糺す

糺の森の記憶の池

 葵橋の真ん中に、女がひとり立っていた。すらりとした佇まいで、北側の欄干に手をおいて賀茂川の上流を見るともなく見ていた。美しい女だった。

   俺は自転車に乗って橋を西詰から渡ろうとしていた。古い自転車で、ペダルをぐいと押してもそれほどタイヤは回らない。怠けた速度で、その女に俺は近づいていった。通り過ぎた信号機の根もとには花が供えられていた。 

 「ねえ、貴方」

  女に声を掛けられた。こちらに向けられた貌は高級な陶器のように見えた。飾り気のないノースリーブの真っ黒なワンピースを着て、濡れたような艶のある黒髪をまっすぐ背中まで下ろしていた。そして怜悧な眼で、俺を見る。

 「六戸部くんじゃないかしら」

  無意識にブレーキを引くと、自転車はスッと止まった。

 「やっぱり六戸部くんね」

  確かに俺の姓を呼んでいた。珍しいものなので間違いではあるまい。

 「……どこかでお会いしたでしょうか」

  俺にはこの女をちっとも知る由がなかった。女は右手の人差し指をそっと唇に添えた。

 「そう、忘れているのね」

  俺はこの女に会ったことがあるのか?  俺の思考を読んだように女は答えた。

 「大学二年のとき、一緒に映画を見に行ったわ」

  それを聞いて、つと記憶の再生スイッチが押された。確かに俺は、目の前の女とふたりで映画を見に行ったことがある。しかしそれだけだ。

 「思い出してくれたみたいね?」

 「でも名前が思い出せない」

 「クロサキよ」

 「すまない。でも、何の映画を見たかは覚えている」

 「へえ。何だったかしら」

 「007は二度死ぬ」

  女は笑った。くすくす、と。

 「よく覚えているわね」

  女は欄干に両手をついて、賀茂川を覗きこんだ。水面はくすんだ色をしている。今日はひどく灰色に落ち込んだ空模様だった。

 「にしても、こんなところで会うなんて偶然よね。どこかへ行くところだったの?」

  俺は橋の向こうに見える建物を指差した。

 「すぐそこの、家庭裁判所にちょっと用があってね」

 「家庭裁判所?」

 「そう。最近、離婚したもんでね」

 「あら、そう。親権は取れた?」

 「子どもはいない」

  女は少し考えこんでから、こう言った。

 「ねえ。もしよかったらこれから下賀茂神社に行かない?」

 「下賀茂神社? どうして」

 「だって私、今日そのためにここに来たんだもの。折角こうして会えたのだから、一緒に行きましょうよ」

  俺は少し考えてから言った。

 「悪いんだが、家裁でちょっとした用を済ませなきゃいけないんだ。それが終わってからなら時間はあるが」

 「それはどれくらい時間がかかるのかしら」

 「三十分と少し、かかると思う」

  女はまた人差し指を唇に添えた。この女の癖らしい。

 「いいわ、待っているから」

 

 一時間と少し経って、俺が家庭裁判所から出ていくと、女は律儀にそこで待っていた。俺は、この女は立ち姿が美しいと改めて思った。

 「遅くなった。思ったより混んでいてな」

  女はわずかに笑みを浮かべた。

 「謝らずに他人のせいにするのは相変わらずなのね」

  そうだったろうか?

    橋の東詰にある京都家庭裁判所のすぐ近くに、下賀茂神社への参道、糺の森はある。

   空はいよいよ淀んでいた。しかし、参道に入るとそれもほとんど見えなくなった。都市の真ん中に残された原生林はまるで天を覆うかのように枝葉を伸ばしていて、まだ昼だというのに辺りは薄暗い影を落としていた。湿った植物のにおいが俺を落ち着かない気分にする。森全体に、内側からせっつかれているようだった。

   参道は細長くまっすぐに続いていて、遠くその先には大きな鳥居の丹色が小さく見えた。

 「不思議な雰囲気の道ね」

  女は別段興味なさげに言った。曇った昼間の森の中には他に人影もなく、俺と女が砂利を踏む音と、鴉の啼く声、そして時折、そばを流れる小川の水のせせらぎが聴こえてくるばかりだった。何故か女の方から口を開くことはなかった。

 「なあ、傘は持っているか」

 「持っているわ」

  女は小さなバッグを肩に提げていた。

 「この中に入ってる。折り畳みよ」

 「ならいい」

 「降ってきたら入れてあげるわよ」

  笑みを含んだ声に、俺は答えなかった。

 「なんで俺達は映画を見に行ったんだ?」

  早口で女に尋ねた。なぜ早口になる必要がある?

 「なんでって、貴方が誘ったのよ」

  女は心底わからないという風に答えた。

 「覚えてないの?」

 「覚えていない」

  本当に覚えていなかった。しかし確かに、大学生当時は俺も若く、それゆえにいろんな女を本能的に口説いていた。 

 「そう、まあいいわ」

  ほとんど会話らしい会話もないまま、俺達は下賀茂神社を見てまわった。やはり参拝客はほとんどおらず、時折巫女や神官らしき人々がいそいそと働くのを見るきりであった。俺は特に心躍るようなこともなく、そしてそれは女も同じようだった。

 「どうしてここに来たかったんだ?」

 「あら、それは来たかったからよ。それ以上の理由は必要かしら」

  変な女だと思った。

 「今、変な女だと思ったでしょう?」

  この女は俺の心を読んでくるようだった。それを認めると同時に、なにかいやなものを感じた。

 「ああ」

  早めにこの女とは別れた方がいい。そう思った。

 「あともう一つ、行きたい場所があるのよ」

  俺は内心舌打ちをした。

 「大丈夫よ、帰り道だから」

  女は先に歩き出して、すぐこちらに振り返った。

 「だって貴方、ぜんぶ顔に出ているわよ」

  人差し指を唇に添えて、女は笑った。


     神社を後にするのと同時に、ついに雨がぽつぽつと降り始めた。女は傘をささなかった。鳥居をくぐるときに女が本殿の方を振り返って一礼したので、俺も形だけそれに倣った。

   参道の西側には、小川を隔てて道があった。大型のバスでも余裕を持ってすれ違うことができるくらい、幅の広い道だ。実際、ここを観光バスが通るのだろう。両脇には高い樹木が枝葉を伸ばしていて、まるでトンネルのように空間を丸く包んでいる。今はがらんとしていた。その樹木の大トンネルを、女は進んでゆく。その後ろ姿を見つめながら、俺もそれに付いていった。

   覆いかぶさるような原生林のおかげで、雨を浴びることはほとんどなかった。濡らされることもなく無数の雨粒が木々の枝葉にぶつかる音を聴けるのは、どこかしら奇妙な気がした。まるで音楽のようね、と女は言ったが、俺にはわからなかった。

 「どこへ行くんだ」

  俺は女に問うた。落ち着かない気分は高まり続け、早くこの女と別れたいと俺は思っていた。

 「もう少しよ。大丈夫。帰り道でしょう? 安心して」

  女は俺の内心など意に介していないかのように歩き続けた。雨音に混じって二、三羽の鴉の声が続けざまにトンネルに響いた。広い空間なのに、閉じ込められたような不安に俺は陥っていた。

 「どこへ行こうと言うんだ!」

  思わず叫んだが、女はまったく聞こえないかのように歩き続けた。 

 「畜生」

   しかし、俺はそれでも女に付いていった。その女から目を離すことができないのだった。女の黒い髪とワンピース、そこから伸び規則正しく揺れる白い二本の腕。そういう後ろ姿から、異様なまでの吸引力とでも呼ぶべき何かが放たれていて、俺を掴んで離さないのだ。

 「ここよ、着いたわ」

  そして女が振り返った。

   参道とは反対側の林にくぼみがあり、そこに薄暗い空間が口をあけていた。まるで樹木の洞窟のようだった。悪天候のせいで分からないが、いつの間にか陽もずいぶん傾いていたのだろう。湿った枯葉が地面を覆い隠し、その上に朽ちた樹が倒れている。女はすっとその空間に消えていった。追いかけて中に入ると、くぼみは奥の方へとさらに広がっていた。

 「もう少し奥にあるの」

 「……何が?」

 「見たら解るわ、きっとね」

  そう言われて、吸い寄せられるように女に付いていく。女は半分ほど枯葉に埋まった、ゆるやかな石段を下りて行った。

   その先の光景を見て、俺は脳を直接殴られたかのように一瞬で何かを理解した。  そこは、大地の大きな凹みだった。ほぼ正確な円状に直径約15メートルほど、地面が2メートルほど下がっている。ほとんど枯葉に埋もれていたが、よく見ると石垣のようなものでその凹みは明らかに周囲と仕切られていた。

   女が立ち止まったので、俺も立ち止まった。すると俺はその凹みのちょうど中心に立つことになった。

 「解ったでしょう?」

 「ああ……」

  俺は認めた。

 「ここに、俺のなにもかもがあるんだな」

 「ええ」

  女は肯定した。

 「正確には、沈んでいるの」

 「沈んでいる?」

 「そう。ここには昔、水があった。池だったのよ」

  その瞬間、俺の脳裏に強いイメージが喚起された。糺の森の原生林の奥、幽邃に湛えられた水。その池に、俺は浮かんでいる。仰向けに、目をつぶり、そっと浮いている。そこでは俺は、ただ満たされているだけだ。何もかもがそこにあり、なにもそこにはない。ただ、水だけがある。そこに俺は浮いている。

   雷鳴のような印象が過ぎ去ると、俺はそっと眼を開けた。そこには女が立っていた。

 「お前はとても美しいな」

  ふと口に出していた。

 「相変わらず気障なことを言うのね」

  女は笑った。

 「そうだな、そうかもしれない」

  ふと、頬に冷たいものを感じた。わずかな水滴が頭上から降っていた。見上げると、この池跡にとって木々の天蓋とでも言うべきか、そこの中心に、白い孔が開いていた。白いのは雲だった。枝葉が、全てを覆うほどには広がりきらなかったのだろう。その孔から水が降り注ぎ、この場所が再び水で満たされることを、俺は夢想した。

 「それじゃあ、行きましょうか」

 「ああ」

  女に誘われるがまま、むしろ自分の意志を持って、俺は女の家に行った。木造の、ひどく古い、廃墟のような家だった。そこの寝室で、俺はその美しい女を抱いた。白い背中を撫でると驚くほど冷たかった。しかし、その女そのものはどうやら真逆のようだった。最中、女は唐突に叫んだ。

 「名前を呼んで!」

 「名前?」

 「そう、私の名前を。呼んで」

 「名前を、呼ぶのか」

 「そうよ、呼んで。私の名前。葵って」

  言われるがまま、俺はその名を何度も呼んだ。


           *


     ある日、糺の森の池跡で、男の死体が発見された。男は池跡の中心に仰向けに倒れており、検死の結果死因は溺死と推定された。

  男の眼は、天に向かって見開かれたままだった。  



初出:『未』6月号〈上〉(同志社大学文学研究会・2014年7月9日)

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