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日々の不便さと人間らしさ

2月なのに、暖かい日が多くて、もう春が来たのかとカメムシさんたちが動き出してきている今日この頃です。
さてみなさま、冬の晴れ間はどうお過ごしでしょうか。

なんだか一ヵ月ほど前に目にした言葉が、なんとなく頭から離れなくて、日々の便利さと不便さについて少し書いていこうかなと思います。

先日の震災で、近くの古道具屋さんが
「便利なものも良いけれど、シンプルな生活に立ち返ることも必要だね」と言っていて、ほんとそれだなあと思いました。

便利なものが普及する世の中を否定するわけじゃないんだけれど、便利になりすぎているのかなあとも思うのです。
私だってスマートなフォンを使っているし、車もパソコンもほぼ毎日といっていいくらい使っている。
便利だからこそ、豊かな生活が出来ているのだとも思う。

でも、逆に見えなくなりつつある不便さを、手間を、楽しんでいたいとも思う。
友人に送るメッセージ(そんな急を要するものではなく、割となんでもない日常の話とか笑)を、パソコンで文字を打ち、電子メールで送るよりも、お気に入りの万年筆で文字を書いて、わざわざ郵便で時間をかけて届けたい。

友人にしたらいい迷惑かもしれないけど笑

通販でボタンを押せば、ほとんどのものを買える世の中。
だけど、自分の足で探しに行って話を聞いて、その人から直接買いたい。
その非効率さを、手間を楽しむ時間が私にとっては大切なものだなあと。

お金はないかもしれないけれど、そのかわり時間はある。
なら、効率が悪くたって、ひとりでなに馬鹿なことしてるんだって言われようとも、その時間を楽しむことの方が大切で、心のためでもあるんだと思うから。


時間があるからこそ楽しめることは、逆に時間がない人にとってどうしても手に入れられないものでもあるかもしれない。

時間に追われていると、ついついいかに効率的に動くかを優先させてしまいがちになっちゃうのも分かるから。
営業時代は、ない時間をいかに合理的に、より無駄なく使うか考えていたし。

今は家の外に出なくたって、できる仕事がたくさんあって、お金が稼げるようになって、
いつでもどこでも人と繋がっていられるようになった

それは果たしてすべて良いことなんでしょうか?

便利なものが増えて
効率的になって
どんどん不便さが消えていったけれど
そのなくなっていった不便さは、わたしたちの人間らしさでもあったんじゃないだろうか

自分が体験すること
足を動かすこと
それを忘れちゃいけないと思う

手に取らずとも、電子書籍で本は読めるようになった
恋人も手にあるスマートフォンで探せるようになった
クルマだって、自動運転で人が操作しなくてもよくなりつつある
面倒くさいことはAIがやってくれて
文字も書かなくなり、音声入力で文字すら打たなくなっていく

はたしてそれは、本当に自分の意志で選択したものなんだろうか
便利になって私たちの視野は広まったように感じるけれど、逆に知らない世界を知る手段を持たない人が増えて、視野は狭まってしまってはいないだろうか。

繋がりたい人としかつながらないということは
突発的な出会いから生まれる化学反応は起きない
非日常は引き起こされないのかもしれない


私はまだ知らないことを知りたいと思うし、知識としてだけじゃなく、自分で体感して経験として分かりたい。自分と全く違う人と出会って、何がこんなに違うんだろうと考えたい。

便利なものを「そういうものだ」と片づけないで、不便さを、苦労を、失敗を、ちゃんと自分のものとして楽しみたい。


エミカ


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