久々に親と話す。それもまっすぐに。

LINE!
「おばあちゃんが危篤になった」
LINE!
「今日はこのあと病院へ行くことにするから、もしこれるなら連絡をくれ」
LINE!
「みてるか?」
LINE!
「とりあえず仕事が終ったら向かうから、いけるなら連絡くれ」

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5月2日。世の中はゴールデンウィーク真っ盛りだ。彼女の家で旅行の計画を立てていた私のもとに、突然灰色の知らせが届いた。

後から振り返ればなんとなく今日は落ち着かない日だったような気もしてくる。おばあちゃんといっても私からすれば曾祖母で、ほとんど何も知らない。それは申し訳ないほどに。

丁度お昼には彼女のお母さんやおばあちゃんと喫茶に行き、なぜか家族の話をしたばかりだった。

でもその時も曽祖父の話はすれど、曾祖母の話はしなかった。

彼女に行ってきなさいと言われ、車を運転する。外は昼が過ぎて、5月の肌寒さがやってきている。光は穏やかでありながら鋭い。何となく焦る気持ちを何かが制すかのように、農夫の運転する軽トラックが私の前をふさいだ。

実は今年に入ってすぐ曽祖父もなくなっていた。
そして今日、ついさっき結局間に合わずに曾祖母も亡くなったという知らせも届いた。

急ぐ意味はない。もういないのだ。私は何のために今走るのか。変わらず、真正面から日を受けながら、母の会社についた。

曾祖母のことが大好きだった母のことだからさも動転しているかと思いきや、思いのほか落ち着いている。まるでこうなるとわかっていたように。

連絡が来た当初は心がざわついた。その後運転しながら生きるとか、死ぬとか普段考えないようなことも考えた。でもだんだんと「そうだよね」と妙な納得に近いようなものが芽生え、続けて何のために走るのか考え始めた。

前回の曽祖父ともそこまで深いかかわりはなかったのだが、葬儀の時に世間の形先行のフツウにとらわれることなく、やりたいように自前で葬儀を行った。それが美しかったことを思い出す。人の死を受け入れ、その次への無事を”祈る”様子が美しかった。葬儀とは祈りなのだと感じた瞬間だった。

でもそれだけじゃなかった。

人の死は、また人を集める力がある。普段集まらない、だが特別なつながりを呼び起こす。さらには普段話さないようなことも、家族で話すような機会を創り出す。人の死とは、決してその人の終わりではなく、誰かにとってのきっかけともなりうることを感じる。

事実、今回は普段あまりはなさない母と二人きりで何時間も久々に過ごした。同じ車の中で、同じ方向を見ながら、過去や未来、そして現在について色々話した。と、それと同時にまるで一本の映画を観ているような感覚に陥った。彼女のこと、会社のこと、人生のこと、死や生のこと。色々話した。

スマートフォンに切り裂かれた家族関係を一気に元に戻す力が死にはあることを知った。勘違いしないで欲しいのは死を励行・賞賛しているわけではない。でもそれでいて、死が持つ意味がもう少し間接的なところまで見えてきた気がしたということである。


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