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〇なし×なし戸籍の綺麗な無職の40代。 人生のきびしさを感じながらも悪あがきしたいお年…

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〇なし×なし戸籍の綺麗な無職の40代。 人生のきびしさを感じながらも悪あがきしたいお年頃。

最近の記事

雨上がりの空

少し前から当たり前の日常をとりもどした。 私は自由人だと思い込んでいたが根っこは常識人であるようで、週5勤務の土日祝日休みの生活がからだに染みついてしまっている。 何度かその社会から離れていたことがあるが、離れていること自体が苦しみになる。働くというかたちで社会に関わることが私には必要なのだ。 かなしいかな学校や組織で感じる大なり小なりの緊張感が私の人生のモチベーションなのだ。 所属する社会での格差や、あれこれの悩みももちろん大変ではあるのだがそのすべては学びであると

    • 1998,Weekend trip

      友人の学校がお休みである土日には合流してDaytripだ!とバースやストーンヘンジへ出かけいずれも大感激した。 帰宅後ホストマザー(マザーというか一人暮らしの女性。。)にどうだった?と尋ねられ説明すると昔はロープで入れないゾーンなんてなくてあの近くでピクニックしたのよと教えられた。 素敵。イギリス人はストーンヘンジのまわりでそんなことを楽しめたのね。 バースも紀元前に実際にここが共同浴場だったと思うと感激する気持ちがあふれた。(純粋だったな。いや単純だったのか?曇りがな

      • 1998,London⑤

        二週間の滞在中、ポートベローやカムデンロック、ピカデリー、コヴェントガーデン毎日時間の許す限りたくさんの場所を訪れた。 大英博物館にナショナルギャラリー。自然史博物館、初回なのでマダムタッソーにもいった。 ハロッズではあまりにも規模の大きな英国の百貨店の様相に始終きょろきょろしながら各フロアを見て回った。 ない動物はないのではないかと思わせるほどの種類のあるぬいぐるみが販売されているフロア。年中やっていると思われるクリスマスの飾りを販売しているフロア。お気に入りはもちろ

        • 1998,London④

          典型的なイギリスの家構えのその一軒家は、二階建てでおしゃれだった。 さすが急にホストをしてくれるというだけある。 初日の夜に、今夜は友人たちが遊びに来るのと言われよくわからないままテーブルにつくと彼女の手作りの料理で友人たちをおもてなしする会だった。 イギリスは料理がまずいってきいていたけど、外で食べるご飯も彼女のつくる手料理もとってもおいしかった。 この日のメニューで二つ覚えているのはサーモンとズッキーニの串焼きとでデザートのHotPeach with Chocol

        雨上がりの空

          1998,London③

          小さな夢を叶えたこの夏は、先に語学研修に来ていた別の大学の友人のおかげでさらに楽しいものになる。 繰り返すようだがスマホのなかった時代で連絡もままならないので、高校時代に経験をしたことを活かして友人のホームステイ先へ電話をした。 どんなに小さな経験でも経験しているというのはやはり強みである。 友人と会い、話す中で後半の滞在先を探しているというとホストファミリーに聞いてあげるという。 数日すると色よい返事がかえってきた。 ホストマザーの犬の散歩仲間のひとりが私を受け入

          1998,London③

          1998,London②

          当時のユースホステルは出会いと国際交流にあふれていた。 なにせSNSという逃げ場がない。 人がいるところで日本の友人たちへポストカードを書いているといろんな人に出会えた。英語もできないのに根本的なところを無視してわくわくしていた。 初めに声をかけてきたのは日本人だった。 英語でどこからきたんですかと尋ねられ、あなたと同じだよ。と日本語で返した。関東から来たという同い年の青年は人に飢えていたようでとても嬉しそうだった。 旅の計画を話すとどの人からももったいない、と言わ

          1998,London②

          1998,London

          大学二年の夏へ向かう気持ちはとても大きかった。 お金も貯めたし、やる気も十分。 ユースホステルの手配もしたし、いよいよあこがれの街ロンドンへ! ヒースロー空港へは早朝に着いた。 事前に立ち読みした情報で、慣れない街には明るい時間に着くことをお勧めするという記事を忠実に守って。 早朝のロンドンの地下鉄、通称TUBEは人もまばらで光にあふれてた。 重いスーツケースをまずユースホステルに預けなくちゃとアールズコートの駅で降りると、どうやら見当違いの出口へ出てしまったよう

          1998,London

          大学一年の夏に。

          大学生になった私はがぜん張り切っていた。 それまでは帰宅部だったのに部活にも入り、バイトを始め新しく出会う県外出身の友人たちとの人間関係を広げて高校時代を振り返ることも少なかった。 そして大学一年の夏はいかに輝かしいものになるのだろうかと期待に胸を膨らませていたが、前期の試験を終えてすぐに私は高熱に倒れた。 医師に薬を処方されても熱が下がらず宇宙をさまようようなふわふわした感じで3日は高熱にうなされていた。 この時代携帯電話を持っている学生が少なく、私自身もPHSはか

          大学一年の夏に。

          帰国

          ひたすらあたたかい記憶であふれてるニュージーランドでの生活はあっという間に終わりの時を迎えた。 お別れの日は朝からお葬式状態だった。 涙ながらにパスポートを隠して私をここにとどまらせてと懇願したのを思い出す。 ようやく帰れるという安堵であふれている生徒も中にはいたが、多くの学生はハミルトンを去ることに名残惜しい気持ちでいた。 滞在の途中では微妙な空気にもなった友人とも滞在を終えてみれば絆を深めていた。 帰国後もちろんホストファミリーとのやりとりは続けたし、留学したく

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          Emily in Paris

          season2が待ち遠しい!

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          Octopas's garden

          ニュージーランドの想い出と共に🇳🇿

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          Ohaupo,1995②

          私の高校ではひとつの家庭に二人の学生が滞在するという方式をとっていて、私は高校一年の頃から仲のよかった友達とペアになった。 毎日は楽しいはずだったが、ベッドは別々といえど同じ部屋だったのでひと月も同じ部屋にいるとなんだか微妙になってくる。 次第に違う友人を誘って学校後は遊ぶこともあった。 険悪になる要素がなんだったのかは今となっては思い出せないし、そもそも彼女と私の英語力はこの頃からすでに天と地ほど違った。 (彼女はその後、大学時代に米国単位互換留学、社会人になってか

          Ohaupo,1995②

          語学研修

          ニュージーランドの話に戻る。 学校は、現地のワイカト大学の付属の語学学校へ通っていたのだがその担任の先生がどうも私の家の近くに住んでいる方だったようで毎日4人の学生を同乗させて学校まで送ってくれた。 田舎道を100キロ以上は普通に出していたように思うが、生徒を乗せていくリスクを含め色々寛容だったなって思う。 いい時代だったんだろう。 講義の内容はほとんど覚えていないけれどBeatlesのOctpas's Gardenをきいたことと、Simonという先生の足が異臭騒ぎに

          語学研修

          Emily in Paris

          1話30分で内容も軽快だ。 主人公のエミリーが感じるフランスは私が二回訪れて感じたものと似てる。 アメリカ人が感じるフランスも垣間見えるこのドラマに私もすっかり魅せられている。 パリの街並みはもちろん素敵だし主人公やとりまく人物たちのファッションも魅力的。 観光客で訪れただけだが、フランスでは他国では味わったことのない困難や差別を経験した。 食べ物もおいしくて芸術も風景もファッションだって素敵。 人に助けられたことも何度か。 それなのに説明のつかない生きづらさを

          Emily in Paris

          ディアマイミスター

          リハビリ程度の仕事しかしていないのでこの一週間で16話もあるひとつのドラマを見終えてしまった。 韓国語ではわたしのおじさんというタイトルのこのドラマは終始かなしい。 かなり泣かされた。 日本では考えられないアプリを使った犯罪やシチュエーションが繰り広げられるのが韓国ドラマの面白さ。 ちなみに韓国語のおじさんということばは日本語のおじさんとは年齢の幅がまるでことなる。兵役を終えたらもうアジョシ(おじさん)なので20代の若者でもアジョシになる。 あまりにも泣いたから今度

          ディアマイミスター

          Ohaupo,1995

          私が滞在したオハウポ(Ohaupo)はニュージーランド北島の田舎町。 四半世紀が過ぎた今でも人口はわずか549人だ。 家から外をみるとどこからも牧草地が見えるそんな家で、キッチンの窓にはまだ青いトマトが並べられていて世界の平和を集めたような場所だった。 広めのガレージの脇からゆったりとのびた階段があって、2階部分が平屋の住宅部分で、今でも私が平屋にあこがれるのはこの家の影響かもしれない。 日本人からするとここから入るの?と思えるリビングにある窓から家へ靴を脱いで入る。

          Ohaupo,1995