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多様性を重んじる社会には被害者が多い。

最近思ったこと。(もしかしたら過去の人が言っているかもしれないので、言っている人がいたら教えてほしい。)
多様性を重要視する社会は、多様性を重要視しない社会よりも、被害を受ける人は多いということ。
だから、現代のような人がどのような価値観を持っていることもすべて許容すべきだ、とでもいうような時代には、その許容によって、むしろ被害ーーーこの場合、被害とはある価値体系において悪と判断されることを自分が受けるということを指しているーーーを受ける人間が多く発生している、ということを指している。

そもそも多様性とは何かと考えてみると、価値観が十人十色だということである。
だから、LGBT的な、ノンバイナリーな価値観を持つ人もいれば、旧態依然とした、男尊女卑的な価値観を持つ人もいる、とかそんな状態を、人は、多様性がある、と表現すると考えている。

では、そもそも価値観とは何だろうか。

私の定義では、価値観とは、「無数にある価値体系に対する各人の優先順位」ということになる。
価値体系とは概括してみれば、「判断基準の集合体」ととらえて差し支えない。たとえば、仏教でいえば、八正道に遵う人間を善とし、四苦八苦を乗り越えられない者を悪とする、キリスト教で言えば、隣人愛を持ち、黄金法則に則ることのできるものを善、そうでない人間を悪とする、といったようなものである。

これは常に全体に対してではなく、個々の事象・あり方に対する判断基準として存在している。すなわち、たとえば、仏教的な文脈から、Wi-Fiの強さに対して何らかの価値判断を行うことは通常なく、仏教的な価値体系ではカバーされる範囲が決まっている。

そういう個々のあるカバー範囲を持った価値体系に、人は無意識に優先順位をつけている。

所詮は価値観は優先順位付けでしかないということがよくあらわれるのは、浮気、不倫の局面においてである。浮気・不倫は、倫理という価値体系においては、悪とされている。そして、これは一般に多くの人に備わっている感覚である。しかし、自分の欲求を満たす、欲望の価値体系においては浮気・不倫は善とされてしまう。これらに優先順位付けをして、欲望の価値体系が勝った時に人は浮気・不倫に走っている、ととらえられる。

当然この価値観、すなわち優先順位付けは継時的に変動している。

ある経験を受けて、価値観が変わるというのはよくある話で、(人間は所詮パブロフの犬であるとでもいうような人間観に基づいている、という誹りは免れ得ないだろうが)経験に対し、受動的に価値観・優先順位を変えるということがあり得る。あるいは、誘惑的な異性を目の前にして、価値観が変動することもある。
つまり、価値観は、短期的ないし長期的に常に変動を続けている。
まず、ここまでが今回の議論の前提である。

さて、本題に戻ろう。
多様性を重視する価値観というのはある意味で、メタ価値観である。
すなわち、価値観がこうあるべきだ、という価値観である。これは、基本的に全称的、複称的、単称的に他者の価値観を認めるか、認めないか、ということを定めている。

この中で、現代においては、全称的に他の価値観を認めるべきである、ということを善としている。
だから、キリスト教的な倫理観も、イスラーム教的な倫理観も、あるいはアニミズム的な倫理観も、どんな価値観も認めるべきで、すべての倫理観が平等に認められる、相対的な状況と化している。

しかし、今までの時代は、常に善とされてる価値体系があるカバー範囲の中で決まっていた。倫理という問題においては、時や場所において内実の変動はあるものの、宗教的な倫理規範に遵った生き方が善とされてきた。だから、常に邪淫は忌避されるものであったし、それに則れないものは社会から排斥されてきた。
パリサイ派によって、石に打たれた者もいた。

これは、メタ価値観において、単称的にしか認められないというところから、全称的に認めるという移行を示している。

これによるひずみを私は痛切に感じている、というのがこの論稿である。

人の価値観は、構造的に決定される、ということを考えた時、その構造自体が、価値観に対しては流動性を有するようになってきている。すなわち、どのような価値観も認められるようになってきたからこそ、過去の絶対的な価値観においては排斥されてきた思想が、ある力をもって人々に影響を与える、ということが頻繁に起こるようになっている。

当然ながらこの動きによって人の価値観はさらなる多様化の局面を迎え、互いに構造ー価値観関係において、多様性へと向かう循環が起こっている。

ここにおいて、価値体系の数はさらに無限へと近づき、個々人の価値観も際限なく多様化し、過去あったような一つの塊としての大衆に普遍化された価値観を持っている人間というのがいなくなっていく。

これによって、ある行動に対する判断基準の数は無限に近づき、それによる加害ー被害関係も無数に生まれていく。

この、加害ー被害関係とは、ある価値体系において善とされたものがある価値体系において悪とされてしまうことによって、ある人があることを行った際に、善として行っても、悪としてみなされることで、無意識的な被害者を生んでしまう、という関係性である。

ここでは、人間の認識能力は有限であるため、価値観として優先順位付けされることすらない最下位の順位の価値体系が零れ落ちることによって、それらの被害者が産生される。

これは、例えば、照明一つをとってもわかりやすいと思う。
夜、勉強するために、部屋に照明を設置するということを行う。すると、これは勉強をすること、成績を上げる、夜景を綺麗にすることを善とするような価値体系においては、完全な善だと考えられる。しかし、健康を求める、勉強の出来不出来を人間性に何も帰さない、綺麗な星空を求めるような価値体系においては、残念ながら悪となってしまう。そして、健康を求める価値体系の優先順位が高い人においては、成績を上げることの優先順位が高い人に照明を設置されることで、照明の設置というその行為による被害を受けていると考えられうる。

これらのような事情から、私は、多様性を認めるメタ価値観を持つこと、それ自体によって、多くの被害者が生まれていると断ぜざるを得ないのである。

ただ、ここには一つ、私が言及を避けた落とし穴がある。

それは、すべての価値体系において善とされるようなものがない、ということは言えていないことである。
正直、ここに関しては全く論証することはできないが、私はこれがないと自信をもって宣言できる。

なぜか。
それは、すべての行為は全価値体系を総合した際に、ゼロサムゲームになっているという確信があるからである。

なにを思い浮かべても実はそうだ、という私個人的な体験からの帰納でしかないが、これはある程度確実に言える、と思っている。
ここについては、実例を挙げることは枚挙に暇がない。
たとえば、Excelがあると便利だが、Excelマクロ地獄はExcelがないと生まれない、とか、そんな些末な事柄から、国という単位に世界が分割されていることで文化が保たれるが、その分割がなければ、実は戦争は起こりにくいだろう、とか、世界規模の話でもそうである。

さて、こんなところで、今日の論稿は幕を閉じようと思う。
書きなぐりの乱文で恐縮だが、吐き出さないとほかの考えを邪魔してきたので。。。


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