自分の人生を振り返る(2)

自分の人生を振り返るなんて簡単だろうと思っていたけれど、私の人生にはいろいろな出来事がたくさんあってそれを言葉にしようとすると、ものすごく時間がかかることに気づいた。言葉にしようとすると、恥ずかしくて苦しいようなものも多い。でも、それを思い起こしてこそ振り返ることになるのだから、私は自分がどれだけ恥ずかしい人間だったとしても書き起こしていこうと思うのだ。

人生って何だろう――小学生時代①

保育園の頃から、私は子どもたちと一緒に遊ぶよりも一人で本を読んでいたりするタイプだった。おままごとなんてしたことないし、暇なときはボーッとしていた。将来の夢もはっきり言って、なかった。周りがプリキュアや魔法使いなんて可愛らしい夢を語るのに、私はどうすればこの場をごまかせるかを考えているようなタイプだった。保育士に怒られるのが嫌だったので、テキトーな夢を作って書いた気がする。本当は『冒険がしてみたかった』のだけど、その答えは「将来の夢」という質問に適していなかった気がした。

そんな性格なものだから、色んな保育園からやってくる知らない子どもたち(多くは同じ幼稚園出身だったが)と同じ教室でこれから過ごしていかなくてはいけないのかと思って、緊張していた。
――かなりびびっていた。
だから、やはり小学1年になっても私は人の中に入ることはなく、一人で過ごしていた。恥ずかしい話だが、仲間に入れてほしいと頼んでも断られるような子どもだったから。先生たちが仲間に入れてあげてねと言ってくれなければ、人と遊ぶこともなかったそんなやつ。人は自分たちと違うものを見ると、排除したいと本能的に感じるらしい。
私はいわゆるはずれもの。学校は楽しくはなかったが、勉強するという目的があったから、なんとか通い続けることが出来た。

小学1年の頃に印象的な授業があった。
「友達には○○くん、○○さんで呼びましょう」という先生の言葉。そして、敬語をつかいましょうという言葉。
教師の言うことは正しいこと。すべて聞かなくてはいけないという思考に取り憑かれていた私が、敬語を捨てることが出来るようになったのは大学生になってからだった。
教師の言葉は人生すべての凡例のように感じていたから、もうしみこんだその習性は生半可なことじゃ外れることはなかった。
「どうして敬語なの?」と聞かれたことがある。
「あなたはどうして敬語じゃないの?」と返したくなった。
初対面の相手には敬語が当たり前だし、親しき仲にも礼儀ありというように、敬語で話しても悪いことは何もない。普通の日常でも、敬語を使用して困る場面は存在しないのに。どうして、敬語なの?と聞くのはどういうことなんだろうと思う。
 親しくなったら、敬語は取らなきゃいけないのか? ここでまた一つ私の中の認知に歪みが生じた。教師が言っていた言葉は嘘だったのだろうかと。
私は間違ったことに従っていたのではないだろうかと気づいて、私は大学生になってやっと敬語を使うことをやめた。時と場所に合わせて、言葉遣いを変えるようにしたのだ。

小学1年生の夏休み。この出来事が私のそれからの性格を形成してしまう。それほど衝撃的な出来事だった。
母が遊びに行こうと、車で30分ほどのある山に登ったのだ。私は到着した途端車から降りた。その場所に興味津々だったから。しかし、母は降りていなかった。それどころか、私を置き去りにし、家に戻っていったのだ。
私は子どもだったから、財布も携帯もなにも持っていなかった。そもそもその場所に来たのが初めてだった。
親において行かれたという事実だけが、私の中にあった。混乱して、涙を流して、私は何かしてしまったのだろうかとも思った。
その頃は母に殴られたり、蹴られたりすることもあったから、母は何かが気に食わなくて私をここに残していったんじゃないかって。それか、私が乗ってないのに気づいてないんじゃないかなって思った。
私は後者の方を信じた。でも、何時間経っても母は帰ってこなかった。
私はひたすら、山を泣きながら下りた。泣き叫びたかったけど、泣くと親が怒るから声を出さないように我慢して、ひたすら下に降りた。
初めて来る場所だ。なにも分からない。でも、それでも誰かに助けてほしくて、ひたすら歩いた。そして私は運の良いことに消防署に行き着くことが出来た。そして、父や母の携帯番号、祖父母の電話番号を知らせて、私はまず祖母と会うことが出来た。
母はどうなったのかは詳細は聞いていなかった。でも、病気で入院することになったのだと知った。……これは私のせいだったのだろうかと時々思っていた。
それから、我が家はバラバラになった。二人の妹は祖父母の家で暮らした。私は学校に行かなければならないので、父と二人で家で暮らすことになった。父は帰りが遅く、隣のおばさんの家で過ごしていることもあった。
――よく、覚えていない。父は味噌汁くらいしか作れない人なのだ。私はその頃の記憶をほぼ消し去ってしまっているみたいだった。
きらいだったのは、月に一度母が病気であることを知っている私一人だけが母の見舞いに行かなければいけないこと。妹たちは何も知らなかった。私が母と向き合って、母の病気を知って、私にしたことも許して、大人の責任を取らなければいけない立場だった。母から渡されるごめんなさいの手紙は、一体何に謝っているのかよく分からなくて、そのまま机の中に隠してある。
返信で「ありがとう」と返せる力は無かった。だからただ「私は大丈夫だよ、気にしないで。お母さんは病気を治してね」みたいなことを返したはずだ。
 ――――全く大丈夫ではなかったけれど。周囲の大人はそんな私を期待していたから。
 本当なら、死ぬほど罵りたかった。どうして私にこんなことをしたの。私はずっと我慢してきていたのに、なんでそんなことが出来たのって。
でも、それはしてはいけないことだと分かっていた。今になってもそんな本音を話したことはない。忘れ去られるべき、悪夢だ。
余談だが、この頃の身体測定の記録を見ると、2年の体重より3年の体重が著しく減少していた。身長は伸びているのに、体重が減っていたので、この頃のストレスを思い出すと死にたくなってくる気がする。
波瀾万丈の1年生時代。

でも、ここでは前話で話した友人に会うことが出来た。
クラスには私と同じ名前を持つ生徒が3名いた。それも漢字まで同じ相手が一人。彼女は同じ集落に住んでいて、私と同じような共通点がいくつかあった。簡単に言うなら、変人。いまでは腐れ縁で、20年以上の友人をしている。
苦しみながらも、周囲の人たちが優しくしてくれたからこそなんとか生きていた。誰も居ない家に一人で帰る。いつも妹たちが笑っていたはずの家は無駄に広くて、自分が小さいことを知る。家の隅っこに丸まって、誰にもばれないように泣いていた。そんな私のことは誰も知らない。
家には何もなくて、学校でも仲間はずれにされるような私はいったいどこで生きていけば良いのだろうかと思っていた。だから、現実逃避するように本を読んだ。私は学校の本を読み尽くした。私が消えて無くなれば良いと思いながら、私の居ない世界に浸ることを自分の幸せにした。
――――どうか、はやく死ねますように。それが7歳からの私の願い事。

そして、あっという間に2年生になる。

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