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アレルギー対応の活動をしてるからこそ、私は卵が大好きだとも伝えたい

ある日、仲の良いママさんの一人と一緒に食事していた時のこと。

「やっぱ卵、美味しいよね。アレっ子には、申し訳ないんだけどさ」

普段は言いにくいんだけど、というようにホロっとこぼされた。

そのママさんは、上の子に卵のアレルギーがあり、個人としてもアレルギー対応を広める活動をしている。

頼んだ食事が、卵が美味しい。そのたった一言を語るのに、「本当は自分が言ってはいけないのだけど」という引け目を感じる。自分の子どもや、活動を届けているアレっ子ご家族を思ってだろうか。

分からなくは、ない。私も、同じように感じることは時々ある。

卵は、代表的アレルゲンの中でも最も患児数の多い食材だ。アレルギー対応の活動の中では、真っ先に除去対象として持ち上がる。

だから、アレルギー対応の活動をしている人たちは、卵が使われていなくて、みんなで食べられるものを増やしたいと主張することが多い。

いつもは卵除去を訴えている自分が、卵が好きだということや食べることで、一貫性や信頼性が低くなるのではないかという恐れが、無意識のうちにあるのだと思う。

けれど、本当にそれでいいのだろうか?本当にそれは正しいのだろうか?


“生きにくさ”を解消する活動が、新たな“生きにくさ”を生んではいないか?

アレルギー対応の現場に携わるようになって、早1年半。

活動されている方の声を聞いて、ときどき感じるのが「アレルゲンとして除去して欲しいもの(卵など)を作った人や、それが好きな人の心はどうなるのだろう」ということ。

私自身も、どうしてもアレルギーっ子でも食べられることの多い特定原材料7品目(卵・小麦・乳・そば・落花生・エビ・カニ)の含まれない商品こそが素晴らしい、となってしまうことがある。

本当は優劣を付けているわけではなく、その他の製品を否定しているわけでもない。現状であまりに7品目不使用の選択肢が少ないから、ただ選択肢がもっと増えて欲しくて、対応されているものがあるのが喜ばしいだけなのだ。

それでも、当事者でない人からすると、やはり“7品目不使用の製品こそが善”と聞こえてしまう場面があるように思う。

卵や小麦を使っている製品だって、アレっ子を傷つけたくて作られているわけではない。美味しいものを届けたくて作っている人たちの想いが、ある。それらが好きな子たちだって、沢山いるはずだ。

自身が一生懸命作っているものが否定されたら……?
自分が好きなものが否定されたら……?

辛くはないだろうか。好きなのに好きと言えないのは、しんどくないか。

アレルギーっ子が生きやすいように。アレルギーっ子家族が生きやすいように。そうやって“生きやすさ”を届けるための運動が、他の人の想いに気づかずに別の“生きにくさ”を生んでしまってはいないか?

アレルギー対応の活動をしているからこそ、率先して卵が好きだと素直でありたい。

敵を作ってしまう対立構造を生む活動は、一定の大きさまでは広げやすいかもしれない。けれど、圧力で対応を求めることになってしまい、いい気持ちで助けてもらえるわけではなくなってしまう可能性もある。

対立構造を生む、敵を作る活動は、どこまでいっても限界があるのではないかと、私は思う。

私は、食物アレルギー対応の旅行を運営している。アレルギー対応をしてくれる地域が増えて、アレっ子家族も安心して楽しめるところが増えたらいいなと思う。アレっ子たちが、食べられないことで孤独にならない社会になればいいなと思う。

だけど、私は卵が大好きだ。疲れたときは必ず食べたくなるし、居酒屋でもほぼ必ずだし巻き卵を頼む。小麦の香りがするパンも、ミルクたっぷりのカフェオレも大好きだ。この世から卵や小麦、乳がなくなったら悲しすぎる。

だから、アレルギー対応の活動をして10品目(卵・小麦・乳・そば・落花生・エビ・カニ・ゴマ・大豆・ナッツ類)除去を謳っているけれど、個人としてはそれらも大好きなんだよと、素直に言っていたい。

いや、活動しているからこそ、私は素直に伝えたい。嫌いなわけではなくて、選択肢が必要だと思っているだけなのだと、ちゃんと伝わって欲しいから。どんな些細でも、自分の「好き」を殺したくないから。

活動している私たちが素直に話せば、あまり詳しくないためにどうしたらいいかわからないという人も、普通でいいのかと思えるようになるから。

その姿勢が、将来アレっ子のアレルギーが治ったときに、もともとアレルギーだった食材を毛嫌いしないことにもつながるかもしれないから。

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