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11年

東日本大震災から11年が経ちました。
福島原発のこともあり、完全な復興に至っていません。
まだ傷が癒えていない方も多くいると思います。
犠牲者のご冥福と、1日でも早く復興できることをお祈りします。

3月11日ということで、TVで南海トラフ地震が起こった時の被害の特集をしていました。被害予想ばかりで、命を守る手段や準備についてほとんど解説がありませんでした。

さて、被害を受けなかった私ですが、毎年3月11日になると思い出すことがあります。(1月17日も思い出すことが沢山ありますw)

11年前の今日、私は出張で池袋にいました。

1450頃
最初はゴルフ練習場のネットの支柱がゆらゆら揺れていたのですが、いきなり街路樹がビュンビュンとしなりながら揺れているのを見て、ただ事ではないことを感じました。

1500過ぎ
15時からの打ち合わせは、津波の報道で強制終了となりました。
津波のライブ映像は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いてます。

1520頃
15時過ぎには使えていた携帯電話が15時半ごろから使えなくなっていました。阪神淡路大震災の時は携帯電話が通じていたのですが、東日本大震災は違いました。インターネットはそれ程影響を受けていないようでした。

1600頃
池袋の街は普段と変わらない様子でした。
携帯電話はつながらなかったので、公衆電話で次にアポをとっていた会社に打ち合わせキャンセルの連絡をしました。
コンビニで、携帯電話の乾電池式の充電器と飲み物を買って駅に向かいました。(阪神淡路大震災で身に着いた行動だと思います)

1615頃
駅に着くと山手線は止まってました。
復旧の様子はないので、歩いて新宿まで向かいました。
途中、データ通信も出来なくなったようで、スマホの地図が更新しなくなりました。(この教訓を生かして、地図データを全てスマホにダウンロードするアプリが登場しました)
歩くと土地勘が無い事が露呈します。駅と駅の間が全く分かりません。
こういう時は、交番か警察署で道を聴くのが当時は(今も?)セオリー。
道路に立っている道案内を見ながら警察署にたどり着くと、警察署の前で、地図のコピーを配っていました。
こういう時は、アナクロが一番です。

1700頃
地図を頼りに向ったのが、高田馬場。
もしかしてJRが運転再開していたらという望みを抱いて行ったのですが、まだ止まってました。
街は仕事を終えた人が増えてきており、運転中止のため少しざわついていました。
この時はまだ道路はいつもどおり流れ、バスも運行、タクシーも普通に走ってました。コンビニはいつもと同じでした。

1715頃
飲食店が開店する時間。
JRが動いていないなら、腹ごしらえ!
とにかく、お腹が一杯だと余裕ができます。(阪神淡路大震災で身に着いた行動だと思います)
営業を始めた居酒屋に入ると、2階席に1組の客がいるだけでした。

2030頃
同僚とビール飲んで、お腹いっぱい食べて満足していると1通のメールが。
「大丈夫?、生きている? こっち(舞鶴)も揺れた」
やっとデータ通信だけ復活したようでした。
生存報告をメールすると居酒屋を出ることに。

居酒屋の前は長蛇の列ができてました。
周囲の店は、営業していないところが多くありました。
大地震だし、電車が止まっているからでしょう。

2100頃
コンビニには、弁当、サンドイッチ、パンの棚は空っぽ。
スイーツもほぼ無し。水やお茶も残りわずか。お酒はたんまりありました。
営業している飲食店はどこも列ができていました。
夕食難民が発生してたようです。
バス停、タクシー乗り場は長蛇の列。
待っている人に尋ねると、タクシーはパッタリ来なくなって20分待っても1台来るかどうかって状態でした。
皆さん、悲壮な面持ちで並んでました。
皆さんが本当に危機感を持つには、地震が起きてから数時間が必要なようです。

歩道は沢山の人の流れができていました。
私たち酔っ払いは沢山の人の流れに流されて新宿駅へGO!。

2240頃
新宿駅は沢山の人がいました。
地下に降りると、これまた沢山の人が座り込んでました。
そんな中、一部路線が運転再開するとのアナウンスが流れました。
座り込んだ人は動く気配がありませんでした。

品川のホテルを予約していたので、動き出した大江戸線に乗って品川との距離を縮めることに。
電車の中は意外なほどガラガラでした。

2300頃
赤羽か大門に着いた。多分、大門だったと思う。
駅を降りて、品川の方向を人に聞いて歩き始めました。
道路は大渋滞になっていて、車は1mmも動く気配なし。
これは、タクシーもバスも来ないはずです。
歩道からあふれた人々は、道路に溢れて東京から離れる方向に大きな流れとなっていました。
人の流れに呑み込まれた車は当然動けません。
事実上の歩行者天国!

人の流れがだんだんとゆっくりとなって、お祭りが佳境になった神社の中のような状況。

2340頃
予約していたホテルに到着。
フロントは長蛇の列。
99%の人が同じことを尋ねていました。
「部屋は空いてますか? キャンセル待ちできますか?」

フロントの受付の女性は、嫌な顔せずに同じ対応を繰り返していた。
なんともスゴイ。プロだ!

2400頃
やっと私の番が来た。
「予約してましたが、部屋はありますか?」
フロントの女性はにこやかに、「お待ちしておりました」
次の言葉が、「申し訳ありません」
ドキッ!もしかして・・・と嫌な予感が...
「この地震でエレベータが使えないので、非常階段を使って歩いて昇ってください」
「もちろんイイです」
「ただ、お部屋が最上階なんです」
「・・・」

そこが「申し訳ありません」だったのですw

3月12日に日が変わった頃
ホテルの部屋でTVを付けて情報収集しました。
まだやることがあったのです。
一緒に出張に来た同僚に、運行情報をメールすること。
同僚は津波ニュースのライブ映像を見て、帰れないことを考えてホテルを早々に予約を入れてました。(阪神淡路大震災を経験した人はリスク管理が違いますね)
ただ、予約したホテルが新横浜だった(笑)ので、ホテルにたどり着くのは厳しそうだったのです。
「JR不通。菊名から歩け!」とメールしたと記憶してます。
菊名の住宅地で迷いながらも新横浜のホテルにたどり着いたとのこと。

余震の揺れで眠れなかったので、当時ガラケーで撮った品川の写真。
いつもの平和な夜のように見えます。
東京タワーがキレイ...深夜でも点灯してたんだ。

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3月12日早朝
浅い眠りのまま朝を迎えました。

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山手線は運休。帰宅困難者は足止め状態だったようでした。
(無理な帰宅はやめて、その場(職場)に留まりましょうとなったのは、この地震の後からです。)
しかし、新幹線は動いてました。さすが日本が誇る鉄道です。
朝早くの新幹線で京都へ。

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品川の夜景しか記憶に残ってなかったのですが、翌日は雲ひとつない快晴だったのですね。。。



後日談

出張で、2件の打ち合わせを行う予定だったのですが、翌月曜日(14日)に2件目の打ち合わせ相手から電話があり、「命が助かりました」とお礼を言わました。
津波で工場に被害が出たらしいのですが、私が打ち合わせを3月11日にゴリ押ししたので、ちょうど東京に着いたときに地震が起きたとのこと。工場の従業員は全員無事とのことで、不幸中の幸いでした。


さいごに

阪神淡路大震災と東日本大震災の両方とも、端っこのところで経験しました。
同僚もそうですが、阪神淡路大震災の経験のおかげで、少し落ち着いて先を予想していたところがあります。
地震で飛び出してきたおばちゃんを見た同僚は、大地震後は電話が通じなくなるからと言って、揺れている真っ最中に「地震です。皆無事です」って会社に連絡を入れるのを見て笑ってしまいました。直後に地割れに皆な飲み込まれたらどうするんだよってw

阪神淡路大震災がきっかけで、非常食や倒壊した家屋から脱出するための道具(バール、のこぎりなど)を常備するようになり、
東日本大震災で、いつどこでも被災する可能性から、非常食を日常的に食べれるようなものに入れ替えたり、予備バッテリーやラジオなどのアナクロ的な情報機器の見直し、ライトや簡易ツールなどの普段持ちできるものを充実しました。

長々と、どーでもイイことを書きましたが、前の災害を記憶しておくことはいざ災害に直面した時の行動に反映されると思ってます。
次は富士山噴火なのか、南海トラフ地震なのか、それとも空から何か落ちてくるのか、考えられる災害は沢山ありますが、冷静さを保てるようにすることが最大の準備かもしれません。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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