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努力の宛先

努力しても報われないことがあるだろうか。
たとえ結果に結びつかなくても、
努力したということが必ずや生きてくるのではないだろうか。
それでも報われないとしたら、
それはまだ、努力とはいえないのではないだろうか。
(王 貞治)


こんばんは。wisteriaです。

私は、中高一貫の女子校に通っていた。

そこは、キリスト教の教えを大切にする学校だった。

毎日、聖書を開き、誰かの説教を聞く。

なので、キリスト教信仰ではないが、今でも、時々、ふと、聖書の御言葉を思い出すことがある。

どの御言葉も心に残るが、一般的に有名な御言葉として、

求めよ、さらば与えられん。

がある。


キリスト教の教えを大切に守る中高に通う大半の生徒は、皮肉にも、この言葉を勘違いしていた。

「私が求めたことすべて、良い形で私に与えられる。」

そんな都合のいい話はない。

この御言葉の本当の意味は、

「私が求めたことすべて、様々な形で誰かに与えられる。」

である。


これに類似して、

努力は報われる。
(努力は決して裏切らない。)

という表現がある。

これも、「求めよ、さらば与えられん。」と同じくらい、勘違いされていると思う。

確かに、努力は無駄ではない。そして、その努力は報われる。

だけど、必ずしも、自分の目先において、良い結果が与えられるとは限らないのだ。


私は、いつもこれらのことを考える時、"方向(向かう先)"を加味する。


私が求めていること(願い・想い)の方向(向かう先)は、決して、私だけではないはずである。

自分ではない、誰かのために願い・想うことだってあるはずだ。


努力も同じで、勿論、自分を向上させる努力が大半を占めるだろうが、

自分ではない、誰かのために努力することだってあるはずだ。


そして、求めること・努力することによって、得られる結果の良し悪しにかかわらず、

私だけでなく、私以外の誰かに向かうことだってあるはずだ。


願い・想い・努力の方向性を少し自分から遠ざけるだけで、

「求めよ、さらば与えられん。」
「努力は報われる。」

これらの言葉の意味が違って見えてこないだろうか。


私は、これまでの短い人生を振り返って、思う。


私ではない誰かを助けることができるなら、

私が背負う苦しみなど、何のこともないのだ。


それらを互いに実行できる人と出会えた時に、初めて、

本当に求めていたことを与えられ、

本当に努力していたことが報われるのだと思う。



だからこそ、くじけそうなときに、これらの言葉を思い出し、

自身を鼓舞し、また、私は、諦めずに、努力しようと思うのだ。





最後まで、読んで頂き、ありがとうございました。

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