見出し画像

信じてくれる人がいること

 先日、noteに上げた記事に対し、反響が思いのほか、大きくて驚いている。

 この記事の中では、幡野さんとcakes編集部の方々に対して、当事者の目線から伝えたいことを綴っていらっしゃる、はるさんのnote記事に触れている。
 彼女の記事の内容は、あまりにも辛くて、一度はきちんと読んだが、申し訳ないけれど、ちょっとしばらく読み返す気になれない。
 だけど、彼女がそれだけ、気持ちを込めて、文章を書いたのが分かる。
 読んでいるうち、私の思いも沸き立つように頭の中であふれ出してきた。だから、自分の感情を整理することも兼ねて、感想をnote記事として書き綴り、掲載したのだった。

 前々回のnote記事で書いたが、幡野さんのこの件についての記事は、noteに新しい記事を上げたとしても、自分からツイッターで報告するつもりはなかった。
 でも、まさかはるさんご本人が、noteでご自身のマガジンに私の記事を入れてくださった上、ツイッターでも紹介してくださるとは思ってもいなかった。
 そのnote記事にどんどんスキ!が増えていくどころか、この件について書いた他の記事にもスキ!が増えていく。
 気が付けば、予想を大幅に超える数のスキ!を頂けて、嬉しいというより、驚いている。
 こんなにたくさんの方が、私の長い文章を読んでくださって、しかもスキ!をつけてくださるなんて、私のnote史上、というか以前やってたブログや他のSNSでも、経験がないからだ。

 noteは最初、読みものとして楽しむ目的で登録し、有料購読しているマガジンだけ読むという感じで利用していた。
 だけど、記事を書きたいという気持ちが、あるイベントに参加したことがきっかけで沸きたってきた。

 この記事の中でも書いているが、浅生鴨さん率いる(と言っていいのかこの件は)「書くことの尽きない面々」と交流させてもらったことが、大きな刺激となった(ちなみにこの面々の中には幡野さんもいて、私も少しお話させていただいた)。
 その後、noteなどで、このイベントに参加した方々の感想を目にしているうち、私も彼らとお話させてもらった時の感動を書き残したい!と思い始めた。
 そして、恐る恐るnoteに記事を書き始めた。
 最初はおっかなびっくりで、自己紹介や、上記のイベントレポなど書いていたが、だんだんノンジャンルで記事を書くようになってきた。

 幡野さんの一件が起きてから、自分の気持ちをまとめるために、その都度、思ったことをnote記事に上げていた。
 読んでもらって反応が欲しい、というより、自分自身のために書いたものだったし、最初のうちは反応もあまりなくて、それどころかツイッターで更新報告をした際、モヤっとすることがあった。
 だから「もうツイッターでこの件については何も言うまい」とそのときは思っていた。

 冒頭で挙げた記事は最初、noteの通知で、はるさんがスキ!してくださった上、ご自身のマガジンに入れてくれたと知った。
 そして、みるみるうちにスキ!の数が増えていって、うわーすごいな、と思っているうち、ツイッターではるさんが私のアカウントをフォローしてくださっていることに気づいた。
 そして、彼女のアカウントを見に行ったら、私の記事が紹介されていた。
 しかも、そこには私に対しての言葉が添えられていた。

 涙が出そうになった。
 勝手に書いた感想文を読んでくださった上、心に寄り添う温かい言葉をくださるなんて、思ってもみなかった。

 以前、詳細を語ることは避けるが、リアルの場で知り合った女性で、親から虐待を受けて育った経験をSNSで語っている人とつながりがあった。
 最後に会ったのはもう10年以上前だけど、それからはもっぱらネット上でお付き合いしていた。
 といっても、私は彼女のSNS記事を辛くて読めないから、自分から関わろうとしなかった。だが彼女は私のSNSでの記事に、積極的にコメントをつけては、自分の話をしてきた。
 私は我慢して彼女と付き合い続けた。辛い経験を子供の頃からしてきた彼女は、かわいそうな人だし、私に何かとすがってくるのだから、私が助けてあげなくてはならないという、今思えば傲慢な責任を感じていた。

 でも、その責任感は長く続かなかった。
 あることをきっかけに、私は耐えられなくなり、彼女を自分のSNSからブロックした。
 でも、「彼女を守ってあげられるほど、強い人でいられなかった」という自責感と「どうして、あんなワガママで人の気持ちを一切気にせず、好き勝手に自分の言いたいことを言ってくる人と、我慢して付き合っていたんだろう」という、もう一つの自責感が腹の中で煮えたぎりまくり、全く関係ない場でトラブルを起こして回るほど、自己嫌悪に陥り、自分を責めて責めて責めて過ごしていた。
 いつまでたっても煮えたぎり続けている自責感に疲れ果ててきた頃、思いきって、ブロックした彼女のSNSを見てみた。
 私がブロックせざるを得なくなった一件が起きた頃の、彼女の書き込みを見て、全身の力が抜けていくような気がした。
 そこには「自分には、倒れたときに支えてあげなきゃいけない存在がたくさんいるのに(筆者注:おそらく介護の必要な家族や、ペットのこと)、自分が倒れたときに支えてくれる人はもういない」という主旨のことが書いてあった。
 自分が倒れたときに支えてくれる人、って私かよ。
 私のことを、いったい何だと思っていたんだよ。
 今でもこのことを思い出すと、静かな怒りと、大きな虚脱感が襲ってくる。

 彼女もいろいろ苦しいことがあったんだろう。
 心にも体にも病気を抱え、家庭でも問題があって、相談に乗ってあげたこともあったけど、それに対しての返事は一切もらえなかった。
 って今こう書いていて、私も彼女に対して善意のつもりで付き合っていたけど、それはまったくもって傲慢だったことに気づいた。
 でも、悔しい気持ちは今も残っている。

 だから、偏見といっては何だけど、虐待を受けて育った経験をSNSで綴っていらっしゃる方を見ると、彼女のことを思い出し、何とも言えない苦々しい気持ちが蘇りそうになる。
 彼女から何度もされた、SNS上で、私が好きなことについて、それつながりの仲間たちに向けて「分かってくれたらいいなぁ」とニコニコしながら書いた文章を、自分が大して好きでもないのに「あー分かるかもそれ」と浅いレスを返してきて、それまでの浮足立った気持ちに針を刺されたような経験を思い出すと、吐き気すら催しそうになる。
 じゃあなんでもっと早くブロックしなかったのか、と言われると、答えに詰まってしまう。
 私が弱気なことをSNS上で書いたら、いち早くレスをしてくれて、私を慰めるようなことを言ってくれることが多々あって、彼女のその一面を信じたかったから、というのが正解だろうか。
 今振り返ると、共依存の関係だったな。

 だから、自分から直接、はるさんに近づいていくことが、本当に失礼なことを言うが、最初のうちは怖かった。彼女とはるさんを一緒くたんにまとめて考えてしまっていた。
 でも、頂いたコメントで、考えが変わった。

 はるさんのnote記事は他にも読ませてもらったことがあるけれど、全文をまともに読みきれないほど、辛くて悲しいものだった。
 だから、たぶんスキ!もしてはいないと思う。
 だけど、幡野さんに向けてはるさんが書かれた記事はおそらく、虐待の被害者でもない人たちにも、また虐待を受けて育った自覚がない人、もしかしたら虐待の加害者という自覚がない人にも、分かりやすく虐待のメカニズムを伝えようとされていたのだと思う。
 だから、私も読みながら過去を思い出したが、幡野さんやcakes編集部、またその周辺の方々や、今回の件で傷ついたり、虐待について考え始めた方々に対して、真摯に言葉を選んで書いていらっしゃるのが分かって、最後まで読みきれた。
 そして、「スキ!」をつけさせてもらった上で、感情が抑えきれなくなり、自分もnote記事を書いて上げたのだった。

 はるさんから頂けた言葉がとても嬉しくて、返事をさせていただいた。

 すると、頂けたお返事を読んで、また涙が出そうになった。

 自分の文章を信じてくれる人がいる、と思ったら、何とも言えないあたたかな気持ちが心に沸きたってきた。
 そんなことを言ってくれる人、今まで他にいただろうか。
 いや、いたのかもしれない。
 けれど、その人たちの存在を忘れるほど、私の頭の中には「お前はいつも言うことが大げさだ」とか、「感情的に話してくるな」とか、私の言葉に対してまともに取り合ってくれない、というか耳を貸そうともせずに自分の言いたいことだけを言ってくる人たちの言葉が溢れていた。
 はるさんが「さちさんの文章を信じます」とおっしゃってくださったことに、心強さを感じた。
 もう、それだけで、いいんじゃないかと思えた。

 その後、冒頭で挙げた記事に頂いた岩代ゆいさんからのコメントでも、あたたかい言葉を頂けて、ずっとこの件で肩ひじ張っていた気持ちが緩んでいく感覚になった。
 正直、この一連の件のせいなのか、フラッシュバックと呼んでいいのだろうか、過去の辛い記憶があれこれと蘇り「あふれる思いをnoteに書かないと、心がパンクしそうだ」と思っていた。
 でも、ゆいさんの言葉で「そんな無理しなくてもいいかな」と思ったら、気が楽になってきた。
 そして、堰を切るようにこの件についての記事を書き続けていたけれど、「もういいかな」と思えるようになってきた。

 もう、そろそろnoteでも他のことを書きたくなってるけど、今後もこの件については考え続けるだろうし、記事の中で触れることもあると思う。
 でも、辛くなりそうなときは、自分の言葉を信じ、そして心に寄り添ってくれる人たちがいることを、忘れないようにしたい。
 そして、その方々のために、というより、まず自分のために、嘘のない文章を書いていきたいと思う。

もしサポートをいただければ、とても嬉しいです。自分の幸せ度を上げてくれる何かに使いたいと思います。