適正時期に適正体験を出来たことは幸いである


はじめに

小さい成功体験、と言うべきか迷いましたが広い意味を持たせたいので上記のタイトルにしました。

小さなこと

適正体験、というのはひらたくいえば生まれてから死ぬまで
「だいたい現代日本に生まれたらこういうプロセスをたどるよね」
という意味を込めて形容しています。
別に人生のレールから外れた行為を咎めるわけでもないし
"未婚者"は所詮…先の時代の"敗北者"じゃけェ…!!!
とかそんなこと言うつもりはないです。

具体的には
「運動会で紅組白組の優勝経験」だとか
「映画や小説などで感銘を受けた経験」あたりですね。
もっといえば
「ゲームで一位になった経験」
でもいいわけです。

傍から見たらそんなことか、と思われるかもしれませんが
このような経験を適切に、かつ適度に触れていないと
今後の人生に多少ひずみが生じるわけです。


初めて何かに勝った経験を覚えているだろうか

先ほど挙げた運動会以外だと私はゲームかな、とぼんやり思い出せる程度。
幼少期だとSFC,64,PS1,GCのゲームを多少遊んでいました。
その中でも特に好きだったのはRPGであり、当時主に遊んでいたのはDQ4と7です。
RPGは自身がプレイヤーキャラクターとなりその街周辺を巣食うボスを倒す→装備を整える→新しい土地で巣食うボスを倒す→……と、遊ぶたびに強くなるゲームデザインが心地よく好きでした。
DQ5のオラクルベリーのカジノで手に入るメタルキングの剣やFF7でミドルオルガズムミドガルズオルムからベータをラーニングして無双する……みたいな小技や抜け道があるのも良かったですね。二周目以降は船を使って行ける一番強い土地に先回りして買い物したり。
このようなRPG的要素が強いゲームが好きなので当然MHP2Gはしこたま遊んでいました。なんなら今でもたまに遊びます。
お金が無かった中高生のころはフリーゲームなんかもよく遊んでましたね。
VIPRPGとか。物故抜きやブラックジョーク上等文化なのでここでは割愛。

RPGも幼少期だと予測できない未来に思いを馳せるコンテンツとしてワクワクしながらプレイ出来たのでああいう経験も当時摂取出来て良かったなあと感じています。
仲間集めやレアドロップを一切狙わないただひたすらレベル上げをする、という行為ですら面白かったですもんね。はぐれメタルが現れたときだけ無駄に正座したりして1/256を祈っていることもありました。まあ逃げられるんですが。
今は未来が多少予測できるコンテンツに時間やお金を投資することに億劫というか、なんなら面倒さを感じているため最近はストーリーを追いたいなら映画を見ることが多いかもしれません。それか自分で何かを創作するか。

ゲームをやめているわけではないのですが現状ストーリーを追うためのソシャゲラストオリジンいろいろして楽しみたいソシャゲ水着でバレーするアレくらいしか遊んでおらず、あとは気まぐれで再開した音楽ゲームや創作のヒントになるかもしれないゲームに軽く触れる程度なので昔ほど本腰を入れて遊んでいるわけではありません。

なんだかんだ言いながらDQ11Sがsteamで発売されたときは在宅時期と重なったため1日平均13時間くらいのめりこんでいましたし、容量の都合で消してしまいましたがタルコフのクソ長いマッチング時間を使ってチマチマ仕事こなしてたこともありますし、最近だと夕方にテラリアを起動していつの間にか朝になっているなどハマるときは一瞬で時間が溶けるタイプです。
これが怖いので未だにマインクラフトを買えずにいます。

ゲームばかりしてないで~~~という謳い文句は全世界で数億人の方が数百億回言われたことと思いますが、成功体験を積み重ねて自尊心が満たされる良いツールだと思っています。モノによっては明確に勝敗がつくので勝つと面白いからまた遊ぶ、負けたら悔しいからまた遊ぶ……と、ゲームをやらない理由がないくらいのモノだと思っています。
ガンシューティングでは咄嗟の判断力(とチーム力)、いたストなら自身と相手のメリットデメリットを加味した駆け引き、RPGなら言い回しやことわざにリソース管理、桃鉄なら全国の地名と特産品……メリットを挙げるとキリがありません。
そりゃあ長時間遊びたくもなる、というものです。
私の幼少期にはじめてゲームプログラミングやスーパーマリオメーカーがあれば間違いなくそちらの道に進んでいたと思います。
とは言ったもののツクールではエターナラーとして名を馳せていたのでこれもIFの話にはなりますが。完成までこぎつけたの2,3作しかないです。

私の時代はギリギリテレビのコンテンツを「昨日アレ見た?」とクラス内で会話できていた最後のほうの人間なのですが今ってどうなんでしょうね。
趣味も付き合い方も細分化されているので共通点が無くて寂しい顔をしていた子が少なくなるのはいいかもしれません。ゲーム買ってもらえなかった子とかいましたもんね。
ちなみにこの「児童期に肉親以外と特定コンテンツの話題を展開する」というのももちろん適正時期の適正体験です。
今この文章を読んでて多少なかれ苦しい思いをした方はブラウザバックして夜にホットミルクでも飲んで寝ましょう。バニラ香のある甘めのウイスキーorはちみつを少量とシナモンを2振りくらいしたら寝る前に心安らぐドリンクになります。


幼少期に衝撃を受けるコンテンツに触れる

児童文学やらライトノベルやら、人生で初めて活字に触れる経験は少なからずあるはずですが(ないという方は至急連絡ください)、
初めて読了した長編小説、というものは皆様覚えておりますでしょうか。
私はおそらくズッコケ三人組の何かなんですがもはや内容はおろか登場人物の名前すら憶えておりません。
その点活字に触れはじめのタイミングで手に取った山田悠介の「リアル鬼ごっこ」は小学生の時に読めて良かったな、と未だに思っています。
ぶっちゃけ文体や題材がサブカルそのものなんですが

佐藤王(バカ)「佐藤増えすぎてなんか嫌だから抹殺するわw」
佐藤(主人公)「」

で単純明快、捕まったら終わり。こんなに分かりやすい逃走劇はありません。
文体も難解なものや独特な言葉回しは使われておらず、小学生当時は情景がスルスルと頭に入っていきます。(裏を返せば中学生以上になれば稚拙な文章と一蹴するモノにはなりますが)

鬼ごっこ、捕まれば死ぬ。このルールだけは3歳児でも分かります。
そんな簡単な設定且ついつ捕まるか分からないドキドキは当時衝撃的でした。こんな内容の物語があって良いのか、と。
エログロナンセンスが物語の核となり最も面白い部分だ、と思っている人間なのですが今考えてみればこの思考はDEATH NOTEと本作を幼少期に読んだのが原体験となったからなのかな、と思ったり思わなかったり。
小学校6年生あたりの通知表に「おしゃべりで人を笑わせることに長けているのですがブラックジョークがやや気になります」みたいなことを書かれたのを覚えています。

同様に衝撃を受けた作品としては、CLANNAD ~AFTER STORY~がありました。BS-i(現BS-TBS)でToLoveるの後番組だったのでぼんやり見ていたらそのままのめりこみました。更にその後の番組がけいおん!という凄まじさ。今思えば現在の私の礎になった作品たちかもしれません。
原体験、と言われたらDQ7とクラナドアフターは私とは切っても切れない関係であるといっても過言ではありません。そこから得られたものを何かに生かしてる、というわけではないですが。人生そんなもんです。

何も視覚に頼り紡がれた物語に触れることのみが重要というわけではありません。

JUDY AND MARY - ラッキープール、いきものががり - 気まぐれロマンティックのサビの疾走感は最初聴いたとき後ろからハンマーで頭を思いっきりぶん殴られたくらいのインパクトがありましたし、「そうだ 京都、行こう。」というキャッチコピーは句読点を含めたった10字なのにこれ以上端的に京都へ赴きたいと思わせるワードは存在しないと断言できるほど素晴らしいキャッチコピーです。
これらの情報をただ情報として処理するのではなく、意図を汲み取って観察してみると新しい発見や気づきが得られます。店先でやや強制的に押し付けられる無料配布されるチラシも捨ててしまえばそれっきりですが、プロの仕事ですからよく見たら写真やフォントにも細かな気配りがされているのが分かるはずです。ただこれらを常に意識して意図を隅々まで探し回るというのはとても疲れるので気が向いたときにでもどうぞ。この辺を気にするのはある種職業病なのかもしれません。


感受性が高い時期に触れることが肝要

中学生までにあらゆるコンテンツを摂取したかった、と今更後悔しても遅いのですが、ある程度知識を蓄えている状態なら点と点を線で結ぶ、過去を思い出して郷愁するという楽しみ方が出来ます。
初めてWe Are The WorldのPVを見たときは小学校5年生でした。
名前と顔が一致している方はマイケルジャクソンとスティービーワンダーくらいだったのですが2年置きくらいに見返してみると知っている人が徐々に増えていくので年単位で行うアハ体験ができます。
こんなことできるの後にも先にもあのPVくらいしかありません。

他に映画で例を挙げるのであれば
「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」
「STAND BY ME」
の2作品は幼少期に見てもある程度歳食ってから見ても別の側面から面白いという絶妙な出来となっています。面白さの年齢別グラフがあるとすれば右肩上がりでも右肩下がりでもない凹という特殊っぷりです。前者は更に感動に寄せたら「アッパレ!戦国大合戦」になりますし後者も壮大な冒険という要素を重視したら「グーニーズ」になるので上記の2作は映画の中でも特異と言える存在かもしれません。あまり映画に明るくないので適当なこと言っていますが。

コンテンツに触れて「なんかすごい」「よくわからないけど感動した」という気持ちをそのまま留めておくのはもちろん結構なんですが、それを言語化し自身の記憶を記録として分析することは今後生きていくうえで益々重要になると思っています。だからといって強制はしませんが明確にやりたくない方以外は今のうちに訓練を積んでおくと吉です。私が今こうして書き散らしている理由のひとつでもあります。なんだかんだこうして持論を展開するのって結構好きなんですよね。数年後見返したら別の視点を持っていて更に思考が深化するということもザラですし。
ちなみに日記は付けたことがありません。毎日刺激があることがあれば話は違いますが同じことを同じぶんこなす生活をしていて変化がないので。

もうね、嘘つくしかないんですよ 日々特に何もないので
というオチを持ってきた4コマ漫画の秀逸さは今後も色褪せないでしょう。

おわりに

適正時期に適正体験をしないとこじれる例はいくつかあります。
例を挙げるのも憚るので具体的には述べませんが。

逆に適正体験を摂取したはいいものの発露の仕方を間違える、という例は
皆様も一度は経験したことがあるかもしれませんね。中二病なんかは好例かもしれません。

なんかかっこいいからという理由だけで新訳と旧約聖書を暗記し何かあるたびに都度引用してくる、みたいな人に一度出会ってみたかったですね。
私のXのタイムラインでは皆さん淫夢語録で似たようなことを行っています。

適正うんぬんは今から得たり矯正するのは不可能なので抗いようがありませんが、私のように「当時もしこうだったら……」と分析したり思いを馳せることはたまにやってみたら楽しいですよ。
逆パターンとして「感受性の高いときに摂取しなくてよかった」ものもあったりします。例えば中学生のときに東京事変を聴いていたら間違いなく東京に並々ならぬ思いを抱いて大学を卒業したタイミングで確実に上京していただろうという自信があります。

どうせ死んでしまえば全て無意味になるのでやるもやらぬも自分次第というへったくれもない話を最後にぶん投げて終わります。
結論としては無駄なことに無駄に意味を見出して無駄な人生を過ごそう!という話ではあるのですが。
その無駄こそ人生。シールドこそ我が人生

以上、現場からは無駄原がお送りいたしました。

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