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生きる資格はどこにある?

 「次のテストで100点をとったら、おもちゃ買ってあげるよ」なんて言われる。どこにでもある家庭のセリフだ。自分もそう言われたことは何度もあったし、それが頑張る動機になっていた。しかし、この構造は幼少期に限らず、意外と今でも身近なようだ。

 「この資格を持っているなら、うちで採用するよ」というセリフ、あるいは求人票の資格欄。必要なのは資格であって、自分ではない。これは一般に代替可能性と言われる。取って代われるということだ。生まれてからずっと、こうした「条件」がかたちを変えながらもいつも近くにあった。それは確かに「条件」をばかり見ているから、自分が必要なわけでないという虚しさをもたらすが、一方でこの会社にどうしても入りたいという人にとっては一つの目標となり、自己研鑽の契機となるわけである。

 私たちはこれまで、多くの「条件」を満たすために必要な努力を積み重ね、すべてとはいかずともそれなりに乗り越えてきた。たとえば、一人で着替えができるようになる、勉強ができるようになる、一人で仕事ができるようになる、ボイラーを扱えるようになる。こうして考えて思うのは、社会が、「一人で生きられる」能力を求めているということである。就活生が自分の市場価値を高めようと資格を取る、ガクチカを作る、自分がいかに成熟した人間かを語る…。自分は一人でこんなこともできるという主張。リーダーシップやコミュニケーション能力だって、自分は他者とうまくやりあえるという個人の能力の誇示にすぎない。これがつらいのは、当然、自分がそんなに立派ではないことを自分が最もよく知っているからだ。つまり、一人で生きるなぞ私たちは到底為し得ないのである。

 近代は個人主義をもたらした。たしかに共同体やムラという軛からの解放は自由の一つだが、つながりを一人一人が自分の力で見つけなければならないというのもかなりハードルは高い。かくして、ぼっちは「発明」された。人間の理性が近代を発明したのだから、その近代が生み出すものもまた人為的であるというわけだ。近頃、コミュニケーション能力が声高に叫ばれるようになった背景にはこうした事情があるのだろう。そういえば、恋愛結婚は離婚率が高いようである。

 


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