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私の半生と10年間の誤解(前編) 故郷の記憶を取り戻すために本音で語り合った

4歳から20歳まで、私は福島で過ごしました。

東日本大震災から10年。「あの日何が起こったのか?」「被災地の今の現状は?」ということが多く報道される中、震災の記憶を思い起こさない環境で過ごしてまいりました。

ブロガーとして「伝える」側の視点から様々な事を書き綴ってきた私が、主にテレビや新聞では伝えない現状を書きたいと思います。

協力してくれたのは、学生時代を一緒に過ごし、現在もいわきで過ごしている2人の友人。

激動の10年とこれからについて聞き、それを受けた私の心境の変化を記録します。

※感染防止対策を徹底して撮影・取材を行いました。

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私が物心ついた4歳の頃、横浜からこの地へ引っ越してきた。幼少の頃の思い出の大半はここで起こった出来事である。私の故郷は紛れもなく福島県である。

小・中・そして高等専門学校時代は大きな不自由もなく過ごしてこれた。早々に就職先を決めて卒業。そして故郷を離れることになった。

いわきで育ってきた15年もの間、私には気になっていたことがあった。

テレビや新聞をはじめとした様々なメディアや地域の人々から「この地域は日本一安全な地盤なんだよ」と頭の中に刷り込まれてきた。なぜか?

その理由のひとつが

「大地震が起きない場所には原発が建っているから」

と教えられたから。

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いわきは福島県の沿岸、いわゆる浜通り地区最大の都市である。福島第一原子力発電所から南に約50kmの距離にあり、原発事故の影響を大きく受けなかったものの、決して無縁とはいえない街であった。原発の周囲に住んでいた人々が各地へ避難し、一部はいわきへ移った。やがて仮設住宅→復興支援住宅が建ち、定住する被災者も現れた。

2011年3月11日夕方。

すでに故郷から遠く離れた場所で暮らしていた私は、当日の夜勤に備えて仮眠をとっていた。起きてから私の携帯に受信されていた大量のメールに気づく。テレビをつけると衝撃の光景。両親も住んでいる。しかしすぐには駆けつけられなかった。

鉄道などの公共交通網はストップ。ガソリンが配給制になっていたので自分の車で支援活動に向かっても逆に迷惑をかけてしまう。

そして2011年5月、やっと帰省をすることができた。両親の家(当時)は海岸から数kmほど内陸にあったため水道が止まっただけで安堵した。

ところが...

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ここに掲載した写真は”ほんのほんの一部”である。

津波で壊れた家屋に紙が貼ってあった。

「ここは私の家なので取り壊すことを許可します 〇〇(氏名)」

というような内容。その瞬間私は思わず身震いした。


あれから10年。このタイミングで故郷・いわきへ戻ることは不要不急の帰省でないと判断した私は、失った大切な何かがあることを信じて学生時代を過ごした友人と再会することにした。この友人とは日頃から連絡を取っているが、帰省を伝えたのは直前のことだった...にも関わらず快く返答してくれた。限られた時間であるが一つでも多くの現状を知りたい。

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以下、待ち合わせのカフェにて超BIGなアイスコーヒーを飲みながら話を伺う。

だいぶ戻ってきてるよね

小名浜も豊間も防潮堤がサイクリングロードが整備されてるから県外の人もみんな来るし、前よりも良くなっていて綺麗になっていてさぁ。

「やってんなぁ」って感じ。

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⬆︎海沿いに整備された復興サイクリングロード「いわき七浜海道」 総延長53kmで青い線が引かれている。

6号国道で北上して久ノ浜まで行って「浜風きらら」という店ができて。震災の時にはなかなか行けなかったけど、あの辺津波になっていて燃えながら避けていた状態だから...

俺のつながりでアパートの土方関係の取締役をやっている人がいて、原発関連の下請けをやったりもしてるんだけど、浪江とか大熊は建物は建っているが人は戻ってこないし治安も良くないと言って。大熊を車で通った時は電気もついていない状態で何かが出てきてもおかしくないゴーストタウンみたいな場所もまだある。

いわき市から入っちゃうと家の明かりとか煌々とついているけど、大熊や浪江とかは進んでねぇんじゃねぇかなと思う。

食い物に関しては風評(被害)ねぇけどな。福島産だから買わないという人はいないどころか「福島産だから買おう」という人がいるくらい。「頑張ってね」とか心配してくれる人は多かった。あくまで個人だが、テレビで見るような風評とかはない。

ーたくさんあるうちの一つの事象が大きく捉えられちゃうの?

そう、あの震災から一ヶ月経ったあと東京滞在で原発がーとか言わなかったから「あの時大変だったね」って声をかけてくれたので「いい人らばっかだな」って。

ーいわきに住んでいた人と、原発周辺からやってきた人との関係性は?

よくないんじゃねぇの。

(富岡町)夜の森では、目と鼻の先では補償の範囲に入るし、同じ地域で線引きされることの対応の違いが生まれてしまう。今はいいかもしれないけどこれからの人たちには重荷になっていくよね。賠償は俺的にはやめたらいいんじゃねぇのかな。これから20年、30年、50年先には投資としてやってくれればいいんだけど、県だけじゃなくて国も財政が厳しいのに国も成り立たない。ただでさえコロナなのに...

人それぞれに受けたつらさは違うと思うんだけど、これから先の福島とか故郷で生活していく人たちのことを考えると、もうちょっと考えるべきじゃないかな。

毎日見るけど戻れない故郷

みんな「故郷に戻れない」っていうけど、そんなこと言ったら俺も一緒だし。俺の住んでいたところは津波の整備区画に指定されて住んではいけなくなった。今住んでいる場所の目と鼻の先だし。目の前までは普通に行けるよ。でもそこに立ち入ることはできない。

そういう状況が状況だから。でも「生活していくか」って切り替えてやっていけなければいけないし。逆に言うと賠償金はうちだけじゃないじゃん。ほかのところにも利用したらいいんじゃないかな。俺の家は全壊じゃ無くて大規模半壊だから補償金だけは全然足りないじゃん。あのときはどうすっかなぁって頭にあった。

なんだかんだやって普通にできているから。「どうしよう!どうしよう!」と騒ぐ状況を直すにはどうすればいいかを考えてきたからここまできたし。うまく考えて頂けたらいいし。どうしても(被災地という言葉が)マイナスイメージになってしまう。うちはそんなこと思わねぇけど。

震災、そしてコロナによる子供たちの変化と危機

子供たちが気の毒だなって。(前の仕事場で)子供たちに「いわき市のことを英語で紹介してみて」と質問した。そしたら出てこなかった。「いわき市って何?」って言ったから「アクアマリンとかハワイアンズあっぺ?」って言われたら「あ、そうか」と。

「自分の住んでいる町だからいいところ何かしら1つくらいあるんじゃねぇか?」って聞いたら出てこねぇんだ。地域の魅力がこれからの人に対して伝わってない。結局は例えば都道府県の魅力度ランキングにしてもどんどん低くなってくるんじゃないの?

ー生まれ育った場所に対しての想いが薄くなってきているんじゃないかな。俺らの小さいときはまだバーチャルが少なかった。リアルでいろんな人と繋がってたんだよね。だいぶ変わってきたと思う。

そこにいることによって享受する特別な価値がないのかなぁ。

ー今の4〜5歳にめっちゃ危機感を感じている。多感な頃に外出自粛を受けて巣ごもりしている。俺らの頃って砂いじりやったじゃん。飽きなかったもん。このご時世なかなか体験できないもんね。

許容の具合が狭いよね。人によって様々だし、倫理上よくないこともあるけど「〇〇のモノを食べました」と発信しても、それを見た誰かが「貧しい」とか「不謹慎」とかあるけど。そういう人たちに対しては流すか黙って通報だもんね。

SNSやマスメディアは「誤解」を与え続けている

中之作という場所で「つるし雛飾り」のイベントがあって「外出自粛のご時世にありえない」というコメントがあった。その人は飲食店で休業要請になったけど自分で働きたくても働けない状況が広まった中で「つるし雛飾り」を楽しんでいる様子に嫉妬を感じていた。言われた人たちに対しても炎上受けるし批判した人も叩かれかねないからね。結果的には中止になったけどね。SNSは便利だけど顔が見えないからね。怖いんだよ。

ー便利と恐怖が表裏一体だよね

お客さんからダイレクトメールでクレームが来た。それはすぐ改善したのでそういう意見を寄せてくれる方はありがたいよね。最近はテレビもワイドショーも見ないようにしている。見解や感情が入っちゃうから。鵜呑みにしやすいじゃん。うちの母ちゃんそうだから。そういうふうにしてだんだん広まっちゃうんだよね。事実だけを見て、見解やコメントは見ないようにしている。

震災のことについてもおそらく本当のことと脚色をつけたものが半々かもしれないし、(むしろ)脚色をつけたものが多いよね。「進んでない」って言ってるけど進んでいるし。だから処理水にしてもやっていなかったらこのまま海が汚染されていたかもしれないから。「実際はすげー頑張ってるじゃん」って。メディアが「進んでない」っていうのなら自分たちで先導きってやればいいんだし。ギャーギャー騒ぐんなら黙って見てろって話。

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友人から本音を聞きはじめて1時間が経過した。私の中では「被災地」という言葉が消えていた。「被災地」で一括りにするのはあまりにも申し訳ないと感じた。「こうなのではないか?」という考えを持っていわき入りしたが、早くも“間違っていなかったこと”と“誤解していたこと”に分別された。

前者は震災報道はあまりにもネガティブだったということ。

後者は復興格差は“街”単位だけでなく、一つの区域、もっというと私道一本挟んで隣り合った場所でさえ格差を生む条件が存在しているということだった。

今度は別の友人と会う。どうしても見ておきたい場所へ向かうために...

【後編予告】

・復興を通り越して〇〇した故郷

・これからの〇〇年

・決意「もう〇〇〇〇〇〇〇〇のはやめよう」

後編へ続く



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