『オクトパスの神秘 海の賢者は語る』が見せた愛の仕組みと生態系

今回は、『オクトパスの神秘 海の賢者は語る』という映画を見た上で、生態系の中で機能する愛というシステムについて考察してみたいと思う。

この作品は、一匹のタコを追い続けることで、一般的に警戒心が強いと言われるタコと特別な関係を気づいていった男のドキュメンタリー映画である。

男は、毎日タコと接触することにより、彼女の警戒心が解けていき、互いに触れ合う関係となっていく。しかし、自然の中で生きる彼女は、捕食者であり被捕食者であり、生態系の中で翻弄されながら自身の生涯を全うする。その光景を見ながら、男は、タコへの愛情を育みつつ、自分の家族に対しての接し方も変化していく。

ここでは、男とタコと関係、タコと生態系との関係、そして男と彼の家族との関係が同位相のものとして表現されている。男は、タコに対する関心を強めるに連れて、タコと生態系との関係に対しても関心が生まれ、一匹の生き物と生態系の綿密な関係を知ることによって、自身と生態系や他者との関係についても敏感になっていくという具合である。

上記のように簡略化した記述では、ありきたりな作品として映ってしまうかもしれない。しかし、本作では、男が生態系の中で生きるタコと一線を引いている場面を見ることができる。ここに、本作のメッセージが現れている。

生き物を扱った映画では、生き物と人間の関係について、大きく二つに分類することができると思う。一つ目は、人間とペット、動物園の飼育員と動物のように、違いが共存しあっていて、その関係に焦点を当てた作品である。その場合、人間側は、積極的に動物へ影響を与える存在となり、逆もまた然りである。もう一つは、人間(カメラ)が観測者となり、生態系の中で展開される食物連鎖を一つのストーリーとして切り取る作品である。そういう作品では、人間が生態系の外部に存在するものとして描かれている。

一方、本作では、上記のどちらとも言えない人間と生き物の関係が描かれている。男は、タコに個人的な興味を持ち、積極的に会いにいくが、自分からタコに接触することを避けている。しかし、タコの方から彼に近づいてくる場合は、それを受け入れ、関係を構築することを望む。

また、インタビュー部分でも本作の位置付けが強く現れている。先程挙げた、生き物を扱った映画の分類では、後者がよくインタビューシーンを用いている場合が多い。そこでは、生き物の専門家や調査員など、客観的な事実を述べる人物が用いられている。しかし、本作では、インタビューで登場する人物が、男のみであり、語られる内容も、彼がタコに対して抱く感情が中心になっている。

このように、本作では、男が客観的な視点からタコを観察しつつも、個人的な感情を持ってタコと接しており、今までの生き物を扱った映画の分類に当てはまらない作品となっていることが分かるだろう。

この映画の構造は、一体どんな世界を浮き彫りにすることができるだろうか。

まずはじめに、男がタコや生態系に対して一線を引いて接する姿勢は、タコの生態系内における位置付けをハッキリと映し出している。例えば、タコの捕食シーンを挿入することで、彼女が捕食者であることを明快にし、タコがサメに襲われるシーンを挿入すると、彼女が被捕食者であることが分かる。そして、視聴者は、タコが捕食する側であり、捕食される側でもあり、生態系の一部であることを認識する。

一方、男とタコの交流や、男が持つタコに対する感情を描くことで、生態系の中で翻弄されるタコと男の心理的交流が浮かび上がってくる。

この客観的な視点と男とタコの個人的な交流シーンの往復によって、視聴者は、男とタコ、そしてそれらを包括する生態系を繋ぐものが、愛という抽象概念によって成り立っているように理解させられるのである。

そして、男、タコ、生態系の関係は、男、息子、家族や社会の関係と対比されることによって、生態系と人間の社会が接続される。

生物は、社会的生活を営む者もそうでない者もいるが、それらはつながっているということ、そしてそれがとても素晴らしいことだと気づかせてくれる作品だと言える。

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