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【サブカル考】回り道上等。"最短距離"じゃなくていい。

前回のnote投稿、第2回にしてなんと2桁の"スキ"を頂いてすっかり恐縮しきっているHSP勢オタクであります、反応していただいた皆様、ありがとうございます。

調子に乗って第3回のnote投稿。
日本唯一(自称)の"女子スポーツ作品専門ブログ"を運営する者が贈るサブカル考。
今回の主題は、近年の作品の傾向についての雑感です。

最初に誤解のないように断っておきたいのですが、現在の傾向をblog主である私自身が必ずしも否定的に感じているわけではなく、「最近の若者は~」的に上から講釈を垂れるつもりはないのでして。
タイトルだけを見てそのように感じられたのなら、どうかこの投稿を最後まで読み進めていただきたく思います。


「異世界もの」の乱立と背景

一応、「乱立」とは書きましたが、「粗製乱造」とは言っていません。
テレビアニメ化される作品の多くは、原作読者の支持があってこそ実現するものですので、決して否定的に解釈しているわけではないのですが。

とはいえ、やはりタイトルが長く、テーマが似通った作品(「なろう系」というカテゴライズは好きではないですが)が近年特に多くなっていることは傾向としては否めません。
それでも、現代の作品のトレンドとして、この流れに今更文句を言ったところでどうなるものでもないですが。

ただ個人的に私が感じることとして、気になるのはタイトルでも書いたとおりに「努力の過程」をすっ飛ばしてしまった作品が増えたこと、です。
・「努力していること」を人に見せたくないという意識なのか、
あるいは
・そもそも「努力することに意味を感じない」ということなのか、
要因として様々なことが考えられますが。

異世界もの」の多くは最初からチート的能力を所持しており、そうなるに至った背景は「端折られる」ことがほとんどです。
圧倒的な能力を最初から持ち、異世界で無双する、そういった作品が現代に増加しているのは、ある意味では「作り手側」がシナリオを練りやすい、という事情もあるかもしれません。

さらに、現代の傾向としてこうした作品が隆盛なのはやはり、「効率主義」が何にも増して優先されるようになってきたことは非常に大きいと思うのです。

効率主義も行き過ぎると…

タイパ」と呼ばれるワードが注目されるようになって久しい現代。
動画の倍速再生などでいかに時間を無駄なく使うか、とか「#時短レシピ」というハッシュタグの検索に勤しむ人たちを見るにつけ、私としては感じることが多々あるわけですが。

「最短距離」で人生を走り抜けようとしていく人たちに言いたいことがあります。
「回り道」にも意味があるのだと。

年を重ねてから、後になって思い返してみると、若い時に色々と回り道したことは、今になって無駄ではなかったと思うことがたくさんあります。

それは、RPGで例えるなら、「サブクエスト」的存在です。
本編のメインクエストを最短でクリアすることばかり考えていては、そのゲームの魅力を半分も味わえていないような気がするのです。

サブクエストは、クリアしているか否かは本編の攻略に殆ど影響がありません。だからといって、それらの存在を否定することができましょうか。
効率一辺倒でメインクエストを突き進んでいく人たちは、もはやサブクエストの存在にすら気づいていないのかもしれません。
そこで得られる様々な養分があるのに、それをみすみす逃してしまうのはもったいない!と感じるわけです。

説教くさい言い方になってしまうかもしれませんが、《ミヒャエル・エンデ》による著作『モモ』でいうところの「灰色の男たち」のように、効率を突き詰めていった結果として、かえって我々現代人は不幸になっていないでしょうか。

便利なアイテムが増えて、昔に比べて遥かに色々なことができるようになっているはずなのに、現代の人たちはなぜ昔に比べて余裕がなくなっているのでしょうか?

「努力の過程」を徹底して描く女子スポーツ作品群

翻って、私は「女子スポーツ作品」を25年以上前から愛し続けてやまない者ですが、過去から現代に至るまで、この作品群のテーマで「ぶれない点」があると思っています。

それは、「努力の過程」をしっかりと描いている点、です。

かつてのような根性論による「スポ根」イメージからは脱却しているものの、本質的な部分では一貫しており、過酷なトレーニングの描写こそ省かれてはいても、「ヒロインが苦なく頂点に立つ」という展開はほとんどありません。

Ⓒ秋田書店 / 村岡ユウ 「もういっぽん!」1巻

アニメ化もされた女子柔道漫画『もういっぽん!』は、女子スポーツ作品ということで放送前の評価は必ずしも高くありませんでしたが、放映終了後には高い満足度を記録し、東京アニメアワードフェスティバルでもTOP10圏に入る健闘を見せました。

もういっぽん!』のヒロイン【未知】はコミックの作中1巻冒頭で柔道についてこう評します。

日焼けすると胴着が擦れて痛いし…
寝技で髪の毛抜けまくるし
寒稽古つらいし
胴着重いし
鼻血は出るし
骨折するし
失神するし
たいして強くなれなかったから
もうやらないって決めたの

Ⓒ秋田書店 / 村岡ユウ 「もういっぽん!」1巻

もしかしたら、効率主義の現代人にとって、これらのことは「無駄なこと」かもしれません。
たいして強くなれなかった」にもかかわらず、理不尽な苦労ばかりさせられた、と感じるかもしれません。

でも、【未知】にとっては、これらの経験は無駄ではなかったのです。

私は、女子スポーツ作品を追い続けているから言えることがあります。
「最初から上手くいくヒロインなんてそうそういない」
むしろ、挫折や周り道、理不尽なことだらけです。

「若いうちの苦労は買ってでもしろ」なんて言葉は、現代の人たちには響かないかもしれません。
でも、もし作中の【未知】が、最短距離で正解を求めるヒロインだったとしたら、彼女は"本当の柔道"というものに出会うことはなかったでしょう。

「正解」を求めすぎる現代

どうしても説教くさく聞こえてしまうかもしれませんが、やはり今の世の中、どうも「正解」を求めすぎているような気がします。

自分と少しでも意見が異なれば、「論破」などと言って相手を打ち負かすことにばかり執心するコメンテーター気取りの人たちも気になります。

私に言わせれば、「何が正解か」なんてことは人生を積み上げていく中で徐々に見えていくものであって、最初から全部わかるようなことなんてほとんどないわけです。

アニメひとつとってみても、放映前からまるで鬼の首を取ったように、「この作品が覇権だ」とばかりにランク付けし、人気のない作品には最初から見向きもしない「まとめサイト」ばかり。

物事は複雑なのにも関わらず、わかりやすい「ワンイシュー」の言葉だけが独り歩きし、「本質」を見極めず単純化して語る傾向が強まる昨今。
そんな世の中への違和感を持ちつつ、私は一貫して女子スポーツ作品群を追いかけてきました。

大衆が支持するものには気をつけろ

私が最近の風潮に特に違和感を感じるのは、「民主主義」と「多数決」がイコールだと思っている人が多いこと。
しかし、本来、それはイコールではありません。

世の中では、「多くの人が支持するものこそ正義」という価値観がますます強まっています。
それは閉塞感が多い時にこそ強くなります。

第二次世界大戦で、ヒトラーが台頭したのは「大衆の支持」があったからです。
日本でも太平洋戦争を多くの人が支持した結果、開戦へと繋がっていきました。
「多くの人が支持するものが正しい」のであれば、先の大戦で多くの犠牲者が出たことは「正しかった」ということになってしまいます。

本来の民主主義とは、「多様な意見をすくいとる」ことであり、むしろ少数意見を大事にすることこそが、民主主義を強くすることだと思うのです。

私が好きな「女子スポーツ作品」は、はっきりいって「マイナージャンル」であり、オタクという存在がメジャー化してきた現在ですら、あまり見向きもされないジャンルです。

それでも、私は「大衆が支持するかどうか」なんてことは気にせず、「自分が好きなもの」を貫いてきました。

「バブル景気」のように、特に日本人は熱狂すると周りが見えにくくなる傾向があります。
「高度経済成長」で自信をつけたものの、経済が悪くなると、拠り所としていたものが崩れて自信を失っているさまを見ていると、日本人は「軸」というものを無くしてしまったのではないかと感じます。

「スポ根」嫌いでもいい、でも「努力の過程」を蔑ろにはしてほしくない

「スポーツ作品」というと、どうしてもかつての『巨人の星』のような、スパルタやスポ根といったものを想起されて、忌避してしまう方というのはいらっしゃると思います。

私もHSP勢なので、いわゆる「体育会系」の雰囲気には馴染めず、一昔前ののスポーツ作品というものに苦手意識はあるのですが。

それでも《あだち充》先生の「タッチ」以降、スポーツ作品もスポ根的な描写というのは少なくなってきており、爽やかさを前面に出すものが確実に増えてきました。

「努力型」の主人公から、「天才型」の主人公へと、作品の中心が移り変わり、確かに作中に激しいトレーニングのシーンなどは減っていきました。
「努力」「汗臭い」という要素は「カッコ悪い」という社会のトレンドもあると思いますが、しかし、だからといって「努力したことをなかったことにはできない」のであります。

近年の女子スポーツ作品中では、確かに汗まみれのシーンというのは少なくなりました。
しかし、確実に「努力の跡」は見えるのであります。

Ⓒ集英社 / ふなつかずき 『瞬きより迅く!!』 1巻

女子空手をテーマにした作品『瞬きより迅く!!』1巻においては、直接的に「辛い練習」の描写こそ描かれませんが、ヒロインのそれまで重ねてきた歩みや決意といったものがキャラクターの佇まいに表されます。

「作品の傾向」は"社会の写し鏡"

「努力の過程」が描かれない最近の作品にも、「作者の伝えたいメッセージ」がある。それが伝わればいい、という意見もあるでしょうし、それはもっともです。
表現というのは多種多様であることが望ましいですし、そうした傾向自体を否定するつもりはありません。

ただし、作品の傾向というものは、社会を映す鏡であるということを考えれば、この先こうした作風が続くということは、社会全体に「努力などむなしいものだ」という厭世観を広げる一助になる可能性はあるわけです。

世の中では、「いとも簡単に儲かる」という話に引っ掛かり、投資詐欺や架空のもうけ話に飛びつく若い人のニュースが後を絶ちません。

手っ取り早く実利を得たい」という、そうした風潮が社会を支配していく中で、私はやはり、女子スポーツ作品のような一貫した努力の過程を描き続けるスタンスを持ち続けるジャンルを応援していきたいという気持ちがあります。

「本当に大切なもの」って、きっと変わらない

よく昔のものを引き合いに出して「今の時代に合わない」とか、「時代錯誤」というフレーズを聞くのですが、そもそも、
『時代』って正しいものでしょうか?

先ほどの「大衆が支持するものに気をつけろ」と重複する部分はありますが、その時その時で、確かに人々に受けるものというのは変わってくるでしょうし、それは自然なことです。

しかし、例えば「縄文人」と「現代の人たち」を比較して、本質的に何かが違うのかというと、決してそうでもないと思うのです。
面白いことがあれば笑い、悲しいことがあれば泣く。
楽しいことは皆とシェアしたいし、新しい発見があればわくわくする。
それって、今の人も昔の人も変わらないんじゃないかと。

HSP勢内向型人間である私は、長いスパンで物事を考える傾向があるので、「今の時代で起こっていること」だけが正しいという世間の空気を如実に感じるのでして。
短期的な利益だけでなく、後に続く世代の人たちの営みなどを考えていくときに、そういう刹那的な面白さだけを追求する世の中でいいのかな、という思いはやっぱり持ち続けていて。

上から講釈を垂れるつもりは決してなくて、ただ単純に、
努力する過程」って、今も昔も大事で。
それをアニメとか漫画とか、ゲームとか。
いろんなサブカル作品でもっと見てみたいなぁ…と思う私なのでした。

テイオーさんがお礼を言いたいようです


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