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久しぶりに満心創痍。

ここ数年にはあまりなかったベクトルと強度で心にダメージを負うことがあって、久しぶりのことでやや混乱しつつ、久しぶりにキュッと考え事をするなどしています。

ここ最近のダメージというと、ほとんどが消耗されて疲れてしまった、休養することで勝手に充電されるタイプの、ダメージというよりバッテリ切れという感じでした。

今回は、しっかり頭を動かして、治癒と回復、学習に努めなければいけないタイプのダメージでした。
2日前のことでしたけれども。
ただ、過去の蓄積も相まって、すっと理解が進んだので、あとはここしばらく面倒を見られていなかった小さな傷の手当をしつつ、時間が癒やすのを待つしかないかなと思います。

今回は、以前からなんでだろうなぁ、なんだかなぁ、と思っていたことに、前向きな納得がありました。

何かが起きて傷ついたとき、私は基本孤立しようとします。
ひとりの時間をつくって、できる限りの事象の落ち度を自分の中に見つけようとします。
どこまでは間違っていなくて、どこからがダメだったか。
どこまでは理性的だったか、何が衝動的だったか、感情的だったか。
どれに考えが足りなかったか。
これまでは、最終的な落ち度を自分にすれば、自責に耐えるだけで解決するので、それが一番便利だからそうしているのかな、と思っていました。

ですが、ふと先日こんな言葉を見ました
「トラウマはあなたのせいじゃないけど、 それを癒やすのは自分で責任を持たなければいけない」

元の文脈では、「傷ついた人は他人を傷つけがちだが、〝傷ついている〟という事実は他人を傷つけて良い理由にはならない」というものでしたが。

相手に悪意が無かったときに受けた傷ほど、回復の難しいものはありません。
相手の行為がどこに起因しているか、見当がつくときは尚更。
なんだかんだ、相手の行為なり言葉なりが自分を傷つけた事実は変わらないんだけど、それは相手が間違っていたからとも限らなくて、相手は相手の正しさを実行しただけということが多い。
そしてこちらも、だから私が傷つくのは間違っているなんてことはない。

ただここで、相手に癒やしを求めようとすると、地獄が始まる。
なぜなら、そもそも前提として私が傷つくことが分かっていたのなら、その人はそんなことをしなかっただろうから、根本的な理解や認識が違うので、私の傷を理解してもらおうとしたところで、100%理解してもらうことは不可能だから。
結局なんでわかってくれないの、と言って、今度はこちらが相手を傷つけ続けることになる。

だから、Aの行為によってBが傷ついたという事実の認識が済んだら、あとは各自、再発しないために自分がどうしたら良いのかを考えるしかないのかな、と思います。
相手を責めたり、文句をつけていてもただ停滞しているだけで意味がないので、そこは割り切って、自分で自分の治療をしていくしかない。ここは変わりません。
ただ、前向きな納得があったのは、自分に責任を見つけるというのはとても辛い苦しい作業ではあるけれど、それと同時に自分は自分の傷の度合いとか、それに最適な治療とか、それがどのくらい自分には大切なことだったのかとか、すべて分かっているので、必要なだけ十分に労ることができる。

だって、辛い苦しい、痛いと言っているときに他人に言われる
「大丈夫だよ。たいしたことないよ。」ほど辛いものってないし、
私は100の治療を欲しているけれど、相手の認識が80で、どれだけの言葉を尽くしても80までしか伝わらない、相手の100が自分の80なのだとしたら、それもそれで辛いから。

だから、自分に責任を見つけて、一つ一つ対処していくのって、とても自罰・自責的な行為でもあると同時に、私にとっては一番のいたわり方でもあるんだと、そういう納得をしました。

それもこれも、私の欲求の中で根の深いものが、他者からの私という人間についての深い理解や理解しようとする姿勢だからだと思います。
きっと人によって、言葉で表現してもらうこと、だったり、物として与えてもらうこと、だったり、時間を共有すること、だったりするんだと思うので、きっとその人にはその人に一番合ったいたわり方があるんだろうなと思います。

たまたま私のは自責とセットだったわけで、そして私も自分でなんだかなとも思うけれど、自責は苦手でも嫌いでもないので、ラッキー、めでたし、ということなのではないでしょうか。


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