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福岡伸一先生ファンが、「世界は分けてもわからない」をテーマに茶事をやってみた。

僕は福岡伸一先生(生物学者、作家)のファンでして。

「生命とは固定したものではなく、合成と分解といった相反するバランスの中で存在する『流れ』である」といった趣旨の福岡先生のコンセプトにはめちゃくちゃ同意しますし、それを「動的平衡(どうてきへいこう)」という言葉でモデル化されているのもシビれます。

・・・といきなり書いてもピンと来ない方もいらっしゃるかと思うので、福岡伸一公式サイト でも使われている、こちらの動画をご覧ください。
こんなイメージです。

「動的平衡」のコンセプトはいわば生々流転 / 本来無一物 / 一期一会 / 一座建立といった、仏教(禅)や茶の湯で語られるものとも通じていると感じています。

また、福岡先生の著書『世界は分けてもわからない』を拝読した後にこのタイトル自体が僕自身にとって非常に重要で意義深い言葉になりました。

例えばもし、

『「色即是空 空即是色」を小学生でもわかる言葉で言い換えてください』

と言われたら、僕は

「世界は分けてもわからない」

と答えます。

それぐらい根本的なものをこのフレーズには感じています。

そしてこのフレーズは、僕が茶の湯を通じて時折感じる「個が関係しあってこその一体感」(それは道具とだったり、庭の草木とだったり、茶席のお客様とだったりと様々ですが)とも重なるのです。

・・・というわけで、個人的には福岡先生のコンセプトを反映した茶事(ちゃじ)、言うならば「世界は分けてもわからない」をテーマにした茶事をぜひ一度やってみたい!とかなり以前から考えておりました。

とはいえ、「実際にそれってどうやるんだ?うーむ(- -;)」と我ながら考えあぐねていたのですが、前回の発酵茶事などを通じて何となくイメージが固まってきたため、福岡先生のファンの方々をお招きしてやってみました!

結果から言えば、皆が非常に楽しめ、更にそれぞれ得るものもあった素晴らしい会でした(^^)

今回はその内容をレポートさせて頂きます。


茶事(ちゃじ)とは?

先ほどいきなり茶事(ちゃじ)という言葉を使いましたが、これは茶の湯における正式なもてなしの場で、お菓子とお茶だけでなく料理(懐石)やお酒まで出ます。炭を注ぎ足すといった小イベントも挟みつつの4時間コース!ですが、この時間が体感的にはあっという間に過ぎてしまう、何とも不思議なイベントです。

亭主(ホスト)が正客(しょうきゃく:メインゲスト)と連客(お連れの方々)を迎え、自ら設定したテーマに沿った様々な趣向により「マイワールドにようこそ」とばかりに独自の世界観にいざなう面もあります。

現代アート的に言うならば、五感をフル活用してのインスタレーション(空間そのものを使ってのアート表現)に映画のような時間的展開を加えたものとも言えるでしょう。

今回は亭主が僕、正客が普段からヘアカットでお世話になっている代官山cheriオーナーの三宅さん、そして三宅さんのご友人で福岡先生もご存知の方がお2人、あわせて3名のお客様という形での茶事となりました。

「世界は分けてもわからない」をどう表現するか?

何といってもコレ↑が今回の難題でした。
前述のように、個人的には茶の湯をしているとそれに通ずるものを感じるのですが、正客をはじめ今回のお客さまは茶の湯を未経験の方が多い。

なので、もっとわかりやすい形で示せるような小テーマを寄せ集めることで、何となく全体が立ち現れるようなものを目指すことにしました。
※まさに、この記事の冒頭の動画のようなイメージですね。

小テーマを列挙していくと、

 ・流れや循環(上=下=左=右)
 ・身近にある壮大さ(小=大)
 ・多くのものが成立させる1つ(多=単)
 ・視点によって変わるが同じもの(表=裏、静=動)
 ・それは「あるがまま」か?(自然=人工)

などなど。
 
では、実際にどうやったのか?ご紹介していきましょう。

寄付(よりつき):世界を巡るもの

茶室に入る前の待合室である寄付(よりつき)の壁にはトウガラシのリースを掛け、その下には書籍『トウガラシの世界史』と「動的平衡」の動画を流すiPhoneを置きました。

寄付は、茶事でお客様が一番最初に入り目にする場所ですので、そこにあるものは視覚的に今回のテーマをイメージしやすいものにしました。

中南米を原産地とするトウガラシはコロンブスの新大陸発見をきっかけにして広がり、今や世界各国の食卓で使われています。身近な食材ですら世界を巡り巡っていること、そして円状のリースからもその「循環」に想いを馳せて頂ければと思いました。

床の間:デジタル古活字の組版が生んだ「世界は分けてもわからない」

せかいハ 分けても わからない

茶席において床の間とは、亭主(ホスト)の想いやその場のテーマを表す最も重要な場所です。
今回は、江戸初期の活版印刷である「嵯峨本」をデジタル化し、自由に入力したテキストをAIが古活字の文脈に直して画像化してくれるWebサービス、そあん(soan)を使い、「世界は分けてもわからない」を色紙にしてみました。

 ・400年以上も昔の手書きの字がデジタルデータとなって目の前にある。
 ・文字が集まった活版印刷が、再度バラバラになりまた別の書を産む。
 ・そして、書かれている言葉は「世界は分けてもわからない」である。

そういった幾重にも重なる、相対するような表裏一体のような関係性を込めた掛軸です。

床の間でコレに向き合うことで、ある種のアンビバレンツ(愛情と憎悪など、相反する感情を同時に持つ)のような心持ちを感じて頂けたらなとも考えました。その心情こそが、「世界は分けてもわからない」ということの一端かなとも思うのです。

食事の前に・・「五観の偈(ごかんのげ)」

床の間などについてのやり取りが終わると料理(懐石)となります。
・・・が、今回はその前に五観の偈(ごかんのげ)についてご紹介させて頂きました。

曹洞宗 曹洞禅ネット 『五観の偈』に学ぶ より引用


これは主に禅宗の僧侶が食事の前に唱えるもの。詳しい解説は上記のリンク先をご覧頂ければと思いますが、「多くのご縁を経ていま目の前にある命、それを頂くことで維持するこの身で何を成していくのか?」といった問いかけをさせて頂きました。
日々の食事により身体が作り替えられていくというのは「動的平衡」のわかりやすいイメージの一つかと思いますが、まずそれに意識を向けて頂きました。

料理(懐石):諸々の意図を込めて

●折敷(おしき):寄付から繋ぎつつシンプルに

折敷=お膳ですね。器が三角形に並んで出されます。

ご飯、汁、そして向付(むこうづけ)と呼ばれる肴です。
汁は昆布だしと塩、そして具の焼きピーマンのみ。

ピーマンは言わずと知れた非常に身近な野菜ですが、もともとトウガラシの仲間です。シンプルにそれを味わって頂きながら、寄付のトウガラシで示した「世界を巡るもの」というコンセプトを感じて頂きました。

向付はしめサバです。サバは背の青い部分と腹の白銀の対比が特徴的ですが、これは上空の鳥からは海の色、海中から見上げる大型生物からは空の光に自分を溶け込ませて見つかりにくくするという二重の保護色なのです。この「相反する2色をその身に持つことで自己の存在を保持している」というところから今回のテーマにつなげてみました。

●酒:生酛純米「尊徳」(栃木 渡邊佐平商店)

軽くお燗にすると何とも滋味深く、寒くなり始めた秋口に合うお酒

人道に基づいた農業振興により貧しき人々を救う、まさに経世済民に尽力した二宮尊徳(=二宮金次郎。薪を背負いながら読書に励む像が有名ですね)の名を冠した日本酒です。
尊徳の弟子がその言動をまとめた『二宮翁夜話』という書の冒頭に、尊徳が詠んだ以下の短歌が挙げられています。

音もなく香(か)もなく常に天地(あめつち)は
書かざる経を繰り返しつつ

目の前で常に繰り返しされているが、具体的な実体として感じられはしない。しかしそれはこの世を成す真理である。・・という点を今回のテーマに重ねてみました。

●煮物椀:懐石ミネストローネ

一般的な「メインの具を引き立てる」煮物椀とはある意味で対極の「多様さが生む一体感」

「ミネストローネ」と聞くと、ベーコンやトマトの入った赤いスープを思い浮かべます。が、普段からお世話になっている発酵デパートメントさんの発酵スープサブスクにて、

「ミネストローネとは、料理名ではなく概念である」

と学びました。

つまりは、日本の味噌汁のようなもので、具が決まったものではなく余った野菜などをオリーブオイルで炒めて煮込んだもの。
(腹持ちがいいように、穀物や豆類を入れたりもするそう)

特に今回はフレンチでいうところの「シュエ」という技法、つまり塩を使って野菜に汗をかかせて煮込んでいます。玉ねぎと潰したニンニクをオリーブオイルでじっくり炒めてから、エリンギ/なす/いんげん/キャベツ/パプリカ/じゃがいもを順番に入れては塩を少々加えて炒めていきます。
味の主役になりがちな肉は使っていませんが、旨みを調味料から加えるためにミツカンの山吹酢(赤酢)そしてカツオと昆布だしの麺つゆを少々。
多様な要素が絡まり合いながらも、落ち着きのある一体感のある味わいに仕上がりました。

誰か主役がいるのではなく、多様な個性が集まり汗をかいて奮闘しながらそれぞれの役割を果たして一体感を生み出す。これはまさに人体や社会の縮図であり、個々を分けて考えては生まれないものです。この一椀には今回のテーマを込めています。
※茶事の当日に1時間ほどずっと野菜炒めたり煮込んだりと、手間も一番かかりました(^^;)

●焼物:鮭の三五八漬け

焼物としては、一夜漬けの素 三五八(さごはち)に半日ほど付けた鮭の切り身をお出ししました。三五八とは塩3:麹5:飯米8の割合で混ざった漬け床で、これをまぶして一晩ほどおけば、野菜・魚・肉なんでも味わい深くなってしまいます。
麹(こうじ)による発酵作用でタンパク質がアミノ酸に分解され、新たな旨味が生じます。つまり、発酵とは「分解からの創造」というプロセスです。普段から味噌や醤油をはじめ様々な発酵食品が身の回りにありますが、それらは皆、分解から創造に至る生命の流れの一端を感じているとも言えるでしょう。

●小吸物(こずいもの):純胡椒と銀杏

本当に胡椒の粒のままの塩漬けです。そのまま頂いてもピリッと心地よい刺激で美味しい。

小吸物(こずいもの)とは別名「箸洗い」とも言いまして、料理がひとしきり終わると箸を洗うために出される蓋つきの小さな器に入った吸物です。口中のリセットの意味合いもあり、ほぼ味のないもの(松の実を入れただけのお湯など)が出されます。今回は季節がら銀杏を炒ったものに、風味づけとして枝付き粒胡椒が瓶詰めになっている「純胡椒」を入れました。
※胡椒は冒頭のトウガラシと同様に世界を巡ったスパイス、という意味もあり。

●八寸:むかでのり、鮎のなれ鮨

八寸というのは酒の肴として出されるもので、「海のものと山のもの」で2種と言われたりします。
今回、写真の右上にあるのは、甘辛く炒めたこんにゃくのように見えますが、実は「むかでのり」という海藻を煮詰めて寒天のように固めたものの味噌漬け。実際、食感や味わいは甘辛こんにゃくと似てますが、どこか海っぽさが漂う珍味です。

そして左下にあるのは、魚なのはひと目でわかりますが、これは長良川の子持ち鮎のなれ寿司。一般のなれ寿司というと鮒ずしのような独特のクセがありますが、この鮎は全くクセがありません!チーズのような味わいになった周囲の米と食べると絶品の肴です。

パッと見の想像と実態が異なる2品をあえてお出ししました。

僕らは普段から自分の経験や考えで物事を決めつけてしまいがちです。決めつけというのはある意味で「分類」ですが、何事も実際に体験して味わってみないとわからないものです。まさに「世界は分けてもわからない」ですね。そういった想いを込めました。

香物(こうのもの):沢庵(酸味の出たたくあん)など

最後に出るのが香物(こうのもの)、つまりお漬物です。
数種類出ることもありますが、必ず沢庵は出ます。それを箸でつまんで、お湯を入れたお椀を清めて食事を終えるためです。
こちらには、しっかりと漬けた古漬けの商品である「酸味の出たたくあん」、らっきょうたまり漬け、梅干しのシソの葉包など、発酵デパートメントさんのものを使わせて頂きました。

漬物とは、微生物や物理/化学変化による様々なものの生成/分解が交錯して生まれる、ある種の小宇宙です。身近なご飯のお供にも冒頭の動画のような世界観が含まれているのだと思いながら頂くと、より味わい深いのではないかと思います。


懐石は以上となります。

それぞれの趣向のご説明などしながら、皆様に美味しく楽しく召し上がって頂けたようで、何よりでした(^^)。


さて、この頃になると、茶事が始まった際に炭火にかけておいた釜の水が、いい感じに沸いてきています。実はこの懐石を頂いている時間というのは、いわば「お湯が沸くまでの壮大な時間稼ぎ」なのです。

なぜならば、これは茶事(ちゃじ)です。
名前の通り、皆さんは食事をするためではなく、お茶をするためにいらしているのです。
そう、本番はここからなのです。

懐石の間にかなり炭火も落ち着いてきてますので、湯沸かしの最後の追い込みをするために燃料である炭を追加する「炭点前(すみでまえ)」というものをします。

炭を追加した後に、嗅覚でもお楽しみ頂けるように香木を入れているところ

これにていわば前半戦が終了。

ここからいよいよ、お茶を点ててお出しする後半戦に突入です。

主菓子(おもがし):会津のこころ

お茶を点てる際は、まずお菓子を先にお出しします。
茶事の際は「濃茶(こいちゃ)」という非常に濃厚な、コーヒーで言うエスプレッソのようなお茶がメインディッシュとなります。と同時に、茶事というイベントでもメインステージのようなもの。亭主も客も心をしずめて無言で向き合います。

そんな濃茶の前のお菓子に今回選んだのは「会津のこころ」。ソフトサブレの記事が生チョコのあんとしっとりと絡んで美味しい♪・・・のですが、今回はその円形と表面の「心」という文字にテーマを込めました。

「生物とは『流れ』である」というのが福岡先生の言ですが、僕らの「心」というのもまた流れて移ろいゆくものです。円は形を示しますが、流れや循環も表せます。それをイメージさせるようなお菓子を、お客様それぞれの「心」と向き合っていただくためのきっかけとして頂ければと思い、流水の景色を持った鉢にのせてお出ししました。


さて、主菓子を召し上がって頂いた後は中立(なかだち:休憩)を挟み、その間に亭主は床の間の内容を入れ替えます。

後座の床:残花と「自然という幻想」

10月のこの季節、寒くなっていくと姿を消してしまう草花を惜しむ意味合いで多種の草花を使います。これを残花(ざんか)と呼びます。
今回も9種類ほどを竹籠に入れてみました。

さらにその傍らに置いたのは、
 左側:書籍『自然という幻想
 右側:客に入れて頂くための草花
です。

全体を見るとこういった感じ

利休が茶の心得7つを示した「利休七則」の中に、「花は野にあるように」と書かれています。ここで言う「野」とは「自然」と言い換えても良いと思いますが、考えてみれば摘んできた花を茶室に飾るという行為は言ってしまえば全くもって「不自然」なことです。また、茶室には庭もあり、今回の茶事のために手入れをしていますが、それも同様に「不自然」なこと。
しかし、人はそういったものの中に「自然」を見出します。

では「自然」とは何か?、というのが今回の問いかけです。

自然と人間はよく対比されますが、そういった二元論で分けられるものなのか?むしろ自然は、世界は、人が生み出しているとも言えるのではないか?世界と人を分けてしまっては、本当のことはわからないのではないか?

書籍『「自然」という幻想』のタイトルは、その問いを後押しします。

さらに、亭主が整えた「野(自然)」に自ら手を加えて新たな「野(自然)」とする作業をお客様にして頂くことで、問いを深めて頂きました。

正客の三宅さんが花を入れている様子。

濃茶(こいちゃ)

濃茶に使ったのは伊藤園さんの「和悦(わえつ)」。
万人が和みと深みを味わえる、僕の好きなお抹茶です。

いよいよ茶事のメインとなる濃茶(こいちゃ)です。
たっぷりのお抹茶に対して、比較的少なめのお湯で練り上げていきます。

この時は何も言わずとも皆が無言になり、
 茶筅(ちゃせん)のシャッシャという音
 湯の沸くシューという音 
 細かな衣ずれの音
そういった、なんの意図も無い自然な音だけの世界になります。
とても心落ち着くひとときです。

今回はここにも1つ趣向を入れてみました。
音楽家ジョン・ケージの生み出した、「全く演奏しない曲」である『4分33秒』を取り込んでみたのです。

『4分33秒』はオーケストラが集まっておきながら全く演奏しない曲目ですが、実際は無音というわけではありません。聴衆の息づかいやざわめき、建物外の音といった偶発的な環境音などを「音楽」として味わって頂く意図があります。先ほど書いたような茶室に生じる静かで豊かな自然音を味わう感覚はこの『4分33秒』の意図と非常にマッチするのではないかと思ったのです。

『4分33秒』は3つの楽章から(いちおう)構成されていますが、以下のような行為にそれぞれを割り当てました。

※本来はほんの数秒だけ道具を構えたり間を取るだけで次の動作に移るところを、何もせず一定時間動かずにいた、ということです。

 第1楽章:30秒(建水を持ち込んで柄杓を構えた状態で待機)
 第2楽章:2分23秒(お辞儀をして元に戻った状態で待機)
 第3楽章:1分40秒(濃茶を練っている状態)

第1、2楽章の部分では無言で何もせず、茶室に起こる音だけを聞いて頂きました。ただ、お点前の本編に入ってしまうと中断できるタイミングがないため、濃茶を練っている茶筅の音だけがシャッシャと響いている時間そのものを第3楽章として扱わせて頂きました。

実は濃茶の時は亭主(僕)は客ではなく道具と向かい合っているため、お客様の様子は分かりませんでした。が、道具を前に心を落ち着けて何もせずにいる時間というのはとても心地よく、意識が空間に溶けていくような心持ちでした。
恥ずかしながら、ここは客というより僕自身が「世界との一体感」のようなものを感じて楽しんでいたかもしれません(^^;)

●出帛紗(だしぶくさ):ホックニーのスイセンの花を描いたハンカチ

練った濃茶をお出しする際には、出帛紗(だしぶくさ)と言われる布を添えます。客はこれを広げたところに茶碗をのせて濃茶を味わいます。

通常ですと出帛紗は織物なのですが、今回はデイヴィッド・ホックニー展で求めた『No.118、2020年3月16日「春の到来 ノルマンディー2020年」より』という、スイセンの花が描かれた絵のハンカチをお出ししました。

濃茶を召し上がっているところ。
せっかくなので、ハンカチを開いてご覧頂きました。

私見ですが、ホックニーという画家の作品からは「人が捉えている『世界』そのものを描こうとしている」という印象を受けます。

目立つところは細かく、そうでないところはざっくりと捉えて、そして時間と空間を圧縮して「だいたいこんな感じだよね」という1つのイメージとして世界を把握しておく。それが人間の「クセ」(習性)です。

つまり、人が見ている世界というのは、世界であって世界そのものでない。人の外にあるものであって人の内にしかないものでもある。

そういった「世界を人間と分けて捉えようとしてもわからんじゃないかと思うんだが、どうだね?」という問いかけをホックニーの絵からは感じます。
まさに今回のテーマにピッタリじゃないかと思ったわけです。

薄茶のお菓子:ジャズ羊羹 classic

ピアノの鍵盤のような見た目。黒糖の羊羹に干しイチジクが入っています。

メインの山場である濃茶が済むと、亭主も客もリラックスして「まあ最後にもう一服どうぞ」ということで薄茶(一般的なイメージの、薄めのお茶)を点てます。
しかし、お茶の前にはお菓子がつきものです。本来はここでは干菓子(ひがし)と呼ばれる水気のないもの、例えば落雁(らくがん)をお出しします。

が、今回は水気のある羊羹をお出ししました。本来は主菓子に使ってもいいくらいのものですが、今回は趣向としてあえてこのタイミングにしてます。

なぜピアノか?それは福岡先生が故・坂本龍一さんと親しく、NHKのドキュメンタリーで対談などもされているためです。
お二人のやり取りは本当に刺激的で、彼らにとって
 福岡先生:遺伝子→生命
 坂本龍一:楽譜 →音楽
という関係性は等価なのです。
ジャンルの違いという「分け方」をも越えて通底する交流は、今回のテーマにも繋がります。

プレイヤーとしての坂本龍一さんはキーボードやピアノ奏者であり、そこの関係性からこのお菓子を選びました。

薄茶(うすちゃ)

ジャズ羊羹を召し上がって頂き、それまでの趣向についてなど色々と歓談しつつ、和やかな空気の中で皆様それぞれに薄茶を一服差し上げました。

これで茶事の全てが一通り終わり、・・・なのですが、
ここから色々な話が盛り上がり、結局さらに2時間以上も話し込んでしまいました。

客としてご参加頂いた皆様、本当に楽しんで頂けた様子で何よりでした。普段は大学院で生物の研究をされていて、お茶は初体験という方もいらっしゃったのですが「自分が今やっている研究との関係性を感じ、とても意義深かったです」とのご感想。20代でいわゆる理系のアカデミアの方に茶の湯での体験をそう評して頂けたのは本当に嬉しかったです(^^)。

それだけでなく、ご正客からは翌朝に「一晩経ってみて、改めてこういった気づきを得たと実感しました」という熱意と丁寧さにあふれたご感想のメッセージを頂き、まさに感無量の思いでした。

まとめ

冒頭でも書きましたが、「世界を分けてもわからない」をテーマにした茶事ってどうやるんだ?から始まったわけですが、何とか無事にやりおおせることができました。

我ながら、「なんでそんな表現のしようのないテーマで茶事をやりたがるのか?」と思うのですが(^^;)、おそらくは茶事という形で具現化する過程でそのテーマについての自分の考えを深掘りすると共に、その結果を他の人と共有したいのだと思います。

今回、その成果は十分にあったと思いますが、まだVer.1.0未満という気持ちもあります。
※何と言ってもテーマがそう簡単に腹落ちできるものでもないですし。

今後もこんな形で、自分が表現したいと思うことを茶事という形で皆様と楽しく具現化していけたらなと思います。

今回、正客としてお越しくださった三宅さん、ご連客の方々。
普段のご指導から準備・当日まで御支援を賜りました岡田宗凱先生。
当日サポートしてくださった同門の方。

このような素敵な場が持てたのも皆様のおかげです。
改めて心より御礼申し上げます。

今後とも、どうぞよろしくお願い致します。

野中健吾 九拝

好き勝手なことを気ままに書いてるだけですが、頂いたサポートは何かしら世に対するアウトプットに変えて、「恩送り」の精神で社会に還流させて頂こうと思っています。