城輪アズサ

時評や論評を上げていきます。

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最近の記事

【エッセー】空無のために──「きみ」と「ぼく」とは別の仕方で

 突然だが、ヨルシカだと《爆弾魔》が一番好きだ。それも《負け犬にアンコールはいらない》に収録されたものではなく、《盗作》に収録されていた(re-recording)の方だ。僕自身まだ青臭い若造ではあるが、20代の終わりが見えてきた時分に、改めてこの曲をアルバムに入れなければならなかったn-bunaの気持ちは痛いほどよくわかる、と思う。むろん勝手な妄想、こう言ってよければ醜悪な自己同一化なのは間違いないが、どうしようもない。  どこか「若気の至り」として、ある種の幼さをたたえ

    • 【時評】霧と爆燃の時代の果て──『オッペンハイマー』によせて

       数多くのメディア論を記したアメリカの理論家レフ・マノヴィッチが名著『ニューメディアの言語』を刊行したのは2001年。奇しくも同年にはアメリカ同時多発テロ──9.11が発生している。ワールド・トレード・センターのツインタワーが炎を上げて崩壊する様はメディアを通じて全世界へと拡散され、事件そのものは、以降十数年の陰謀論を規定することになる。無論、事件の余波はそうした「不気味な」精神文化の形成にのみ及んだわけではない。2003年のイラク攻撃にかかる世論の爆心地は紛れもなくこの事件

      • 【論考】虎杖悠仁は「いつ」から来たのか?──『呪術廻戦』と「参照」をめぐって

        はじめに  2024年3月26日月曜日。この日発売された週刊少年ジャンプ2024年17号には、少年漫画『呪術廻戦』の第254話が掲載されている。2018年3月から連載されている本作は今年3月をもって連載6年目に突入したことになるが、今なお、その「終わり」は見えていないように見える。  なるほど紙面で繰り広げられているのは「最終決戦」だ。呪いの王両面宿儺を中心に据えたレイドバトル。その決着は恐らく、漫画の決着にもなる。死滅回遊の結界を利用した日本国民呪霊の顕現だとか、ある

        • 【時評】ヨルシカをコピーすること、僕らの時代に終わりがあること──ヨルシカ、あるいは郊外のコピーバンドについて

           つい先日、個人的な縁で大学の軽音楽部(サークル、ではないらしい)の卒業公演を聴きに行った。どことなく寂しさを漂わせる街の、繁華街にほど近い場所にある地下のライブハウス。出ていたバンドはほぼすべてがいわゆるコピーバンドであり、卒業後も音楽を続ける、という志向のあるひとびとではなかったように思う。  その中に一つ、ヨルシカをコピーしているバンドがあった。  ヨルシカ。2019年前後に圧倒的な支持を得た「夜行性」が一つ。  YOASOBI、ずっと真夜中でいいのに、そしてヨル

        【エッセー】空無のために──「きみ」と「ぼく」とは別の仕方で

        • 【時評】霧と爆燃の時代の果て──『オッペンハイマー』によせて

        • 【論考】虎杖悠仁は「いつ」から来たのか?──『呪術廻戦』と「参照」をめぐって

        • 【時評】ヨルシカをコピーすること、僕らの時代に終わりがあること──ヨルシカ、あるいは郊外のコピーバンドについて

          【散文】「ゴジラ」と批評のエア・ポケットについて──アカデミー・ミレニアム・怪獣特撮

           今日(2024.3.11)、米アカデミー賞の全部門における受賞者・受賞作が発表された。日本からは宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』、そして山崎貴監督の『ゴジラ-1.0』がそれぞれアニメーション部門、視覚効果賞を受賞し、とりわけ後者は、スタンリー・キューブリック以来となる監督・VFX兼任の監督作が受賞したことによって「快挙」と評されていた。  キューブリック、あるいはスピルバーグ。そうした固有名が代表するようなハリウッドの巨匠、およびその大作と、日本の特撮映画が並び立つとい

          【散文】「ゴジラ」と批評のエア・ポケットについて──アカデミー・ミレニアム・怪獣特撮

          【時評】黙示・シネコン・絶望──『ボーはおそれている』および「映画」への怖れについて

          (画像引用元:https://youtu.be/XrCg9G_OHAA?si=jGRtkQogFGxclDq3 )  物語を成り立たせるもの。それはしばしば「工学」にもなぞらえられるほど精緻で隙のない構造・類型だ。なればこそ、批評家はそこに精神分析的な視座を持ち込むことができた。構造体としての物語を、解体することなくつなぎ直すこと。そこに、提示されたものとは異なった仕方の秩序を見出すこと。それはどこまでも作品の「拡張」として行われ、完遂される。それは変成ではない。それは破壊

          【時評】黙示・シネコン・絶望──『ボーはおそれている』および「映画」への怖れについて

          【時評】終わらない楽園のための賛歌──『仮面ライダー555 パラダイス・リゲインド』と20年を駆ける本能について

          1.ゼロ年代における『仮面ライダーファイズ』  「仮面ライダー」は、しばしば「仮面」をめぐる物語を展開してきた。  仮面。正体を文字通り覆い隠し、装うことを可能にするレイヤー。それは外的現実に介入するための武装である以上に、その正体を、内にあるものを秘匿するための膜であり、そしてそれゆえに、仮面ライダーという実存は常にいま・ここの現実から半歩遊離した存在として機能していた。  いま・ここの──「内」の秩序に留まりながらも、それを裂開させる可能性を秘めた実体。そのような

          【時評】終わらない楽園のための賛歌──『仮面ライダー555 パラダイス・リゲインド』と20年を駆ける本能について

          【時評】ツギハギたちの憂愁──『哀れなるものたち』によせて

          (記事サムネイル画像引用元:https://youtu.be/kl0lv3IVCzI?si=CaRN6wFk-uZiiFjQ)  成熟。それは近代市民社会を通貫するタームであり、個人の実存に分かちがたく食い込んだ生臭く、重苦しいミームの一つだ。  子どもから大人へ、未熟から成熟へ。発達というもの、個人の身体が被る宿命的な変化というものを、科学の原理・規範の原理へと回収せしめんとする欲動。それが、ここにはある。  それは換言すれば、「個人」の実存というものを、言葉の原理へ

          【時評】ツギハギたちの憂愁──『哀れなるものたち』によせて

          お手本にしてる批評三選

          こんな記事があったので自分も書いてみることにする(元記事は同人が中心だけど、長らく商業しか読んでこなかったので、ここではそっちがメインになるかも……)。 1.伊藤計劃『侵略する死者たち』&その他  見出しにした『侵略する死者たち』はユリイカのスピルバーグ特集に寄稿されたもの。個々の作品をノードとして、座談会などを引きつつ、ゼロ年代スピルバーグの映画を通貫するテーゼについて検討していくもの。  批評に求めているものはいくつかあるけど(知的な雰囲気、みたいな俗なものもその一

          お手本にしてる批評三選

          【散文】「セワシについて考える」──『ドラえもん』の「物語」をめぐって

           セワシについて考える。  国民的アニメ(個人的にはまんがと呼びたいが)『ドラえもん』。21世紀に幼年期を過ごした者であれば、誰でもメインキャラクターのヴィジュアルくらいならただちに想起することができるであろうこのビッグコンテンツはしかし、あまり顧みられることのない要素、キャラクターによって規定されている側面がある。  セワシ。主人公であるところののび太の子孫。  彼の到来によって、物語は幕を開ける。「ドラえもん」ではない。彼はあくまでもネコ型「ロボット」であり、その意

          【散文】「セワシについて考える」──『ドラえもん』の「物語」をめぐって

          【散文】「ナタ」から遠く離れて──『ナタの時代、あるいはデスゲーム的リアリズム』によせて

           雑誌(『S-Fマガジン2022年2月号 特集・未来の文芸』)自体は所持していながらずっと読めていなかった江永泉『ナタの時代、あるいはデスゲーム的リアリズム』を読んだ。  ここにおいて筆者は、時間と空間を超えて幅広いフィクションを参照しつつ「どうしようもない状況」と、それを打破するものとしての(観念的な)「ナタ」との相剋を描き出す。それはある時は魔法であり、ある時は銃であったが──やはり最後には、それは「ナタ」として提示された。その意匠によって、身も蓋もない暴力性によって、

          【散文】「ナタ」から遠く離れて──『ナタの時代、あるいはデスゲーム的リアリズム』によせて

          Folklore:Eastern Dream──《東方project》批評のためのおぼえがき

          はじめに  東方project。東方。そう呼ばれるコンテンツが存在する。  フリーのゲームクリエイター「ZUN」氏により2002年から(前身であるところの「旧作」シリーズも含めるなら1996年から)開始されたこのプロジェクトは、単なる一同人ゲームの枠組みを遥か飛び越え、クリエイターとプレイヤー、アマチュアとプロの境界を絶えず攪乱しながら、多種多様な欲望・想像力を取り込みながら肥大した。  東方projectの最大の特徴(として広く理解されているもの)として、公式(サー

          Folklore:Eastern Dream──《東方project》批評のためのおぼえがき

          【時評】「サイバーパンクの夢──『攻殻』『lain』あるいは反転した鏡像としての『市子』の「遍在」について」

           不在者は、その不在によって〈いま・ここ〉の我々を立ち止まらせる。ふと目を向けた先の、その虚空に不在を見るとき、我々はそこに、なにものかの気配が息づいているのを感じる。そのようにして不在の不在性は立ち現れ、歴然と我々を侵襲する。  他者を他者として認識し受容する、そのような「健全な認知」のうえでは、不在と、それに付帯する喪失から我々は自由になれない。そしてアニメーションのような記号性の高い表現空間においては、そうした不在は奇妙なねじれを伴って提示されることになる。  たと

          【時評】「サイバーパンクの夢──『攻殻』『lain』あるいは反転した鏡像としての『市子』の「遍在」について」

          【時評】星々の落ちた辺獄で……──『ステラ・ステップ』によせて

           人の感情が計測され変換されうるものになった後、ポスト・アポカリプスの荒野に生まれた荒涼たるディストピアを背景とした、極限状況のアイドルもの。そうした状況設定から、シニシズムを読み取らずにいるのは難しい。  忘れられがちだが、20世紀を代表するディストピア小説『1984年』の世界は戦時下だった。慢性的な物資不足と配給とによって成り立つ、生臭い極限、荒廃、衰退によるディストピア。  第二次大戦後のディストピア、オーウェル的な想像力を基礎としたディストピアにはこのような側面が

          【時評】星々の落ちた辺獄で……──『ステラ・ステップ』によせて

          【時評】血と嘲笑──北野武『首』によせて

           まごうかたなき喜劇。たぶんそれだけが、唯一この映画に対して断言できることだろう。  舞台となる戦国時代、それも本能寺の変とその後の展開にまつわる一連の事態は、すでに多くの創作が題材としてきたものだ。そこには恐らくコメディーもあるだろう。だからこの映画はある種のジャンル映画として受容することもできるはずだ。  けれどこれは決して、ジャンルという言葉のもつ記号性に回収されることのない映画だった。これは絶えず喜劇であらんとするシットコムでも、絶えず悲劇であろうとする大作邦画でも、

          【時評】血と嘲笑──北野武『首』によせて

          【エッセー】傷とフィクションの邂逅──砂糖菓子と現実の痛みのあわいで

           アニメやマンガやラノベやゲーム。そうしたすべて、創作物のすべてをまとめてフィクションと呼んだとき、そこには、すべての言葉がそうであるような断絶が、境界が生まれる。現実と虚構、その対立が生まれる。無論、否定はあろう。しかし対立とは、否定することによってかえって強化されてしまう性質がある。そうして、フィクションは現実との相剋の中で、絶えず問題になり続ける。  イタリアの精神科医、バントー・フランチェスコの著書に『アニメ療法』というものがある。タイトルの命題に留まらず幅広くフィ

          【エッセー】傷とフィクションの邂逅──砂糖菓子と現実の痛みのあわいで