいるが、それでも、何か決定的に空気が変わったことを、否定することはできない。

 だからてらまっと(@teramat)氏による論考『原子力少年の憂鬱──『呪術廻戦』虎杖悠仁の末路を、東京都民の私は見届ける義務がある』(https://premium.kai-you.net/article/786 )が主人公:虎杖の「主人公らしくなさ」(=否定的意見の根拠)に対する言及から始まったのは、とても誠実なことであったように思う。

 『呪術』は今、きわめて特異な位置に置かれている。劇場アニメ(『呪術0』)やテレビアニメ二期の記録的な成功とファンの爆増の反面、少年漫画読みたちの反応が相対的に冷え込んでいるという状況(無論、あくまで「肌感」だが)。この論考はそうしたいま・ここのフレームに抗して、普遍的で核心的な作品の価値を掬い上げる効果があったように思う。

 しかし一方で、その批評が取り落としてしまっているものが存在しているというのもまた、確かな実感として僕の中にある。

 先に述べた部分のみならず、『原子力少年』はある種の「誠実さ」をたたえた批評だ。広範な「社会」のフレーム──原子力をめぐる精神文化の状況──を想定したうえで、それと少年漫画の関わりを丁寧に紐解いていく。その手管は、一つの有効な論点を析出することに間違いなく成功している。

 しかし、と思う。

 そこで語られている内容は、やはり、どこか外在的な領域にとどまるものではなかっただろうか。それは『呪術』と、それが属する、特定の(それは限定的なものでもある)少年(ジャンプ)漫画の文脈に対して〈外〉に立つ批評ではなかっただろうか。

 僕は〈内〉をこそ考えたい。外在的な批評に、内在的な批評で応答したい(結果的に別様の外在性に至るとしても)。優劣ではなく、一つの態度(アティチュード)として、『呪術廻戦』の批評体系に一つの視点を追加したい。

 本記事では一人の少年漫画読み、ジャンプ漫画読みの立場から、そうした外在性に〈内〉から検討を加えるとともに、『呪術』が、少年漫画の文脈において置かれている位置を探っていく。

本文──『呪術廻戦』の「時間」

 『原子力少年』は、『呪術』を含めたジャンプ漫画主人公が分かちがたく抱え込む「制御不可能性」に対する言及から始まる。

 『ドラゴンボール』『ダイの大冒険』、そして『AKIRA』──。80年代から90年代にかけての名作の主人公たちはどれも、制御不可能な力/存在を内に抱え込んでいる。それはゼロ年代・テン年代・現在においても変わらず、そうしたテーマを洗練させた作品としての『NARUTO』の基本構造を、『呪術』はコンバートしている、とてらまっと氏は指摘する。

 なるほどこの指摘は的を射ている。『呪術廻戦公式ファンブック』には0巻(ジャンプGIGAに掲載されていた前日譚の単行本)から63話(単行本8巻収録)までの、芥見下々自らの解説が収録されているが、そこで彼は『NARUTO』に対しても言及している。

『NARUTO』の九尾のアプローチを、自分ならどうするか普段からよく考えていて「絶対に相容れない者」でやったら面白いんじゃないかと思って出来たのが宿儺です

『呪術廻戦 公式ファンブック』181頁、第一話「呪いの子」解説より

 『NARUTO』の物語はある面において、「九尾」との和解の物語でもあった。しかし『呪術』における九尾(=宿儺)は初めから「絶対に相容れない者」として造形されている。そしてその相容れなさを、てらまっと氏は原子力と関連付けて考察する。

 3.11とそれに端を発した原子力事故以降、われわれは原子力発電所の制御不可能性や永遠性(=原子力の管理の果てしなさ)と向き合わざるを得なくなった。とりわけ92年生まれで東北出身の芥見にとって、それは切実な問題に写るはずだ。そのような前提から、論考は「原子力少年」というタームを創出し提示する。『鉄腕アトム』以後、80年代以後──特に強く言及されたのが『AKIRA』だった──の少年主人公が抱え込む制御不可能性を原子力になぞらえる(=第二世代原子力少年)。その視点は「渋谷事変」における渋谷と東京の壊滅を、アトミックな終末観と3.11以後の終末観が溶け合った表象として見出す。そしていま・ここの主人公としての虎杖(=第三世代原子力少年)を「放射性廃棄物の最終処分」の問題と絡めて、論考は捉えていく。

 それは2002年から緩慢に進行し、テン年代後半において急速に進展した核兵器最終処分場の選出をめぐる政治的な動きと響き合い、そして一つの結論を析出する。虎杖の歩みそれ自体が、高レベル放射性廃棄物を押し付けられてきた「周縁」の表象である、という結論を。

 この論考は鋭敏に時代のフレームを──「原子力」をめぐる時代(SCENE)の「気分」を捉えている。しかしそうであるがゆえに、一つ、決定的に取り落としているものが存在する。

 それは「ゼロ年代」だ。『原子力少年』には「ゼロ年代」の気配が希薄なのだ。

 冷戦最後の十年であり、『ウォッチメン』的な(冷戦状況/核兵器神話の極限としての)カタストロフィの「予感」が色濃かった80年代から(*2)、しばしば「災後」の時代と呼ばれたテン年代へ。そうした移行の中で、論考は芥見下々が10代を過ごし、過去篇「懐玉/玉折」の舞台になったゼロ年代をカットする。そしてここにおいて、公式ファンブックにおいて語られた内容の多くが失効する。

*2:またこの時期は、戦後日本の社会学における「虚構の時代」という区分の極相としても解することができる。これはかいつまんで説明すれば「現実/虚構」という区分が明瞭なものとして、時代を規定するフレームとしてたしかに在った時代のことであり、見田宗助や大澤真幸らによって確立された。なお、そうした社会学の文脈を前提として、宇野常寛は『母性のディストピア』などのサブカルチャー批評の中で、この時代における想像力のかたちを、終末観に根差した、自己完結的な「虚構」と定義づけ、その代表作として『ナウシカ』や『AKIRA』を挙げた。

 しかし内在的批評において最も重要なのはそこなのだ、と僕は考える。間テクスト性、という言葉が文芸批評の世界にはある。あるテクストを、参照の束と捉える視点。創作行為そのものをある種のカットアップ、編集行為とみなす視点。それは「僕らにはコピーしかない」(*3)と宣言し創作を続けてきた庵野秀明の態度と響き合い、いくつかの有効な論点を提出した後に、今日の「考察系」やファン語りの文脈と結びついたように思う。

*3:大泉実成編『庵野秀明 スキゾ・エヴァンゲリオン』49頁(太田出版、1997)

 この間テクスト性という視点は、『呪術』とそれが属するジャンプ漫画の文脈を内在的に評するうえでは最も重要な概念であるはずだ。なにせ『呪術』はしばしば指摘されるように、多くの参照(引用、とも言われる)によって成り立っているからだ。

 飯田一史は『eternal return 虚淵玄論』の中で、70年代前半に生まれた(いまのアラフィフである)二人の作家、虚淵玄と伊藤計劃の創作の特徴を、80年代文化を経由した「参照」の中に見出した。シネマ・フリーク的な感性と、その露出によって作品を成立させる姿勢。それが二人にはあるのだ、と。こうした論点を補強するように、前島賢は『ボンクラ青春SFとしての「虐殺器官」』の中で、伊藤計劃の作品にみられる巨大な参照の束を、間テクスト性を指摘している。そしてこの二人の作家がしばしば自己言及に際して行ったような「コピー」の露出、作品のコラージュ性の暴露は、芥見下々にもみられるものだ。

 公式ファンブックにおいて芥見は映画・マンガ・アニメの三ジャンルにおいて、それぞれ「バイブル」として、特に影響を受けた作品に言及している。これはファンブックとしては異例のことであるが(大抵、カラーイラストやキャラの解説、読み切りの掲載に終始する)、芥見下々という作家について考えるうえではこれ以上ない一次資料となる。

 その中で芥見が特に強く言及しているのはアニメ(―ター)からの影響であった。森本晃司や沓名健一、そして『呪術』一期のオープニングアニメを演出した(作者自身による指名だ)山下清悟。それら「職人」からの影響を語った後、「作家」に対する言及が始まる。

 アニメ「作家」について、芥見は「アニメで“映画”を作ろうとする人達」として、巨匠の名前を何人か挙げている。そして注目すべきなのは、その中に大友克洋の名前がないという点である

 当然、『AKIRA』や『スチームボーイ』を観ていないはずがない。庵野秀明、宮崎駿、押井守、今敏。その後細田守にも言及するが、それら作家に共通しているのはある種の職人気質、つまり世界を、画面を、統御し演出しようとする意志の凄絶さだ。無論、ここで名前の挙がらなかった新海誠や山田尚子にもそうした意志はあるだろう。しかしそれら作家は文芸面によってしばしば語られてきた側面を持つし、恐らく、ここに選出しなかったのにはそのような意図があったはずだ(細田守の「文芸」としてのテン年代作品にも言及していない)。そしてそうしたセレクトの中で大友克洋が──テヅカ・イズ・デッドの主導者(*5)が──排されているということには、何か意味があるはずだ。大友克洋もまた、多くの巨匠たちがそうであったような凄絶さを抱え込んでいた。

*5:漫画評論家の伊藤剛は『テヅカ・イズ・デッド』において、手塚治虫や石ノ森章太郎といった作家の注釈や解題に終始する(とされた)漫画評論の世界を糾弾し、手塚的なリアリズムがすでに解体されている現代(2005年)の漫画界の状況を指摘した。そして、その代表的な作家として(=手塚的な書式・表現を過去のものにした作家として)大友克洋を挙げる。大友の写実的なリアリズムは、ミッキーマウスの書式、ディズニーの映像文法の分析と学習からキャリアを始めた手塚のそれとは明確に異なっている。

 その手がかりとして有効なのが、アニメ編以前のページ「マンガ編」である。そこではアニメに対してそうしたように、マンガの世界における「バイブル」が選出されているのだが、その中に弐瓶勉の『ABARA』がある。

 『ABARA』はウルトラジャンプで2005年から2006年にかけて連載されていた作品である。それはちょうど、芥見が最も影響を受けた漫画として挙げ、ファンブック巻末では作者との対談も行っている久保帯人『BLEACH』の劇場版第一作が公開され、盛り上がっていた時期と符合する。

 ゼロ年代における弐瓶勉は、工学・建築学的な、精緻で謎めいた世界観によって一部の漫画読みの間で人気を博した。その画の緻密さ、アーティスティックな性質は、伊藤剛が『テヅカ・イズ・デッド』で大友克洋に与えた位置・文化的価値と相似する。テヅカのリアリティーからオオトモのリアリティーへ。そのような文化的遷移を指摘したのが『テヅカ・イズ・デッド』だったが、その遷移は、オオトモとニヘイの間にも見られるのではないか。

 大友にあって弐瓶にないもの。それは恐らくは「神話」だ。冷戦の極相、核兵器によるカタストロフィのイメージが有効であった時代の「神話」。弐瓶勉の漫画に漂うソリッドさ、幽玄な無機質さとも言うべき哀しみのごときものは、その欠如によって生まれているはずだ。80年代的なもの、「虚構の時代」的なものの排除/悪魔祓いによって、弐瓶の漫画は成り立っている。

 ──芥見下々の漫画もまた、そうであったとしたら。

 やや話を戻せば、「アニメ編」の終盤で、芥見は『Fate』シリーズ(とりわけ『Fate/zero』)とゲームサークル:TYPE-MOON(型月)の作りだすセカイに対して言及している。

 『呪術』の設定の大枠が型月のそれと相似していることは、ファンダムにおいてしばしば言われてきたことだし、また個人的な読解のレベルにおいても、この二つは想起しないでいることが困難なほど近しい。ファンブックの言及は、そうしたファンダムの言明や読みに対するある種の「答え合わせ」として機能した。そして「型月作品」は弐瓶勉よりもさらに高いレベルで、ゼロ年代という固有の時間と接続している。

 ここにあって、「渋谷事変」におけるカタストロフィの意味合いもまた、変容する。

 ゼロ年代における、都市を対象としたカタストロフィといえば『ヘルシング』のロンドン空爆が挙げられる。しかし言及されている範囲で言えば『ぼくらの』(漫画版)の、「気分」としてのカタストロフィの影響が、渋谷事変の表象には強かったのではないか。

 カタストロフィと、空虚な遊びのような世界の永続。終末を生きざるをえないという、諦念とも絶望とも、あるいは曖昧な希望ともつかないようなその「気分」ゼロ年代的な終末の匂い。それこそが「渋谷事変」を貫いていたものだったのでは。

 ──80年代に対する「悪魔祓い」。その果てのゼロ年代の参照。それこそが『呪術』をかたちづくっているという仮説が、ここにおいて導き出される。

 いや、正確にはそれは悪魔祓いではなかったのかもしれない。80年代において臨界点に達した核兵器の神話、終末の思想の亡霊──その「呪い」を、物語世界という円環(=輪廻)の中で回し、解体し、再構築し、修練すること。それこそが『呪術廻戦』という漫画なのではないか。

 無論、これは表象や参照を行き当たりばったりにコラージュした、根拠薄弱な当て推量にすぎないのかもしれない。

 しかし一つだけはっきりと言えるのは、『呪術』の胚胎している可能性の多くは、ゼロ年代と響き合っているということだ。一人の漫画読みとして、僕は、その視点は社会的な広範さと同じくらいに重要なものであると考えている。

おわりに

 ゼロ年代以降しばしばみられるようになった、総括的な批評──時代のフレーム、社会の構造とサブカルチャーを重ね合わせる種類の批評(*6)は、多くの場合ジャンプ漫画を対象としてこなかったように思う。『ゼロ年代の想像力』における『デスノート』の位置は、そうした、批評の傾向に対する一種の反駁だったが、商業批評において、それを橋頭堡に少年漫画「批評」が編纂されることはなかったはずだ。

*6:ちくま学芸文庫版『戦闘美少女の精神分析』巻末の東浩紀による「解説」において、この姿勢は明確に打ち出されている。個々の事例や実存の問題に終始することなくサブカルチャーを捉えることの重要性を強調する東の語り口は、この「解説」以前に執筆された『動物化するポストモダン』、そして後に書かれた『ゲーム的リアリズムの誕生』の実践を指し示しているはずだ。

 依然として商業批評の世界では、アニメや映画に対する言及が強い。杉田俊介『戦争と虚構』や河野真太郎『戦う姫、働く少女』といった、新しい書き手による総合的な批評はその代表的な例であり、そこに少年漫画はない。

 しかし一方で杉田俊介は『ジョジョ論』を記している。それは先述したような「総合的な」ものではないものの、重要な視座を提供している。『ジョジョ』の歩みは俗に「黄金期」と呼ばれるジャンプ全盛の時代──80-90年代から始まり(連載開始は1987年)、今なお継続している。ジョジョについて語ることは、ある意味ではジャンプについて語ることでもある。

 2016年以後──『君の名は。』のヒット以後──「オタク」的消費行動の一般化(*7)は急激に加速したかに見える。そしてそれは、サブカルチャーについて語ることはヒット作について語ることである、というコンセンサスを生んだように思う。『あの花』が、細田守が、『アナ雪』が、新海誠が語られたのは、何をおいてもまずそれら固有名詞が広く人口に膾炙したからであり、高い興行成績をおさめたからだったはずだ。

*7:『君の名は。』の特徴は、主要なスタッフが「深夜アニメ」の文脈を共有する職人・作家であるという点にある。そのありかたは諸々のファミリームービー──大手IPから宮崎駿(スタジオジブリ)や細田守といった固有名詞まで──とは根本的に異なっていたように思う。なお、「オタク」の一般化に関しては伊藤計劃「おやじのつぶやき」(https://projectitoh.hatenadiary.org/entry/20061029/p1 )も、重要な視点を提供しているように思う。ここでは2005年に、フジテレビのノイタミナ枠で放送が開始されたアニメ版『ハチミツとクローバー』(原作は羽海野チカ)が「一般化」の契機と見られている。

 そして2019年以降の『鬼滅の刃』のヒットは、そうした一般化したオタク的消費行動を少年漫画と結びつけた。今や大資本の投下されるアニメの多くは少年漫画のメディアミックスであり、『呪術廻戦』のメディア展開もまた、そのような土壌から生まれたものだった。

 いまオタク(的消費行動)について語るということ。メディア論・受容史からオタクを掘り下げるということ。それは少年漫画──とりわけ、ジャンプのそれ──について語ることではないだろうか。

 今後、テン年代後半から2020年代を捉えるうえで、ジャンプ漫画は有効な論点になりうるはずだ。てらまっと氏の論考はそうした傾向に対して先鞭をつけていると感じるし、その点において同時代的価値の高いものであるはずだ。

 本論考もまた、そのような傾向の一助となることを願って執筆されている。

 

 

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