記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

私にはできるわ。望めばすぐにでもー2023年レイディマクベス観劇感想(劇場での観劇&配信での観劇比較含む)


はじめに

 10/4に観劇してから、延々言葉を揉み続け(って書くといかにも「練り上げました!!!」と言わんばかりだけど、実際には何回挑戦しても感想メモがまとめきれず、ただただ毎日思い出しては自分の中で浮かんで来る言葉と格闘しているうちにとんでもない月日が経ってしまった…)、あっという間に3ヶ月、配信もラストスパートに。
 他の方の感想やレビューを読むと影響されてしまいがちなので、今回も自分のを書き終わるまでは検索しないぃぃと封印中のため、とりあえず「観劇直後&3ヶ月経っても胸の中を彷徨ってる言葉と印象をupすること」とハードルを下げて投稿します。
簡潔に・分かりやすく・できれば楽しく、を目指していますが、今回も最高にまとまっていないので、備忘録として、箇条書きです。誤字脱字はupしてからコツコツ直します。

ネタバレしています

 見事完売だったものの、京都公演千秋楽後からたっぷり1ヶ月半近く配信があったので、映像でなら観れました!という方もかなりいらっしゃるんじゃないかなと想像しつつ、さらに近い将来WOWOWやNHKとかでもさらに放送されるんじゃないかなぁ??という気もする(私は放送して欲しい)ので、「仮に映像のみだとしても、自分の目で観てから感想とかは読みたいわ」という方は、ここから下は避けて下さい。演出やら台詞やらに直接触れながら回想する形式で書いています。

「シェイクスピア作品として予習が要るか」問題

  予習不要、というのが観た上での私の感想。予備知識があると、勿論楽しいだろうけど、してないから決定的に何か損するかというとおそらく別にそうでもないというか。
 今回はシェイクスピアの翻訳脚本はもちろん、芝居版も未見で向かってしまい、辛うじて予め知っていたのはいくつかの名台詞と、三谷さんが2022年末にやってた『ショウ・マスト・ゴウ・オン』での劇中劇、野田さんが2021年にやってた『フェイクスピア』の劇中劇(ほのかに他作品のネタバレにもなるのかなこれ、すみません)。
 公式プログラムにあった設定と登場人物紹介だけで十分劇中困らないように今回の作品はなっているので、門戸が広い!!と好感持てた。
 とはいえ、一応有名な台詞はなんとなく頭の片隅にあったので、「女から産まれた者は」を聞いた時に「あれ?股からじゃなかったっけか?」となり、「あぁぁだから難産x2言ってたのかー!!!!!そことそこを繋げるとは巧い!!!!!!ってことはラストは娘に葬られるのね。。」と繋がって震えた。
 後から気になってwikiで()読んだあらすじと照らすと、やはり相当な換骨奪胎で、登場人物を大胆に絞っている上、「誰が誰をどうするか」にかなり手が加えられているので、マクベスの原型を期待して観るとおそらく少なからず新鮮に感じられるのでは、と。

生で観終えた最初の感想

 感想を誰かと話したい!という欲求が、過去3年間で観た中でダントツ一位に躍り出るほどの衝動をもたらす作品だった。ただし、「どんな人と」「いつ」「どれ(劇中のどのトピック)について」が極めて難しいなぁ(=センシティブになるなぁ)…と強烈に何度も感じさせる作品で、普段のように衝動のままにX(旧Twitter)に感想を書くのが躊躇われた。
 作品中で語られている題材があまりにもストレートで、繊細で、ダイレクトで、単純に感情移入とか興味深いという言葉を使えなかったから。レイディが全身全霊で客席に叩きつけていた憤りや怒りに、不思議と「よくぞ端的にまとめてくれた!!!」という感覚が何度も湧いた一方で、「でも私は当事者じゃないのに?」「本当の意味で経験/実感したことなんかないのに?」という指摘が繰り返し自分の中でこだましていたから。

印象に残ったトピック/場面/フレーズ

 この作品は、物語を運ぶ台詞や、登場人物の感情の起伏や機微だけを純粋に楽しむ、というよりは、マクベスの枠を借りて客席に次々とぶつけられる沢山のテーマ(戦争を終わらせるにはどうしたらいいのか・戦場に送られる兵士とはどういう存在なのか・統治者に必要なものとはなんなのか・最前線に立ち続ける者しかリーダーとはみなされないのか・貧困とはどういうことを言うのか・出産によって突然キャリアが絶たれてしまうことの男女間の非対称性など…)に必死で対峙する時間で(少なくとも私にとってはそうであり、それはとても張り合いのある時間だった)、レイディとマクダフ、レイディとバンクォー、レイディとダンカン、レノックスとバンクォー、レイディと娘、レイディと3人の魔女たちとの対話が、まるでそれぞれのテーマにまつわる問答集のように見事に簡潔にいろんな立場・視点を描いていて、題材の選び方と結び方繋げ方が凄すぎる。。。!と圧倒された。
 上に列挙したテーマは、どれもそれ単体でも一本お芝居が作れるくらいのボリュームの筈で、どう発信すると敬遠されずに受け手の真摯な思考を引き出せるか途方に暮れるようなものばかりなのだけど、見事なまでにマクベスという箱の中で、素晴らしい役者の方々(人選も良かったし、それに応えたお芝居/台詞回し/間の良さ/ほんの些細な表情の作り方もすべてが過不足無くぴったりだった)と、後述するセット・衣装・音楽によって凝縮されていて、休憩除いて正味2時間強の作品ながらものすごい濃さだった。
 
 一貫して強く印象に残ったのは、「憤り」。貧困への、家父長制への、終わらない戦争への、必要な援助が行き渡らない今の枠組みへの、安らげない状況への。

以下順不同で、個別の場面と感想あれこれ:

・ダンカンと、おそらく彼をはじめ戦場の誰もが最強の存在だと認めていたレイディが「この星に住む、あらゆる生物の最も一般的な営み(=出産)によって打ちのめされた、徹底的に」。レイディの娘に「お前が壊したんだ。なんてことをしてくれたんだ!?」というダンカン。そして後継者候補から外す宣言。
「もう16年も戦場に立っていないだろう」、「君の体では無理だ」。「国が必要とする強さを兼ね備えたただ一人の統治者」はマクベスで、「君(レイディ)が助言すればいいだろう」。

 現場を駆け巡って自らも戦いながら指揮をとるタイプのリーダーと、後方で俯瞰しながら最善の選択に向けて指揮をとるタイプのリーダーといるでしょうに、なんで後者のタイプとしてレイディを残さなかったの…と何度も思い(実際、敵襲を告げるラッパが鳴るたびにダンカンが戦地に赴いていたかというとひたすらマクベスを送り込むだけで、「後方に回って指揮をとる」そのもの)、「長いこと現場に出ていない」を口実に実際にはレイディを排除したかっただけなのかもな、産後に現場を離れた組に起きていることと一緒なのかもな…と後からじわじわ考え始めた。実際にレイディがまともな生活を送れるくらい体が戻るまでには数年かかっただろうし、16年といわず数年でも現場を離れたら、後方指揮自体任せてもらえないくらい感覚は鈍ってしまうと懸念されたのかもしれないけど、でも16年間一度も復帰という話にはならず、ひたすらレイディは夫を支える側から出してもらえなかった。

 レイディが戦士だった、という設定は、おそらく「男性と同等の活躍で周囲を圧倒していたことが最も端的に伝わるから」だったんじゃないかな。他のどの職業よりも「女性なのにあっぱれ!」が体感的に伝わりやすく、レイディの存在が脅威だったことがすごく分かりやすいから。
 そして、「出産によるダメージで前線に立てなくなった」もまた、「男女差別を理由に出世できなかった」以上に直接的に「出産で体が損傷したんじゃ現場立てなくなるよね、物理的に」と、有無をいわせず諦めさせる力を持つ事象だったからじゃないかなと。
 病気も事故も男女両方に起こりうるのに、出産による心身への決定的なダメージと、どんなに安産であろうとそれでも奪われる時間や自由(子育てとかだけじゃなく、それ以前の、妊娠中や産後の体の自由含む)は生物学的に女性だけなんだよな昔も今も…と自分自身の経験も新鮮に回想しながら観ていたところにせせら笑いと共に降ってきたダンカンの言葉「君のような肉体に捉われてしまうなんて想像すらできない(笑)」にブワッとやるせない怒りのようなものが込み上げた。が、さらにすぐに、「この非対称性は、医学が進歩してどんなに生存率や回復のスピードが上がったとしても、絶対にフェアにはならないんだよな…」と大きな諦めが怒りを押しつぶすように降りてきて、それがまたしんどかった。

・レイディが、戦場にいた頃を回想する語り方があまりにも鮮やかで、まるで昨日のことのようにありありと情景が浮かぶような話し方で、凄惨な経験や忌々しい記憶も出てくるのに、それすらひっくるめて時に愛おしそうにすら語っていて、彼女にとっての輝かしい誇らしい瞬間は全て戦場時代のものだったんだな、と痛感するのが、16年間現場と隔てられてより一層その過去が懐かしく輝いているのが、王冠や統治者への固執に彼女を向かわせた経緯としてとても素直につながってすとんと腹落ちだった。

・紐のついたペンの人(直接語られていないけど、シェルターというワードがあったので、ほぼ間違いなく福祉の人)とのやりとりを回想するシーン。語り出しは「これは私の友人の話」となっていたけど、途中からはもうそのままレイディの母の話として語られる。
「(ご主人の元には)戻”れ”ないんですか、戻”ら”ないんですか?(そこは大きな違いなんです)」という問いかけに対する、DVを受けていたレイディの母の「戻らない、戻りたくないんです」というくだりに、静かにぐわっと悔し涙の塊みたいなものが肚の底から込み上げてきて、この叫びを認識している人なんだ、脚本書いた人…と、とても強く印象に残った。
 当日私の一列前には、見たところ60~70代と思しき男性がずらっと並んで観劇してたのだけど(手前がすぐ通路になっている、いわゆるとちり席=ある種の招待席とかだったのかなーとか思いつつ)、あのうちの何人が、「戻らない」という表現を選ぶ心理に思いを馳せただろう、ととりとめもなく思ってしまった。というかこの作品自体、あぁこれ女性の自立をテーマにした系?のね、とか、はいはい女性の機会尊重を訴えたやつねー、と括られ敬遠されちゃったりするのかな、だとしたら、ここまで生々しく咀嚼して見事にマクベスのフレームを活かして描かれながらもその感想でどーんとまとめる人たちと私はどういう切り口なら噛み合う対話が出来るだろう…と考え始め、まだ答えが見つからない。

・レイディが王冠を被った瞬間と、脱いだ後。
 あの天海さんが、一瞬にして、同じメイク・衣装なのに、ゾッとする程(それこそプラス50歳くらい)老け込んだのを観て、これぞ役者だ。。。!!!!!と芯から震えた(煌々と輝いていた何本もの蝋燭が急に一本残して吹き消されたように生気が全身から失われるの、凄かった。。。)。被った途端に王冠がもたらす重圧があらゆる言葉を吹き飛ばす勢いで見事に描かれていて、王冠に負けてしまう彼女を直観的に理解させるお芝居だった。
 ここ、生で客席で初見の時には本当に皺が見えるような凄まじさだったのだけど、配信で改めて見ると、さすがメイクとかは勿論そのままで、このプラス50歳を成立させているのは艶を失いしわがれた声と佇まいだ!!!!と気づいて二度震えた。映像で見るアップのものとオペラグラスで観る劇場での印象はどうしても違ってしまうので、配信は永遠に生での楽しさを超えられない、というのが持論だったけど、配信でもほんっとに一気に老け込んで見せる天海さん流石。。
 ちなみに、10月に生で観劇したときに帰り道で書いたメモには、王冠を手で外した途端にまた一気に若返る、とあり、それも見事だった。今配信で観直すと、王冠を手で掲げているレイディはもはや半ば呆けたようになっていて、お芝居の解釈の進化か演出の変更か、王冠を手にすることの不可逆性がとてもリアルに描かれていて面白い。被る前にあった張り詰めたエネルギーや勢いは確実に削がれ、疲労だけが残る状態で彷徨っていて、王になる、それだけを成し遂げて抜け殻になってしまったのが痛々しくて哀れだった。

・マクベスを殺してしまったたレイディに、バンクォーがかける言葉「君は義務を果たそうとしただけだ」が、「あぁ本当に友達としてレイディを慰めようとしているんだな」と思えて、劇場で観たときは一番救いを感じるシーンとして刻まれた。配信で観ていると、そこにさらに、「王冠を得た後抜け殻のようになり、派兵の指揮をとるために夫を殺したことすら忘れているように見えるレイディを正気に戻そうとしてかけた言葉なのかな」とも思えてきて(その両方かもしれない)、配信買った甲斐があった!と純粋に楽しんだ。

・ラスト、王冠を「娘」に渡すマクダフが穏やかに微笑んでいるのがまた凄みがあって、レイディを殺した行為を責めるどころか肯定するような、誰であれ王の場所に立って指揮してくれる人が決まったことへの安堵感を表しているような、そしてそれがきっとおそらく大多数の国民を代表しているような感じがしてゾワっとした。

・「で、どうする?」を言う娘の台詞回し。10月に劇場で観たときは、もっと挑戦的で落ち着いた風な言い方だったのが、配信だと明らかな戸惑いや混乱や、それこそ助けを求めて縋るようなニュアンスがはっきり加わっていて、この後の混乱や彼女にいきなり託されてしまった暗い未来を暗示しているようで、全く観た後の後味が変わって面白かった!

レイディが欲しかったものとは

 とてもシンプルに、「自分にふさわしいもの(立場/役割)」、がただただ欲しかったんだと思う。じゃぁなんで彼女にとって「自分にふさわしい立場」=「王」「統治者」だったかというと、彼女が政治に関心があったとか、民を守りたいとか、具体的なビジョンがあったとかじゃなくて、劇中何度も語られる「みんなに出来ないことが私には出来たから」、そしておそらく、支配する側に回ることで、かつて苦しんだ貧困や不条理と徹底的に決別したかったから。

 「私たちにはもう準備(=王位を継承する準備)は出来ています!」と何度もレイディはダンカンに訴えるんだけど、実際いざ王冠を被った後のレイディは(なんなら王冠を被る前のやりとりからうっすら察せられるんだけど)、戦争を終わらせることへの具体的な戦略はほぼ皆無で、王になった後も、何か改革をするでもなく、新たな枠組みを作るでもなく、周りに答えを求めてしまう。「欲しいものを言えばいい」。彼女にとって王とは”何でも思いのままで皆に指示を出す、施す側の存在”という程度の虚ろなもので、しかもいざなってみると王は「(辿り着いてみたら)これまでと同じ未来と暗闇しかなかった」。
王になった途端に「私は眠る。木になるの」「私は生きて生きて生きるの」と言ってることから、真に望んでいたのは実際には権力じゃなく、安心や、生き残る側に回ることそれ自体だったんじゃないかな、とも思う。

舞台セット/衣装/音響/グッズその他

 真鍮のような輪っかが大小二つずつ、上下に置かれており、内側の盆が回るという極めてシンプルなセット。この作品は最初から最後まで「誰が王になるか」を巡って進んでおり、「誰が王にふさわしいか」が繰り返し語られるので、「そうか輪っかは王冠がモチーフなのか」と途中で気づいて納得したものの、ラストシーンでもう一つ。「娘」が王冠を渡された後、大きい方の輪っかが轟音を立てて降りて来る演出に「王冠は権力の象徴であると同時に檻/牢でもある」というメッセージが強調されているようで、最小限ながらしっかりストレートに複数のイメージをちゃんと伝える美術のお手本のようなセット。痺れた。
 
 衣装は、白、金、黒の三色しかほぼ登場せず、女性陣が(確かレノックス以外は)全員なんらかのプリーツが施されていて、王が身に纏うジレ以外はきらきらしたものが無く、こちらもセットと同じくシンプル。スタイリッシュで、マクベスというタイトルを持ちながらもいつの時代の物語なのかを曖昧にぼかしてくれる=現代の話として聴いていても視覚面で違和感を持たせないのがとても良かった。
 
 音響。中盤、物悲しくて美しいピアノソロが1,2回流れる他は、敵国からの攻撃を告げる不穏な管楽器の音、メロディのないパーカッション(こちらはシンセサイザー系)のみで、これまたとてもシンプル。そもそも音楽が流れている時間がとても限定されていて、いわゆる咳払いすら躊躇われる、台詞と台詞の間の静寂も全て耳を澄ませて、本当に息を詰めてあらゆる空気の揺れを客席で味わうような作品。

終わりに

 どんな観劇でも、あれこれ全て自由に選べるとしたら他にどなたがcast候補になりうるだろうか?とか、10年後に再演するとしたら誰が挙がってくるだろうか?と考えて、どの役にどういう要素を自分が望んでいるのかをあれこれ考察して楽しむのだけど、今回のレイディは、何回考えても天海さんのありとあらゆる要素を最大限良いとこ取りしていて圧倒的!となった。
 演技力のある、存在感のある、クセの強いお芝居からナチュラルなお芝居までできる、そしてタフな台詞にも負けない女性の俳優さんを片っ端から思い浮かべてはレイディに当てはめてみるのだけど、この役に堪えうるのは天海さん、で自分の中で満場一致。
 全力で理由を分解すると、華や立ち姿といったビジュアル面は勿論、一途でがむしゃらでひたむきで聡明で恐ろしく強い芯と、己を曲げることが出来ない哀れさや、そこからくる愛おしいほどの人間臭さといったお芝居での要素に加えて、「男性を率いる姿、どんな男性よりも強い兵士として全幅の信頼をかつて置かれていた女性であったという設定に対する説得力」なんじゃないかな、と。そこにはそれこそ天海さんがこれまで映像の世界も含めて重ねてきた役柄からくるものが少なからずあると思うし、この重たいメッセージをいくつも背負いながら客席にぶつけて受け止めさせる/考えさせるには、「美しく魅力的でお芝居が整ってる」だけじゃとてもじゃないけど務まらないものが多すぎて、10年後まで含めて考えても今のところ天海さんしか思いつかない。。というか、なんなら天海さんという絶妙な俳優さんがいなかったら、そもそもこれ日本で出来なかったよね?とすら思う。
 今後、誰なら後を継げるだろう?とか、どんなキャリアを重ねればこの役の候補になりうるだろう?とか問いは尽きず、これから折に触れて考えて楽しむトピックが一つ増えたのは自分にとっては収穫だった。

 世界初演として日本が選ばれ、日本語でこの作品を楽しめたことに心から感謝。次の上演は、脚本家さんの故郷イギリス以外だとしたらおそらく最初は韓国じゃないかな。。。韓国で上演された暁には、グーグル翻訳でもDeepLでもなんでも駆使して感想読みに行きたい。。。!し、なんなら現地に観に行きたい!!

 とりとめなく書いてしまいましたが、ここまで、大切なお時間で読んでくださり、ありがとうございました!!

参考にしたもの

公式プログラム

公式配信

公式サイト



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?