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断罪という名の「いじめ」

ヤフーニュースより
<大津いじめ>「加害者の祖父」事実無根の書き込みで提訴へ
 いじめを受けていた大津市立中学2年の男子生徒が自殺した問題で、「加害者の祖父」とする事実無根の内容をインターネットのブログに掲載された滋賀県栗東市の病院職員の男性(63)が今も誤解に苦しんでいる。
男性は「無責任な書き込みがどれほど苦痛を与えるのか知ってほしい」として、ブログを掲載した兵庫県西脇市の男性(37)を相手取り、慰謝料など165万円を求める訴訟を近く大津地裁に起こす。(毎日新聞)


これを読んで、映画「手紙」を思い出したり。
ちょうど先週、放映されていたので。

映画のほうは加害者家族が受ける差別と苦悩を描いていて、この記事の男性はそれとは違い、加害者やその家族とは縁もゆかりもない、あかの他人(冤罪)だから、立場は全く異なるのだけれども、

そもそも、背景には、
『公にされるような犯罪を犯した加害者の家族も、
 加害者当人と同罪で、裁かれ、断罪されるべきだ』

みたいな、考えや認識があってこそ、生まれた悲劇なのだと思ったりする。

人々の中にそういう意識や社会的風潮がなければ、加害者の祖父と間違えられたこの男性が、誤解から個人情報をさらけだされ、誹謗中傷を受けて、精神的苦痛を被ることもなかったはずだ。

また、ある事件に関与したと、事実無根な噂を流され、複数の見ず知らずのものたちから長期に渡って、嫌がらせを受けていたお笑い芸人の方のことも忘れることはできない。
この事件でこの彼に対し、誹謗中傷と名誉毀損という犯罪を行った"犯人"たちは、いずれの者も自分たちがどれほどの罪を他人に対して犯したのか、という事実認識と罪悪感に欠ける人たちであった。

事件を振り返った彼曰く、『情報の仕分け』『考える力』『情報発信者を疑う能力』の3つが欠如している。「他人の言葉に責任を押し付ける」「自分の言葉には責任を持たない」という共通点があるという感想を持った。
謝罪意思について「その場しのぎの反省」であり、中傷犯には「匿名でさんざん中傷や脅迫をしておきながら、刑罰を逃れるために『謝罪する』と平然と嘘をつく人間」であるという印象を持った。

とのこと。

多分こうした人々は、自分がもっともっと痛く辛く、惨めな思いをさせられないと人の心が判るようにはならないのであろう。実際、彼らはそのような来世をそれが判るようになるまで、何度でも次には被害者の人生を生きることになるのではあるが。

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さて、かつて私の父の同級生で同窓生殺人を犯した人がいた。それだけなら、交流もない人のこと。地方のことなので、知ることもなかったろう。

しかし、その人は、被害者を呼び出すときになんと父の名を語ることをしてくれたので、否応なく、巻き込まれることになってしまった。ちょうど父の母・・・私の祖母が亡くなり、葬儀のため帰省した時期と重なっていたというのもあり、『容疑者』の一人となってしまったわけで。実際、その犯罪は祖母の葬儀中に行われていたので、親戚知人、ご近所の方など葬儀参列者の証言を始めとして多数のアリバイもあり、不可能なこと。

その後、あっけなく真犯人は逮捕されたが、それを知ったのは、地元の新聞を親戚が送ってきてくれたからだった。警察という組織は、疑って、犯人扱いしておきながら、『謝罪』をしたり、『報告』をすることを一切しないものだとも知った。

もし、それがネット社会となった、今日であったらどうだったろう。

父は冤罪であったが、それだけで済んだろうか。

『名前を使われた』は、伝言リレーや誤解により、いつしか『その名前だった』『犯人の名前だ』に変換されて、無責任に広められてしまったかも知れない。

ありふれた名前ではなく、とても珍しい苗字のこと。

噂は根拠なく、尾ひれはひれをつけて、私は人殺しの娘として、いつの間にか、色んなエピソードをつけられた挙句、好奇心と悪意をぶつけられ、前述の男性のような苦痛を強いられることになったかも知れない。

なので他人事ではない。

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実際、無責任な噂を流されて、迷惑を被ったこともある。この仕事をして、いろいろ叩かれたときも、事実無根なわけの判らないことを勝手に書かれて、驚かされたことがある。
本当のことに関して言われるなら仕方ないけれど。どこからそんな話が出てくるのか、たくさんの嘘を書かれて、その想像力の逞しさにはビックリで、
そして何よりも、書かれているその嘘偽りをそのまま信じて、会ったこともない相手のことを一緒になって悪口を言い、叩きのめすことに参加する人たちがいるという現実に恐怖を覚えた。

『悪意』は常に身近にあふれている。
ネットでは、歯止めが利かず、それがエスカレートする。好意的な人ばかりが、他人のサイトや日記(ブログ)を読んだり、チェックするわけではない。

嫌いだなあと思って、好きになれない人のことを、避けて関わりをもたないだけならいいが、受け入れられない理由を並べて、さらに嘘八百を事実のように他人に信じ込ませようともする。どうしてそこまで貶めようとするのか・・・

悲しい現実だ。

ちなみにネットの誹謗中傷に関しては、NHKで放映されたドラマ
「ネット・バイオレンス〜名も知らぬ人びとからの暴力〜」が良作だった。


自分が正義の番人であるがのごとく、テレビ局に抗議したり、あれやこれやと策を講じる人たち・・・これらもモンスターペイシェントなのか。

当事者、被害者の遺族であったり関係者ならいざ知らず、加害者の情報を調べ上げて、当人だけでなく、家族にまで追求の手を伸ばし、嫌がらせの手紙やらメールやら、電話やら、それだけでなく、ネットで叩いてさらし者にして。

それだけの粘着気質があるならば、もっと他のことでその情熱や時間を使えばいいのにとも思いつつ、その情報が本当なのか、確かな裏づけに基づいたものなのか、まやかしでないのか、真実は何処にあるのか、ちゃんと綿密に調べるところまですればいいのになあ、と思いつつ。

そして、それだけのことが出来るんだったら、その能力をもっと建設的で世の中の役に立つことに使えば、創造的な人生を生きれて、充実感も味わえるのに、と。

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彼らは、『怒り』をぶつける相手を間違えている。本当に怒るべき相手は…矛先を向けるべき相手は、見知らぬ他人ではなくて、別の誰かなのだろう。その誰かにぶつけたいのに、ぶつけられない怒りを、代替行為としてぶつける相手を、新聞やニュースで探しているだけなのかも知れない。

タイトルにした『断罪』 この問題に関しては、もっと語るべきこともあるような気がするけれど、重いテーマだし、村社会と島国根性のある日本には
根深い集合体無意識が関わっているような気がして、まだまた考えることがあるような気がするのと同時に、癒されていない人がそれだけ多いんだって感じるから。

それをしてしまう人・・・
そんな行動に駆り立てられる人もまた悲しい人なわけで、癒されるべきは彼らのほうなんだろう。だからといって、罪の意識なくしていいことでもないし、誹謗中傷をされて傷つき、苦しめられた人のことを思うと、決して赦されるべきことではないけれど。

人を傷つけることは、同時に自分を傷つける行為だから。

他人にナイフを突き立てることで、自分にもナイフを突き立ててる。
一種の自傷行為と何ら変わりない。

最後に辛くなるのは、結局誰でもない自分自身。

相手を断罪し、苦しめているようで、最終的に罪や荷を背負うのはいつだってそれをした当人で、誰でもない、自分自身が一番苦しい想いをすることになるのだ。

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子供のイジメは社会の縮図だと言う。子供たちは大人を真似て育つから。

昭和の私たちの時代にも『差別』や『いじめ』はあった。
ただ、今の時代ほど陰湿ではなく、学校カーストもなく・・・

女子の間では、その子の性格の何か気に入らないこととかを見つけては、誰かをターゲットにして悪口をいい、皆で示し合わせてクチを聴かないという、それがローテーションで回ってくるというもの。そういうのが定番で。

私はというと、『つるむ』のが嫌いだったし、ヘンに正義感が強くて、気が強かったから、どちらかというと、女王様的ボス女子が決めた、ターゲットへのシカト命令を無視して参加しないことから、ハブにされてシカトされるクチだった。

仲良かった友達も、私と口を利くことで仲間ハズレにされたくないって、昨日まで親しくしてた子が澄ました顔で人を空気のように扱う。まあ、小学生の仲間意識や友情なんてそんなもん。イジメられてた子を庇っても、その子もまた自分へのイジメが止むと、一緒になって、庇った私とかをシカトする…そんなもんだし。

それでへこたれてたかというと、その辺りは図太かったかも、私は。そりゃ寂しかったり、悲しかったりはあったけど。でも、女子より男子と遊んだり話すことのほうが多かったから、それが救いだったかな。男子たちって、そういう女子のインケンなイジメ、嫌いだったし、理不尽な目に遭っているというのを判ってくれていたので。

判ってくれる人が僅かでもいると、それだけで何とかなるもの。確かに女子の中で一人というのは孤独ではあったけど。それに「いま」のいじめとは違うからね。

今の子たちの受けている陰湿なイジメを、当時の私が受けたりしたら、どうだったろう…耐えられたろうか? 大人の精神を持った私なら、スルー出来るだろうし、闘うこともしちゃうと思うけど。子供時代の私は無理かもな。

さて、そんなこんなで私はいじめる側になったことはないのだけど、
イジメをしていると誤解されたことがある。

中ニの時なんだけど。

女子ってのは、どーしてもグループ化したがるもんで、なんか知らんけど自動的にそうなるし、どこかグループに所属しないと、『居場所』がなくなるんだよね、クラスで。

多分、島国たる日本特有の、村社会の風習…生きる術としてのその名残なんだろう。それが遺伝子に組み込まれているというのかね。

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で、進級してクラス替えをしてしばらくごちゃごちゃゴタゴタがあった後、
私はたまたま、気が合う子たちと四人組になった。

しばらくして、他のグループにいた子が近づいてきて、
「仲間に入れて欲しい」となった。

うちらは「あ゛ー? まあいいよ」と、もともといたグループの子と気が合わなかったのかな?くらいのノリで受け入れて。

でもま、しばらくしてから、
四人ともその子の性格に耐えられなくなっちゃった。

なんてかー 嘘つきさんだったんですよ。
(いやさ嘘だけだったら、まだアレなんだけど、ちょっと色々とネ)

なので、

「ごめん、うちらはアナタのこういうトコに耐えられないから、無理!」
って、うちらアナタのココがダメで嫌いなのよ~って、相手の欠点(受け入れられない点)を指摘し、これ以上は友達として一緒にいられない理由をぜんぶ話して、別の友達探してよ、と・・・

そうして、別行動取るようになったんですが、確かに。。。一度グループ出来上がると、入るのって難しい。他に彼女を受け入れるグループはなく、彼女はクラスの女子の中で孤立してしまったのでした。

で、それをね・・・熱血担任が重く見たわけですよ。

「うちのクラスでイジメがあります!」と・・・

私たちからすると、彼女のあの性格では付き合えん!だったんですが。

事前に呼び出されて事情聴かれるとかナシに、いきなり教室で話し合いが始まり、唐突に名指しされた私たち四人、席立たされて、彼女をイジメる、悪い子たちにされちゃった。

「お前ら、仲良くしろよ! グループに入れてやれよ」

青春ドラマの観すぎなのか、勘違い担任は、

「いや、そういう問題じゃないから・・・」

という私たちのイイワケというか、何故、彼女がクラスの女子たちに受け入れられないのか・・・一度は受け入れた人も、耐えられなくなって彼女のことを嫌って、避けてしまうのか・・・彼女の性格に問題があるってこと、まったく気がつくこともなく、そこに目を向けようともせず・・・

私たち四人、あっという間にイジメの首謀者ですよ。
ホームルームでつるし上げ。

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気の合わない者同士、好きになれない性格の者同士の手を合わせさせて、
無理くり仲良くさせようたって、ねぇ。

別にイジメてないし。四人がショック受けたのは言うまでもなく。

でも、先に私たちのグループに入る前のグループの子たちは、同じ理由で、彼女と疎遠になった人たちだったので、私たちのが「いじめ」ではないって知ってたし、他のクラスメイトたちも「お前らは、そんなことしないだろ」って、むしろ冷めた目で「センコー、おめぇ何ひとりで熱くなってんだよ」
って雰囲気だったから、登校拒否するほどではなかったですけどね。

すごくイヤだったけれど。

今の時代だったら、確実に問題になるなあ・・・担任のしたことは。
私たちの時代は体罰が当たり前で、先生が生徒にビンタしたって、ゲンコツで殴ったって、居残りさせたって、それはよくあることで問題にはならなかった。それに校内暴力の時代でもあったから、生徒も黙ってなかったし。
(お陰でお礼参りというと神社に行くことというより、卒業式にお世話になった先生を○○りに行くことだと連想してまうww)

まあ、思い込みと相手の一方的な話で、物事を決め付けるのは教師としてどうよ、ですな。ちゃんと双方からの話を聴いて、周囲に聞き取りもしてから、理性的に判断していただきたいものです。

まあ、そんな担任のゴリ押しで友達になることを押し付けられても、本物の友情なんて育ちません。色んな人に嫌われてた彼女は、クラス変わって分かれましたが、中学を通して友達は一人も出来なかった模様。
皆にどうして嫌われてしまうのか、こういう経験を通して、自分についてとことん彼女が考えて、見つめなおして、性格を改めて、変わってくれていたら?  私たち四人からの、欠点の指摘を真摯に受け止めてくれていたなら…とも想うけど。

彼女自身、
「どうして私は人から嫌われてしまうのか」ではなく、
「私は皆に虐められている」と想っていたようなので、
その時点で、ダメだこりゃ・・・だったんだろうと。

高校、そして成人して、社会に出てから、彼女が社会と色んな人にもまれて、世間に適応できる人になって、自分の経験の意味を知って、ちゃんと成長して変わってくれているといいなあ、と思いつつ。

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