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クイック放出 その2

毎度のことながら、半年ぶりの投稿のような気持ちで書いていながら、意外と一か月半ほどでした。

長い時間が経ったように感じて意外と、というのは私としては良いことだと思っています。
退屈で長く感じるのは別として。

昔なにかで、1年があっという間に感じるのは忙殺されているというだけではなく、日々がコピーアンドペーストのルーティン化して記憶するに値しないからということがある、というのを見ました。
なので、今は日々新しいことがあって、1日24時間を24時間として脳が感知しているんだな、という感じで良いなと思っています。

それでいて1週間、1日、この数か月、あっという間だなとも思うので、時間と感覚というのは不思議なものだなと思います。

以下、最近の浮かんでは消えたものの雑記。

自慢話を聞いているときの気持ちの話

最近、ここ数年で1番くらいのウオーすんげー、自慢話しかしないこの人、という人と話すことがありました。
脳半分、異空間に飛ばしながら聞いていたのですが、それが積極的であれ消極的であれ、自慢話を延々と聞かされる状況というのはなかなか消耗します。

ちなみに私が思う消極的な自慢話というのは、ニュートラルな会話の節々にたいして必要もないのに情報の一つみたいな顔して挟まってくる自慢話のことを指しています。
誰も聞いてもいないのに、かつその情報がなんの補足的な役割も果たしていないとき、たとえば「ヴィトンってあるじゃん、私あそこのカバン持ってるんだけど、それはいいとして」みたいな。
一瞬なのにすごいうるせーなってなるやつ。

そういう自慢話を聞いているときの気持ちって、何なんでしょう?
「自慢話を聞いているときの気持ち」と言うとなんとなく伝わるのだけれど、それが僻みなのか劣等感なのか、見下されたような気になる悔しさなのか、マウントを取られたことによる敵対心なのか、はたまた自己愛撫的な話への不快感なのか。
全部なのかしら、全部が合わさってこの絶妙な「自慢話を聞いているときの気持ち」という新しい感情になるのかしら。

いえ、大体は私もそういう経験をしたい、そういうものが欲しい、みたいな羨望と、でもその羨望をこの人に向けたくないという僻みです。

ただ時に、自分はブランド物のバッグを欲しいとは微塵も思っていないにも関わらず、そういう感情が湧いてくるときがある。
ただ自分には無くて相手にはある、その状況が嫌なのかしら、どうなのかしら。

人に対するこだわりの話

人生の大先輩と数か月ぶりに会って、まぁたくさん話をしました。

もとより私の人の好き嫌いが激しいことはよくよく知っている方なのですが、それにしてもあなたは人にすごくこだわるよね、という話になりました。
いつも同じような話題は上がるのですが、それがとても新鮮に感じたのは、人へのこだわりが人間関係以外の要素に与える影響の大きさを認識したからでした。

最近わたしは何がしたいんだろうということを考えることが増えました、という話の中で出たことで、実は私は何をするかというところへのこだわりはあまりないように思う、何をしていてもなんだかんだ楽しめてしまうな、ということを話していました。

じゃあなんでもいいのかと聞かれると、そうじゃないんだよなぁと言ったときに、あなたは人にこだわって、何をするかじゃなくて誰とするかを何よりも気にするじゃない、ということを言われ、なんだかとても腑に落ちてしまったわけです。

今までの私自身の「人の好き嫌い」の認識は、友人と呼べる仲になれるか否かくらいのものだったので、そうだな、友人が少ないな、くらいのことしか考えていなかったのですが、当たり前ながら環境はその場にいる人によって作られるものなので、自分がいる環境が好きか嫌いかも、そこにいる人が好きか嫌いかに大きく左右されるということを再認識しました。
いや、至極当然の話なので、逆に何を考えていたの?という感じですが。

基本的に私は人が何をしているだとか、それが自分に与える影響だとか、人が何を思うみたいなところへの関心が薄いです。
関心が薄いというか、自分が何をするか、それが自他ともにどういう影響を与えるか、自分がそれをどう感じるかというところへの比重がトンデモなく大きいので、自分以外の人のことに関しては、まぁ良きように、くらいの感じです。
それは、基本的に人は自分の考えや利益に基づいて判断する、という前提のもとにあることなのですが。
とっても自分勝手なのかもしれません。
ただ人は自分勝手な生き物で、程よく他人様に迷惑をかけない=自分の立場が悪くなって窮屈、不便にならないよう、バランスを取りながら自分の欲を満たしていくのが良いと思っています。

なので、世のため、人のため、というところからはかなり遠いところにいるなと思っています。
自分のためなんだけど、それが偶然にも世のため、人のためにもなってたらそれは素敵、ラッキーだな、と。

なのですが、どうやら私は「他人に無関心」と「他人のすることに無関心」を混同していて
誰が「なにをするか」には興味がないけれど、「誰が」なにをするかにはとっても興味があって、そこはとっても重要なことだったようです。

私はこと恋愛に関しては、全くダメという話

今日なんとなくずっと嫌な気持ちでいました。
それを、私をよく知る友人に「私はなんで嫌な気持ちなんだと思う?」とストレートに聞いてみたら、「妬いてるんだよ」と返ってきました。

正直全く理解ができないです。

基本的に私は合理性大好きマンなので、恋愛というトリッキーな感情や関係は本当に苦手なのですが、
だって全く意味が分からないから。

恋人がいるのですが、恋人がこの週末はいろいろな人と出かけていました。
私も私で土曜日は一日仕事、日曜日も仕事と人に会うのとで、お互いなんや忙しくしていたわけです。
ただ私は彼が出かけて人と会っていることに対して良く思っていませんでした。
何も悪いことはないのですが。
この時点でもうわからないじゃない。
???という感じ。

じゃあ誰にも会わないことが良いと思っているかというと、そうでもない。
?????

妬いてるんだね、と言われたけれど、これが女友達と会っているんだったらわかる。が、そうではないのだから、全くわからない。
??????????

また別の話で、私と彼の共通の休日は日曜日しかありません。
そして海を跨いだ遠距離なので、することと言えば通話とか、オンラインで一緒に映画をみるとかそういうこと。
通話に至ってはいつでもできるので、別に日曜日である必要もない。
なのですが、なぜか私は頼まれてもいないのに日曜日はできるだけ予定を入れないようにしています。
だからと言って、「私はあなたのために日曜日を確保しているよ!」と言うわけでもなく、相手にもそうして欲しいと思っているわけではありません。
それはちょっと、恩着せがましいにも程があると思うので。
少なくとも私は空いているので、あなたも空いているなら共有しませんか、くらいの感じ。

なんだろう、この何周も回って結局バカみたいな。

最終的にその友人は、「可愛く言えばなんでもOK。彼女に可愛く言われたらなんでもいいもん。」的なことを言っていましたが、ちょっとよくわからない。
ちゃんと言わなきゃ~と言われましたが、いまだに言ったところで相手にどうしてほしいとかも無いようなことをなぜ言う必要があるんだろうと思っています。
違うのよね、そうじゃないのよね、わかってんのよ、そうじゃないんだろうなとは思うんだけどわかんないのよ。

そもそも本当にそれが答えだったとして、私は可愛げもなければ自意識過剰な極度の恥ずかしがりやなので、ハードルが高い。

しかも厄介なのが、相手にそういうことを言われたとしても「君なんでそれ言ったん?何がしたいん?」とはならないんですわ。
そうなんだな、じゃあできるだけ嫌な気持ちにさせないように、どうしたら良いかな、と思うわけです。
そう!そういうこと!という感じでしょうが、それが自分にうまく適用できないんですな。
うーん厄介。


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