見出し画像

山上徹也さんを描いた映画、Revolution+1の感想

山上徹也さんを描いた映画、Revolution+1の感想
 
まず感じたのは、意外にもどす黒い恨みと安倍晋三や統一教会への、監督や脚本家の私怨が渦巻く作品ではないということ。起きてしまった悲しい事件の真摯な姿を描こうとする姿勢は、なんら安倍晋三や遺族を挑発するには当たらないと受け取れた。悪役に滑稽な姿を演じさせて笑いどころとするのはエンタメ色の濃い映画であれば半ば当然の演出だが、彼らを茶化すようなシーンも見受けられなかった。なので、遅くとも2023年内には世に出されると言われている完成版がどのような仕上がりになるのかはわからないけれども、こういったお笑い要素が多数追加されるとは考えにくいと思うので、私が普段親しんでいる5ch嫌儲板のような軽妙なノリを期待して観ると拍子抜けするかもしれない。とはいえ山上が銃を作成する自室の壁には無数の安倍や祖父の岸、統一教会総裁夫妻の写真が張り付けられており、そのなかの一枚にさくらんぼを舌で迎え入れるように食べている安倍晋三の写真が混じっているのを、私含め多くの視聴者は見逃さなかったと思う。今にもジューシィと言いそうだ。安倍や統一教会の詳細な描写によって視聴者にも山上の抱く憎悪の臨場感を追求していくというよりは、山上徹也という一人の青年の青春の形を、犯罪者としてではなくあくまで一人の青年として寄り添う視点を持った映画だというのが私の率直な感想である。
 
 
努力、友情、勝利!くらえ俺たちの元気玉
 
劇中の山上家の3きょうだい、山上兄、山上、山上妹の性格付けは非常にわかりやすく差別化されており、山上兄はほぼ廃人同然で身なりも汚く、語彙も少ない。彼の登場シーンが片目失明後にバットで部屋中の家具を殴るとか、包丁を持って統一教会に単身乗り込むとか、留置所でシーツを破って作ったロープで自殺するといった苛烈なシーンが多いこともあり、演者の演技ぶりにも怪物性がフィーチャーされており、いわばもともとは人だったが今は人の形をした何かというキャラ付けである。山上は貧困に苦しみながらも懸命に生きる青年であるがやや殻に閉じこもりがちな性格である。この特に珍しくもないキャラ付けは宗教2世のみならず、若年層が貧困や対人コミュニケーションの躓きによって生きづらさを感じることが問題視されている昨今では、視聴者が当事者意識を持って没入しやすい。そして山上妹は叔父の援助で山上とは違って大学に行かせてもらい、すっかり社会に溶け込んだ存在として描かれる。つまり、山上きょうだいは上から数えて、”狂人、狂人と一般的な社会人との間を揺れ動く者、一般的な社会人”というグラデーションを呈している。早く生まれた者のほうが人格に受けた被害が大きいのだ。理由を推察するにあたって最も単純なものは毒親からの曝露の累積時間が長いこと、毒親がまだ若くエネルギッシュであり、思想や行動も尖っていた時期に曝露していること、きょうだいのうちで早く生まれた者がその荒れ果てた生活環境の中で、あとに生まれたきょうだいのケアもしなければならず、結果的に自身の心身のケアは後回しになってしまったことなどが思いつく。山上妹が登場する印象的なシーンは、安倍銃撃の直前に山上と会い、「お兄ちゃんのように統一教会に破壊された家庭を悲嘆していないから私はまともに生きられた。自殺した長兄、自殺未遂し派遣労働でくすぶる次兄、狂信者の母。こんな家族が足かせになって私だって生きる上で迷惑をこうむっている。」と山上に伝えるシーンで、これは我が国において犯罪加害者や障碍者などを抱えた家族のほかの構成員が、普通の人である自らのキャリアを形成するうえで邪魔になるという現実を突きつける。前述したように、問題のある家庭で過ごすうえで、下のきょうだいをケアしつつ自分は壊れたという自己犠牲の功労者という側面も多分にあるから、その兄らに幸せなキャリアを築きつつある自分にとって邪魔であるというのは冷たいし、図々しくも映る。だが人の欲望というのは生理的な安全が満たされたら次は社会的な所属を得ることに向けられ、さらに次の段階に至ると自己実現、自己超越と欲望のステージは天井がない。幸せを手に入れることができなかった山上と、手に入れつつある山上妹の考え方に相違が出るのも、そう責められないのだ。劇中でも山上のシンパシーは妹よりはるかに自殺した長兄に向けられている。その最たるものが、試作の銃をいつものように山奥へ持っていき、韓鶴子の顔写真が張り付けられた的へ向かって撃っているときに、ふと横を見ると亡くなったはずの長兄が立ち、「もっと銃を腹に引き寄せて、体全体で支えるとよく狙えるぞ。」と教えてくれるシーンだ。山上と長兄、二人の思いを載せた弾丸は次の瞬間、見事に韓の顔写真の真ん中を貫いていた。そして安倍銃撃の決行当日。1発目の銃弾は外れるも、兄の教えを忠実に思い出した山上は、腹に銃を引き寄せ、体全体で狙い、2発目を命中させた。その銃はもはや山上一人が支えていたというよりは、長兄や無数の統一教会被害者、安倍政権の被害者が一つになって支えていた。ドラゴンボールでいうところの、「オラに元気を分けてくれ!」なのである。2発目の銃弾は元気玉だったのだ。ドラゴンボールの例えが幼稚に思えるならゴリアテに石を投げて退治したダビデでもいい。
 
 
山上とロマンス
 
映画を観る前は戦争映画のような重厚な空気に終始している映画だと予想していたが、山上と女性との関係にかなりの時間を費やしていたのは意外だった。山上が25歳の時に彼は自殺未遂をするが、入院した病棟で自分と同じ宗教2世の女性と仲良くなり、甲本ヒロトの歌を歌うなどするシーンがある。そこからしばし間が空き、今度は日本赤軍テルアビブ空港銃乱射事件関係者の2世女性とも知り合い、彼女の部屋に招かれて半生を語り合うシーンがある。前者の病棟での女性は入院着姿で、リストカットを繰り返してお祭りの屋台で買うイカ焼きのようになった腕さえ隠しておけば、その辺の女性と見分けはつかないが、後者の赤軍2世は原色を複数合わせたワンピースを着、部屋の壁には蓮の花の上に座を組む仏のタペストリが懸けられ、小さな写真盾にはチェゲバラの肖像と、いかにもないでたちである。結論から言うと、この2つのロマンスはどちらも実を結ぶことはなかった。病棟でのシーンでは「抱いて」とまで誘われていたが、逡巡しているうちに何者かが部屋のライトをつけて侵入してきたことを示唆し、シーンがぶつぎられる。後者の赤軍2世女性も、山上が夜な夜な爆弾と銃火器を作っているという告白に対して、まるでついて行けぬという反応とともに、「アナーキズムに傾きすぎている。現実と折り合いをつけ、地に脚をつけて自分の人生に建設的な目標を持ってみないか。」と呼びかけるも聞き入れず去っていく山上に、「気をつけろ!」とスペイン語で叫び、別れとなる。この二人の女性はどちらも反社会的な思想を持つ親に振り回されたという山上と共通したバックボーンを持っているのだが、二人とももう親や宗教組織、国家といったものへの復讐心はもう燻って消える寸前といった感じで、興味の対象はこれからの自分の人生をおもしろおかしく取り戻していこうというものにシフトしている。そのため前者のリストカット女性は自分の不幸な出自は山上を逆ナンする手段に過ぎないし、後者のヒッピー風赤軍2世女性は「孤独の中で行き場のない復讐心を増幅させ燃え上がらせるよりも、私たち仲間と座談会に参加して、これまでの人生を吐き出し、これからのお互いの人生を良くしていかないか」と呼びかけているのである。そこには”山上になったもの”と”山上になりかけたが、ならなかったもの”との対比が、実に鮮やかに描かれている。それでは、山上になった山上と、山上にならなかった彼女らとの違いは何か。私は山上がかねてより手製の銃を作っては山奥に分け入って試し撃ちをし、銃を持ち帰っては改良を重ねるという、実際に自分の手を動かして実績を積み上げていったことが最も大きいように思う。物語の冒頭に紹介されていることだが、山上はスペースデザインや簿記といった種々の資格を手に入れていたが、派遣社員に甘んじてそれらを有効に使う機会には恵まれなかった。高校時代には勉学に励んだが、統一教会への献金による生活苦から学費は捻出できず、大学には行けなかった。彼の描いた建設的な人生のストーリーは、いつも不運によって中途で断たれてしまっていたし、その不運の原因を突き詰めていくと統一教会と、統一教会を是とする政治団体があった。いつもいつも途中で閉ざされる道。前に進めない人生。だが銃を作り、試し撃ちをする日々は、正規のルートを踏んだ社会的な活動から逸脱していたために、皮肉にも途中で閉ざされることがなく、どこまでもどこまでも先へと続いて行った。初めの動機は教会と自民党、自民党を象徴する人物である安倍晋三への復讐心であったのだろうが、いつしか山上の中でもう一つの強烈な動機が育っていったのではないだろうか。それは銃を完成させ、安倍晋三を討ち取るというミッションを成就させることそのものが、山上の人生を賭した道であって、もはや山上の生きる力は、その道のもっと先へと進んだ光景を見て見たいという欲求によって支えられていたと思うのである。それは登山家がターゲットに選んだ山を完登しなければ彼の人生は先へと進めないのと同じことであり、愛する女性からの、登山は危険だから辞めてくれという声も彼には届かなかったのだ。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?