【エッセー】空無のために──「きみ」と「ぼく」とは別の仕方で

 突然だが、ヨルシカだと《爆弾魔》が一番好きだ。それも《負け犬にアンコールはいらない》に収録されたものではなく、《盗作》に収録されていた(re-recording)の方だ。僕自身まだ青臭い若造ではあるが、20代の終わりが見えてきた時分に、改めてこの曲をアルバムに入れなければならなかった・・・・・・・・・・n-bunaの気持ちは痛いほどよくわかる、と思う。むろん勝手な妄想、こう言ってよければ醜悪な自己同一化なのは間違いないが、どうしようもない。

 どこか「若気の至り」として、ある種の幼さをたたえていた原曲に対して、この(re-recording)の方はつとめて深刻に仕上がっているように聞こえる。すべての言葉、すべての叫びが世界そのものを撃つために調整され演出されているように感じる。そしてヨルシカのディスコグラフィを順繰りに聞いていくと、この《盗作》に向かって、suisの歌唱はそのような方向へと収斂していっているように感じるのだ。

 主題の変遷もあるだろう。昔どこかで「ヨルシカの楽曲は感傷性と暴力性の相剋によって成り立っている」と書いたことがあるが、それで言えば「暴力性」の比重は確実に増していっていたはずだ(《幻燈》以降は完全に鳴りを潜めている)。より高精度で表現できるようになった、と言い換えてもいいかもしれない。ある決定的な一撃の予感、そこに至る自意識の揺らぎが、より洗練されたかたちで提示されている、といった感を、《盗作》に至ってはいよいよ強くする。無論、あらゆる作家がそうであるように、それは単なる洗練、単なる発展ではなかったように思う。そこにはたしかな捨象が存在する。

 その「捨象」を捉えるうえで重要なのは、《だから僕は音楽を辞めた》収録の《夜紛い》であるように思う。

人生ごとマシンガン 消し飛ばしてもっと
心臓すら攫って ねぇ さよなら一言で
悲しいことを消したい
嬉しいことも消したい
心を消したい
君に一つでいい ただ穴を開けたい

ヨルシカ《夜紛い》

 「マシンガン」のモチーフ、銃撃のモチーフが、ここでは「きみ」への一撃へと収斂している。無論、ここで用いられているのは比喩であり、そのような解釈を誘うものでもあるだろう。しかし《爆弾魔(re-recording)》や《思想犯》が典型だが、《盗作》やその周辺の楽曲にあって暴力性は〈外〉に──世界すべてに向いている。無論、これを指して「変遷」と捉えることも可能だろう。しかし──これはエッセーなので自分の人生や実存に短絡させてしまえば──僕はそうではない、と強く感じた。ここには「きみ」をめぐる思弁が──いや、「きみ」という「空無」をめぐる思弁がある、と。

 武久真士氏が指摘するように(『ヨルシカの「藍二乗」/I二乗/i二乗/I need you――「僕」と「君」』*1)、ヨルシカの音楽に登場する「きみ」はしばしば「ぼく」の鏡像であってきた。それは他者性とか偶像性とかいったレベルの話ではなくて、ほとんど空想上の対象として見出されうる存在としてある。「きみ」は存在しない。「ここ」には「ぼく」しかいない。

*1:https://note.com/verslaazur/n/n569a892ce2f2

 だから《夜紛い》で撃ち抜かれたのもまた、僕の想像力、僕の空想、僕の鏡像である、と解することができる。僕はそれを確信する。それはある意味では自傷であり、ある意味では自己愛でもある。空無としての「きみ」という場から、改めて実存やこの生について問い直すこと。

 それは恐らくは〈セカイ系〉のありかた──『ほしのこえ』や『最終兵器彼女』(やや外れるような気もするが『イリヤの夏、UFOの空』)などの固有名に象徴されるような、ある種の物語の記述形式やそのフォロワーの作品群
──とは決定的なところで異なる。

 ウィキペディアの定義にあるような意味での〈セカイ系〉は「きみ」を前提する。他者を欠いて自閉した、といったような表現、社会という中間項を排した、といったような表現はしかし、「きみ」を想定する時点で開かれをその内側に抱え込んでいる。たとえそれが自己投影や偶像的な理想化であったとしても、身体をもつなにものかが目前にいてほしいという想像力はそれ自体、他者の存在に依拠している。それは三秋縋の作風や、それと深い相関をもつポスト・アポカリプスものの「関係性」、そして青春ヘラや感傷マゾといったタームの周縁を漂ういま・ここのファム・ファタール概念とも響き合っているだろう(あるいは、北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』とも?)。

 だが、ヨルシカはある側面ではそうではない。ヨルシカにとっての──そして僕にとっての「きみ」はどこまでも空無でしかない。それは投影、という次元ではなくどこまでも「ぼく」であるにすぎない。他者を予兆・偶像のレベルにおいても排すること。そこから改めて実存に対する問題を生起させること。自己が自己自身の根拠であり、どこまでいっても自己であり〈内〉であるということ。根源的で、存在論的な閉塞。そうした表現でなければ捉えることのできない生がある、と僕は断言したい。

 だから「きみ」の表象は、最後には飛び立たなければならない。いま・ここからいなくならなければならない(「今しかない 居なくなれ」)。それは倫理と呼ぶにはあまりに身勝手で、決断と言うにはあまりに空虚だが、しかしそこには一つの完結が、一つの卒業が、一つの「終わり」がある。それは恐らくは希望だ。ただ一つ、僕らに許された。

 萩尾望都『半神』の終わりにユーシーは(半身は)死ぬ。三島由紀夫『仮面の告白』および『青の時代』は破局の予兆とともに幕を閉じる。スタジオジブリ版『思い出のマーニー』の終極で杏奈とマーニーは別れる。『ブギーポップは笑わない』第一話「浪漫の騎士」で、竹田啓二はブギーポップと別れ、屋上を後にする。夕暮れ時のわずかな時間、永遠にも思える放課後は終わる。屋上という空間、「傍目にはひどく混乱して、筋道がないように見えても、実際は実に単純な、よくある話」のすべてを見下ろし、観測し、解釈することが可能な位置にあって、竹田は物語を感受することなく家路につく。そして生活は続く。そのすべてが希望でないと、どうして言えるだろう?

 

 

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