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荻原魚雷/上京三十年

 一九八九年の春、郷里の三重から上京した。わたしの東京での暮らしは平成の元号とほぼ重なる。
 東京生活の第一歩は四畳半の風呂なしアパートからはじまった。電話はピンクの共同電話(十円玉を入れてつかう)、台所とトイレも共同だった。
 三年前に亡くなった父が単身赴任中、自動車やバイクの部品を作るプレス工場で働いていたときに住んでいた寮の空部屋にもぐり込んだ。
 荷物はカバンひとつ。蒲団は父が用意してくれた。近所の質屋でコタツと電気スタンドを千五百円で買った。家具はそれだけ。
 その寮は東武東上線の下赤塚駅にあった。
 仕事帰りの父とよく居酒屋の庄やに行った。揚げ出し豆腐をはじめて食べた。以来、好物になった。
 近所の商店街の肉屋の惣菜もうまかった。コロッケ、レバカツ、ハムカツ、チキンカツ、もつ煮込み。わたしも父もその店の惣菜を大いに気にいり、毎日のように買っていた。
 米は炊いて、おかずは肉屋の惣菜。父はカセットコンロで卵焼きと野菜炒めを作ってくれた。味付けは塩とこしょうのみ。意外と手際がいい。わたしの担当はみそ汁とうどんだった。
 その下赤塚の寮を出たのは上京した年の十月。JR中央線の高円寺に六畳の風呂なしアパートを借りた。
 はじめてのひとり暮らしもフリーライターの仕事(アルバイトに毛がはえたような形だが)をするようになったのも高円寺に引っ越したのも西部古書会館通いをはじめたのも平成元年だ。
 はじめてもらった原稿料でワープロを買った。東芝のルポ。六行しかディスプレイに表示されないのに値段は八万円台だった。
 昭和から平成になり、出版界は手書きからワープロの時代になりつつあった(もちろん、今でもずっと手書きの人はいる)。かつては「電話と名刺があれば、ライターになれる」といわれたが、そのころからワープロとFAXが必需品になった。
 風呂なしアパートに住んでいたわたしは月十万円もあれば生活できた。といっても、かけだしのライターがコンスタントに仕事がもらえるほど甘い世界ではない。それでも手書きの原稿をワープロで打ち直す文字おこし、座談会や対談のテープおこしなどのアルバイトをすれば、家賃や光熱費、食費、書籍代、酒代くらいのお金はどうにかなった。
 ところが、大学を中退し、学生ライターから専業のライターになった途端、バブルがはじけ、ちょこちょこ仕事をしていたPR雑誌の廃刊が相次いだ。しかもアパートの取り壊しも重なった。半年くらいアパート最後の住人になるまで大家さん陣営の猛烈な嫌がらせに耐えていたら、立退料三十万円もらえた。
 二十三歳から三十歳までの七年間はアルバイトと絶版漫画の転売などで生活費を稼ぎながら、後先考えず、フリーター兼フリーライター生活を送っていた。類は友を呼ぶではないが、まわりもみんな貧乏だったし、もとの生活水準が低かったおかげで、そんなに悲壮感はなかった。
 このままではいかんとおもったのは二十世紀最後の年――三十歳のときだ。
 あまりにもやることなすことうまくいかないので先輩のライターに相談したところ、仕事が途切れないフリーランスの人たちの多くはスケジュール管理や体調管理がしっかりしているということがわかった(例外もある)。すくなくともしめきりの前日に前後不覚になるような酒の飲み方はしていない。逆にいえば、どんなに本を読んだり、文章の勉強をしたりしても、不摂生で自堕落な生活を送っていると長続きしないのだ。
 本音をいえば、能力だけで一点突破できるのが理想だが、それができるのはごく一握りの突出した才能の持ち主に限られている。
 わたしはそうした例外になれなかった。
 今おもいだしたのだが、先輩のライターに相談しに行ったとき、人生二度目の立退きをせまられたいた。「出世払いでいい」と七万円も貸してくれた。さらに七万円もらえる仕事を紹介してくれた。服もくれた。
 当時のわたしは商業誌の仕事を干されていて、京都で発行している古本の同人誌に参加していた。京都の友人たちの暮らしはのんびりしていて楽しそうだった。職業選択のさい、「平日、古本屋に行けること」を条件にあげているような人たちだ。他の仕事をしながら、好きなときに書きたいものを書く。そういう生き方もありかもしれない。
 蔵書と家財道具を売り払い、風呂なしの四畳半から一からやり直したくなった。それで「京都に引っ越そうかなあ」といったら「こっちはもっと食えへんで」と釘をさされた。
 その後、新居探しのため、高円寺で不動産屋まわりをしていたころ、現在の妻になる女性と知り合った。
 最初は風呂なしアパートに引っ越すつもりだったが「いっしょに住んでくれるなら風呂つきの部屋を借りるけど、どうする?」ともちかけた。
 結果、同居することになり、翌年、結婚した。知り合ったころの妻はフリーターで姉の借りている1Kの部屋に居候中だった。わたしの引っ越しは渡りに船みたいな状況だったわけだ。
 お互い、プータローで貯金なし。ただし、いっしょに暮らしてわかったのは同居すると生活が楽になるということだ。
 家賃は半分。光熱費や食費はひとり暮らしのときとそんなに変わらない(水道代はちょっと高くなった)。
 人生の岐路──なんていうと大ゲサだけど、そのときどきは先のことが見えていない。わからないまま選び、後はなんとか帳尻を合わせるしかない。
 特別な才能はないが、食っていくしかない。だったら、どうすればいいのか。
 たぶんプロ野球の解説者がよくいう「わるいなりにまとめる」とか「最低限の仕事をする」とかそういう力が必要なのだとおもう。
 昔も今もわたしの書いているものはそんなに変わらない。何を変えたかというと、打ち合わせに遅刻しないとかしめきりを(なるべく)守るとか頭にくることがあっても(滅多に)怒らないとか、そういうところを改善した。
 凡事徹底の大切さに気づくのに十年、それがあるていど身につくのに十年。だいたい二十年かかった。
 そんなこんなで、文筆稼業もかれこれ三十年。我ながら「ようやっとる」といいたいところだが、今も週三日アルバイトしている。

     *

 すこし前、JR埼京線の板橋駅から川越街道を歩いて下赤塚に行ってきた。下赤塚六丁目の寮は一軒家になっていた。通っていた銭湯も昨年春に閉店した。庄やもない。肉の斉藤はまだあった。はじめて東京大仏を見た。黒かった。

【初出:2019年4月/ウィッチンケア第10号掲載】

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