「21世紀の女の子」を観た日のはなし

「21世紀の女の子」を観たはなし。
映画の内容というよりはわたしが感じた感覚ばかり書いてるので、正確じゃないとこ、個人的な感情できごとについても多いです。
ねたばれはあるといえばあるようなそんなかんじなので、よろしくお願いします。





この土日は自分の感情が荒波に放り出されたようだった。
土曜日にずっとやりたかったことの試験を受けにいった。ぐずぐずとやりたい気持ちに向き合わなかったから最初の一歩だとただ変化に飛び込むつもりで行ったのに、結局現実の問題に心を奪われ、めちゃくちゃな自意識によって失敗した。試験自体の結果はまだ出てないけど、とにかくめちゃくちゃなきもちになってしまった。いまも結果が出るのが怖くて、土曜日を思い出してはフラッシュバックのように頭がちかちかとどうしようもなさに息ができなくなる。
そんなぐらぐらの状態で土曜日のレイトショーを観た。ずっときになっていた映画。

「21世紀の女の子」

わたしも21世紀生まれの女の子だから、とか、山戸監督のインタビューや未来の娘へ向けた手紙の記事を読んで泣いてしまったから、とか、すきな役者さんが褒めていたから、とか、いろいろ理由はあるけど、ただ自分の自意識とか失敗とかそういうものから逃れるにはもっとなにかもっとすごく感情をゆさぶるなにかに触れなければ、と思ったのだ。
前日は試験がきになってほぼ一睡もしていなかったから、8時50分からの映画までの時間近くのマックでスマホを充電しながら、睡魔と後悔と無力感とたたかいながら時間を待った。
グーグルマップでテアトル新宿に向かう道すがら、占いの店の看板を見つけて一瞬入ろうかなと思う。試験のこととか失敗したことへのフラッシュバックとかこれからさきのこととか、いろいろな不安と感情が混在していた。公開時間が近かったから行かなかったし、映画が終わったあとは営業時間終わってたから結局行かなかったけど。
弱ってるときに占いとかにすがりたくなる気持ちがよくわかった。
なんとかふらふらな足を引きずって「21世紀の女の子」が公開しているテアトル新宿へ。初めて行った映画館だったけど雰囲気がすきだなと思う。すこしちいさめの映画館はやっぱり落ちつく。発券機にすこし手こずったり、飲みもの買うか迷って結局お金節約のためにあきらめたり、諸諸ふわふわした感情と頭をもて余したまま開場した劇場へ入った。
お客さんは思ったより年齢層が広く、男女も同じくらいいた気がする。

映画がはじまった。
「自分自身のセクシュアリティー、ジェンダーが揺らいだ瞬間がうつっていること」をテーマに女性監督たちが撮った短編映画の連なり。そこにあるのは女の子の生で呼吸で生き様で魂で泣き声で笑い声で、心の奥底まで届くくらいずっと暗い感情も郷愁も共感もあこがれも反発もかなしみもよろこびも全部あてはまるような、あてはまらないような。
自分が感じたこと触れたことのあるような似た感情、まったく触れたことのないような感情、様々な感情が画面で踊っていた。

ラストの山戸監督の作品。
「離ればなれの花々へ」
映像や台詞まわしはどこか演劇的な感じがした。身体表現、色、音、カット。まなざし。
全部で魅せられている気がした。
なにより三人の女の子たちの声で紡がれる言葉が雨のように降り注いで頑なな心のどこかを溶かされていくような、そんなきぶんになるのが不思議だった。
映像がはじまって台詞が降って、女の子たちを追っていくうちに私の目からは涙がこぼれた。自分でもわけがわからないくらい勝手にぽろぽろおちていく。
他の作品でも泣いてしまったことはあったけれど、共感も郷愁も苦しさも、そういうものを、今までの自分と重ねて入り込んで泣いてしまうようなそういう感覚とはまた違う感覚だった。

重ねるというより。重ねるというより、私だと思ってしまった。
降り注ぐ言葉、女の子の言葉、みんな女の子だという感覚。
地球に生まれてきた私は間違いなくラストの彼女たちで、女の子で、私で。
ガンガンとゆすぶられるみたいに私の内側が、泣いて、笑って、苦しんで、叫んでいた。

止めようとしても涙は止まらなくて、ぬぐってもぬぐっても落ちた。未だになんでそんなに泣いてしまったの?と言われたら、明確な言葉を口下手な私はもたないけれど、母親から生まれたわたし、地球に生まれてきた私、女の子のくるしみかなしみよろこびすべてと繋がっているわたし、すべてをその瞬間感じていっぱいいっぱいになってしまったのだとおもう。

山戸監督以外の何作もの作品の女の子たちも、わたしも、みんなも、みんなが女の子だった。

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