君の精神状態は。

今、京都から奈良の家に帰る近鉄電車の中だ。ついさっき、向かいの席に座っていた女性が降りた。僕が最初に付き合った女の子に、とてもよく似ていた。ファッションは全く違ったし、よく見ると顔立ちも記憶の元恋人の方がすこし丸かったように思うから、まず別人なのはわかった。ただ、それでもその人が電車を降りるまで、うつむきがちなその顔に意識が向かってしまうというのは、抗いがたいものだった。いま乗っているのが、当時彼女が住んでいた路線だという考えも、あったかもしれない。

こういう時、少し自分が嫌になる。過去の強い想いが、すっかり全て心の壁に焼き付いてしまっている自分。マトモではないと思う。

ある種の自負として、僕は生半可な気持ちでは人を本気で好きにはなれない。抗いがたく理不尽な引力にのみ、僕は引き裂かれる。そこに中途半端さはなく、ただひたすらに、全か無かだ。だからこそ、それが終わった後、僕には死ぬまで抱える呪いがかかるのだと思う。客観的にはきもちのわるい話だ。

ある種の強い感情を、僕は永遠に覚えている。そういうたちなのだ。よく『名前を付けて保存』と言われるけれど、それは厳密には正しくない。保存したファイルは削除もできるが、僕の精神にはそれが焼き付いてしまう。長時間表示した画像の影を残す、古い液晶画面みたいに。そういう記憶が、過去想った回数ぶん、多重露光の写真みたいにレイアーを形成して、僕の魂には残ってしまう。それはそれ以後の僕の魂の在り方に浮かび続ける残像である。

同様に、強い印象を残した作品の言葉や映像、音声も僕に影響を与え続ける。幾度も出会う傑作に、僕は呪われてゆく。

中学のころ、病気を経て学校に復帰した僕が強く傾倒したライトノベルが、ある作品の言葉を引用した。その言葉、音声を、僕は今に至るまで不意に思い出すのだ。

君の精神状態は、無感覚か肉欲か恋愛か、そのいずれに在りや?
僕をして言わせれば、むしろ第三の状態に在りと思う。前二者に比べて、その方が、より君らしいから。
(チボー家の人々/マルタン・デュ・ガール)

これに出会って以来、僕の精神状態とはつまりこの三つ以外ではあり得なくなってしまった。僕は何か事あるごとに自らの精神状態を自問し、いずれかの状態であると自答し、第三の状態を自分の正統と信じた。ある意味僕の精神状態の定義は非常に偏狭で視野狭窄なものになってしまった。簡潔に言えば、恋愛至上主義の完成である。

あれから10年。僕は間違いなく精神状態をそのいずれかに定義しつづけている。ここしばらくは、無感覚だ。ひどく物寂しい、乾いた砂漠みたいなところだ。おそらく本当はそうじゃない。他に様々な可能性があるのだろう。ただ、僕の目には三つ以外には映らないのだ。そのように定められ、作り上げられ、呪われてしまった。再び作り直されるには、無感覚という状態は少し鈍感すぎる。第三の、君らしい状態にのみ、僕の感受性は在る。最初に書いたように、それは今や記憶に焼き付いた残像、幻想でしかない。時折記憶のカケラをかすめて通る日常の中の小さなしるしだ。呪いの一部だ。僕は自分自身の感情の残した強い呪いの力でいま生きている。

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