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魂のブループリントとカルマの違い

ブループリントというのは、青写真のことで、

『露光により青色に発色する鉄塩類などを塗った感光紙に、原図をのせて焼 き付ける複写技術。また、そこで得られる青地白の印画。図面の複写、印刷の際の青焼きなどに利用。青焼きとは、オフセットやグラビアの印刷で、校正に用いる淡青色の地に濃青色の印画』

                デジタル大辞泉より

・・・・・って、

その、本物のブループリントのことではなく…<この場合

魂のプループリントの話。

ちなみにどうでもいいことだけど、実家が建築業だったため、設計図としての上記にあげられたブループリントなら、子供の頃から何度となく見ていますがっっ汗

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たぶん、スピ好き?な人なら、知ってるというか、一度は聴いたことがあるのではと思います。ブループリントをリーディングすることを生業としている人もいますし。

でも、魂のプループリントと言っても、物理的にそういうものが、実際に存在するわけではないのです。現実のブループリントのようなものとして、例えることができる「計画」が出生する前にあるというだけで。あくまで"のようなもの"としての、比喩な言い方に過ぎません。

別の言葉で言えば、今生の「人生計画書」ってことになります。出生計画書とはちょっと違いますが。

あくまで、輪廻転生を肯定した上での話になりますので、否定する人にとっては意味のない、ナンセンスな妄想になるかりますね。この「魂のブループリント」のことを端的に、いたく簡単に言ってしまうと、
前回の人生(これまでの過去生)での失敗や反省点などを含めた上で、今回の人生でどんなことを経験したいのか、何を成し遂げたいのか、クリアしていくべき点、果たすべきノルマなど、本人の希望と第三者視点(ガイドさんたち)のアドバイスをすり合わせて、「大体こんな感じでいきまっしょい!」みたいな…

そんな感じで、次の人生の「大枠」、目標みたいなものを立てるわけです。

んでもって、その「人生計画」を生きるのに適している、何とか実現することのできる条件を満たすことができそうな「環境」を備えた、たくさんある候補のうちのいずれかの国や土地、両親の元に、タイミングと勢いで生まれることになるわけです。
※このあたりはケッコー適当です。引き寄せの法則も働きますが。

今の人生でのガイドさんたちと一緒に計画したものなので、
ガイドさんたち(守護霊さんら)は、当然この計画のことを知ってます。

彼らが横やり?を入れてくるのは、この計画があるから故であるとも言えるし。今生の人生計画の筋書きからあまりにも外れそうになったり、出生前に当人が「やるっ!」って決めたことを全くやってなかったり、カルマという学びのレッスンに向き合わず、逆に負債たるカルマの借金を増やしてばかりいたり、前回の人生での失敗や反省点をまったく生かしてないじゃん!

・・・なんてときに、
爆弾のごとく、いろんな仕掛けをしてくれたりします。呼び覚ますというか、罰を与えてくれるというか、色々と痛い目にも導いてくれたりとか。
(ようするに、人生怠けてるとヤキいれてくれるわけね)

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ただ、この人生計画書は絶対ではないです。何故なら、未来というのは、普遍的に固定された「決定事項」ではないからです。

未来は三日先までしか決まっていません。
以降は、常に変更され、予定調和で変わっていきます。

個人はあくまで全体としての一部(の存在)でしかないので、他の人の予定変更にも左右されるし、人類全体の大きな流れの影響下での予定変更もたくさんあるからです。

そして、予定していた時期より先にカルマの返済を終えたり、過去生で作った強い想いよりも、遥かに強烈な願望を育てたり、激しい欲望に翻弄されることで、次々にエレメンタルを作って引き寄せの状況を生み、そしてなおかつ新しいカルマを作ったりすることもあるし、ここまででいいやと考えていたノルマよりも、より深い学びと多くの気づきを得られたりすることで、次のステージに進むこともまれにあったりするからです。

なので、必ずしも計画通りに行くとは限りません。いえ、むしろ、計画通りに行かないことばかりなので、ガイドさんという監督官のようなボランティアの家庭教師が必要になり、いつまでたってもひとり立ちできず、この世の学びが終わらない人だらけなのです。それがトホホな現状。

魂のブループリントと呼称される予定表、「計画書(ライフプラン)」のことを細密な人生の運行表のように捉えている人もいるようですが、それそのものは結構アバウトです。

毎日の日々起きることとか、何歳のときにはこんなことがあって、こんな人と出会って、こんなことをして、こうする・・・みたいなことが書かれたマニュアルともスケジュールとも違うのです。

今生で成し遂げたいことや、どの程度のレベルまで自分の魂や霊性を成長させたいか、二度と繰り返したくないことだとか、絶対クリアしたいこととか、経験しておきたいことなどが、ざっくりと箇条書き程度です(メモ帳や何かに"書かれて"いる物質的なモノではないですが)。

しいて例えるなら、事業計画書とか売り上げ目標とか、そのようなプランニングです。

ですから、「運命」が書かれているものではないのです。そこに自分の今生の、出生から死までの綿密なスケジュールや未来が書かれているということは、まずありませんので、誤解なきように。

あえていうなら、その人生での最終目標(目的地)、達成するべきノルマが決められているというだけです。

てなわけで魂のブループリントとは、めっちゃ大まかなものではあるのですが、何を考慮して、どうやって達成すべきノルマの幅が決められるのかというと、これを理解するには「神聖なる計画」を知らないといけません。

うーん。説明するのが面倒。

つかー 長くなるし、難しい話になるし。

なので、思い切りはしょりますと、この「神聖な計画」と、個人として顕されたその人のこれまでの足跡(全人生)との、すり合わせ以外の何物でもないってことでしょうか。まあ、そんなところです。

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で、カルマとは何か。

日本語だと「宿業」という言葉で表されてしまうので、やけにおどろおどろなイメージがあったりします。

一般に「業が深い」という言われ方があるように、すさまじい『何か』を指し示しているように思われがちなんですが。

業=カルマというのはちょっと違うような気がします。

「宿業」「業が深い」というのは、その人が犯してきた「罪」の重さだったり、感情と欲望が創りだしてきた想念(エレメンタル)のゴミのハンパ無い総数(総量)、あるいはその醜悪さ(質・クオリティ)のことで、そういうおぞましいものをたくさん背負った・・・という状況を指し示す言葉としての方がふさわしい気がするのです。

何故なら、カルマって、学びのレッスンの法則のことですから。

これまた単純に言うなら、

「あなた、対応を、やり方を間違えてますよ」って、いう警告のこと。

「間違えている。はい、やり直し!」って、そうやって、その人にとっての正解な対応(行動や思考)をするまで、同じシュチュエーションを繰り返させられるパターンのことです。

それがカルマの法則。例えると、テストの追試みたいなもん。合格するまで、合格点に達するまで執拗なく、ひたすら追試、追試、追試・・・・

落第はないけれど、留年させられるわけです。

だから、そんなおぞましいものじゃない。

痛い想いは何度もさせられることになりますけれど、それと似たようなバターンばかりでいい加減、飽きるというか、先に進むこともできないので辟易させられますけどね。


カルマというレッスンの作られ方は実に単純です。

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ひとつ判りやすい例をあげてみます。

グループレッスンでの例え話としても何度となく話している実話エピソードですが。私のかなり年上の友人の、友人の話です。

その方は結婚して、ある分譲マンションを買いました。モデルルームのときは気づかなかったのですが、いざ引越してみると、一階に義足義手を制作しているオフィスがあることに気づいたそうです。

入居してまもなく、その事務所の外に義足や義手が置かれているのを見た彼女は、それらに対して不快感を抱き、こんなところに住むんじゃなかったと思ってしまったそうです。

そして、一年後。彼女は妊娠し、初めての子を出産しました。

ところが生まれてみて判ったのですが、その子には生まれつきの障害(麻痺)があり、将来的に義足のお世話になることが避けられないとの診断でした。
ここまで話したところで、講座の生徒さんたちには、
「彼女のカルマは何だと思う?」

・・・・・と、各自で考えてもらったりするのですが。

ブログでは早速タネ証しをしたりして。

生徒さんたちの答えの中では、
「小児麻痺の子供を持ち、義足が必要になるから、
 そのマンションに住むことになったのではないか?」

というような意見もありましたが、残念ながら違います。このケースの場合としては。

何故そのようなカルマのレッスンが発生したのかと言うと…とどのつまりが彼女が「間違えた」からなんです。

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間違えたっていうと、ちょっとアレですね。

端的に言うと、彼女の愛の無い感情的反応に対する愛の学びとして用意された出来事なんですけど。

それは彼女が愛の無い反応…「謝った感情と考え方」を抱いてしまったから。その愛の欠如、考え方の誤りを正すために、我が子を通して、そのような義肢を必要とする人たちに対する誤解と偏見を但し、愛を育むために学びの機会を得ることになったのです。

それがカルマの法則です。すなわち愛を学ぶためのレッスン。


彼女が抱いた、
義肢に対する嫌悪感、障害者に対する「偏見」は
『誤った感情的反応』であり『誤った考え方』なんです。

カルマとは『罰』を指し示すものではありません。間違いを正すための法則に他なりません。神がその人に下した裁定でもなく、罰則ではないのです。

誰が彼女にカルマを与えているのか、というと、それはその人自身。当人の魂が自らに課しているだけです。(本体であり魂、すなわちパーマネント・パーソナリティの意図)

義肢に対する不快感と偏見は、身体が不自由な人への愛の欠如であり、彼女の『エゴイズム』に他なりません。しかしエゴイズムは彼女自身ではなく、彼女を惑わすものなのです。本当は神である彼女にとって、エゴイズムは余計なもの。カルマの法則は、彼女がエゴイズムと分離し、本当の彼女自身に戻るための方法を教えてくれているのです。神であるその人自身から遠く離れてしまったが故に、そのことを気づかせるために(こういうと宗教臭いなあ)。

ようするに、「性格歪んでるよ、アンタ」という突っ込みが入った・・・という表現でもいいんですけど。(性格矯正プログラムといったほうが現代風で判りやすいか)

そして「引き寄せの法則」によって、彼女のカルマの学びを助けるために、
その子は彼女の元に、子供として与えられ、自らの人生のノルマを達成する場を、環境を得ることになったんです。

カルマというのは、その様に、実に単純な理由から生まれるものです。

小さなものから大きなものまで、様々です。

今生で作って今生でレッスンをクリアできるものもあるし、(数年、あるいは数日や数時間で解消されるものまで) 前世から持ち越して、何世紀もクリアできないでいるもの、解消したと思ったものの、また再度同じものを作ってしまうことも。

でも、「間違い」にさえ気づけば、それはあっという間に解消できるものです。愛ある感情や考え方を学べたら、ね。

さて カルマの話はまた別の話と絡めて後日に。

そして、人間界でいかにしてカルマが作られるかということを、タロットの小アルカナが上手く私たちに教えてくれていたりします。

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