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福田恆存を勝手に体系化する。12   いよいよ思索の頂点へ     

 

根本的現実とは何か



 さてここで、これまでの「体系化」をいったん手みぢかに整理しておこうとおもう。
 というのも、この節から、福田恆存の思想の体系化における最も重要なポイントを明瞭にすることになるからだ。
 それは近代を超越せんとする福田恆存の思想的営為の核となるものを摘出することを意味している。

 私は、特定の状況のなかで一つの視点をとらされている。事物はすべて私のパースペクティヴの内部にあらわれる。私はその外部に出ることもできないし、それを他者と交換することもできない。
 それゆえ、私の人生は、ことごとく私の内部に生起する出来事である。私は、原理的に孤独の境涯にある。

 パースペクティヴは私の視点を起点として、空間的・時間的に広がりをもつ。そこには二つの次元がひらけている。孤独の次元と共生の次元。福田恆存の用語でいえば、個人的自我と集団的自我、の二つである。

 共存の次元は他者にひらかれている。他者および社会、国家などはここにあらわれる。それらはすべて推定的存在であり、私はそのファサードを把握することしかできない。私が自己のパースペクティヴから脱出できないのと同様に、他者のパースペクティブに侵入することもできないからである。
 他者は私のパースペクティヴに包括されるが、視点をかえれば、私もまたかれらのパースペクティヴのうちに包括されている。つまり「世界」とは、自他のパースペクティヴの多元的な複合である。したがって、ニュートンが想定していたような「絶対空間」「絶対時間」は存在しない。

 個人的自我は、「諦念、瞑想、自己認識」の場である。私はそこで、他者や社会からの影響をいったん遮断して、自分の真実と向き合い、純粋な倫理を観想しうる。

 個人的自我の背後には大自然がひかえ、集団的自我の背後には歴史がある。

 孤独の次元と共生の次元の関係性は、「神のものは神に、カイゼルのものはカイゼルに」というイエスの言葉に照応している。ただし、私のパースペクティヴの外部に位置する絶対者への通路は閉ざされているがゆえに、自然を媒介にして、その存在をわずかに感じとることしかできない。

 とりあえず、以上がここまで「体系化」してきた部分のかんたんな素描である。
 というわけで、先を急ごう。

「私」はパースペクティヴの起点にある。それを円にたとえるならば、私は円の中心にいる。そして、その円の総体は、福田恆存いうところの「全体」ということになろう。
 しかしその円の外周は、私には見えてはいない。
 
 たとえば私はいま、書斎の机の上にあるパソコンのキーをたたいている。机の上には数冊の書物が置かれている。目の前には本棚がある。それが私の視界に入っているもののすべてである。ところがその場合でも、私は私の住居全体の存在を無言のうちに意識している。のみならず、玄関から出た道がJRの駅に通じていること、JRが日本全国に広がっていること、その外にはアジアがあり、さらに地球、太陽系、銀河、宇宙全体というふうに円周が拡大されることを確信している。つまり、見えるものの背後には、隠されているものが膨大に存在している。
 時間的にも同じことが起きる。空間が私の書斎から全宇宙へと拡大していったように、現在から、私個人の記憶、日本史、世界史、ビックバンへと時間的に広がってゆく。私の現在の背後には、過ぎ去った過去がいまも生きているのである。
 私はそれらすべてをひっくるめたものを総合して「全体」というものを感じている。

 しかも私の視界に入っているものでさえ、そのとき私が注意を向けているもの以外は、あいまいに存在しているだけなのである。私はパソコンの画面、キー、机の上の書籍、本棚と、順に見ていくこととなり、視線の焦点が合っているもの以外は、目の端にぼんやりと実在している。
 このことは、外部の事象の知覚にかぎらない。私の内面に目を向けた場合にもおなじことが起こる。福田恆存も次のようにのべている。

 何か考へようとするとき、あるいはかうして言葉を書きつけてゐるとき、私は自分の頭の中で、ほんの針の先ほどの微かな一点しか火が点つてゐないことを、そしてその周囲は完全な暗闇に領せられてゐることを感じる。
 私たちは認識したり思考したり指示したりするために、言葉を道具として用ゐる。だが、認識、思考、指示の手段であり過程であるに過ぎぬ言葉は、しかもそのつど存在する。言葉は存在するものである以上、私たちは同時に二つの言葉を語ることも思い浮かべることも出来ない。私の頭の中の明るみのあの小さな点を同時に二つの単語が占拠することはできない。
                      

『批評家の手帖』

 私の意識の「場」は、時空において物理的に一定の狭小な範囲に限られているのである。言葉、つまり概念もまた実在である以上、意識の「場」において一定の面積を占める。パソコンの画面やキーとその点で変わりはしない。しかもわれわれの思考は一点にフォーカスするので、個数も一つに制限される。しかしその場合も、焦点の合った意識内の事象の背後には、数限りない観念が共現前しているのだ。

 感覚的なものであっても、または観念的なものであっても、私の意識に現前するもののいっさいは、どれほど俯瞰的になろうとも、いわば断片にすきない。どこまでも部分でしかないのである。
 だがわれわれの意識は、その断片がそれを包みこむかのような潜在的な背景をもっていることを、暗黙のうちに認めている。断片は、それが断片であるかぎりにおいて「全体」を要請するのだ。いいかえれば、断片を全体の部分として認識する以上、それを基礎づけるそれ以外の体系的現実を想定せざるをえないのである。
 とはいえ、断片の集積が「全体」を構成するわけではない。しかしここからが、いわば「本題」となる。つまりその全体を要請する仕方が、福田恆存の場合、アリストテレスやトマス、あるいはデカルトからフッサールまでの論理構成と劇的にちがってきているのである。

 たとえば、いま私のまえに猫がいる。猫とはいったい何者であろう。形、色、毛並み、触ればしなやかな抵抗がある。匂いもある。機嫌をそこねると、引っ掻いたり噛みついたりする。また、隣りの猫とは、色も形も大きさもちがう。つまり私が猫についてもっているデータは、すべて断片的なものだ。たんなる断片的データの寄せ集めから私は目の前の動物を経験的に「猫」と認識するのであろうか。
 いや、それはない。隣りの猫と大きさも形も色もちがう。とすれば、私は認識する過程でそれらのデータを批判的に取捨選択し、分析的に統合して「猫」というカテゴリーを想定していることになる。伝統的にはそれを、「イデア」とみたり、「形相」「実体」などと呼称してきた。くりかえしになるがそれは、事物の背後に目には見えない単一の永続的なものを設定することである。
 だがこの方向性が示唆するカテゴリーは、夙にオッカムが批判したように、なんの明証性も得られない蜃気楼のようなものだ。「存在」とか「本質」とかいうものは、言葉によって支えられ、言葉によって想起されるものである。たとえそういう存在者があるとしても、われわれはそれを直接的に――というのは、われわれを支え、われわれの基盤となる第一義的なものとして把握することはできない。それにもかかわらずこの道すじを辿るならば、行く末は、ハイデガーの晩年が示しているように、地下の迷宮をひたすらさまようことになる。
 
 さて、もう一度考え直してみよう。私の意識に現象するデータは断片である。ということは、不完全で推定的なものであるということだ。だとすれば、私が認識する「猫」もまた、不完全で推定的なものに相違ない。しかしながらすくなくともそれは、蜃気楼でも幻覚でもなく、実在なのである。我が家の猫は確実に存在している。しかしその認識はやはり、言葉に支えられたものであることにかわりはない。だからこそ推定的ならざるをえないのである。

 事物を認識するといふことは、少なくともその都度、一つの拠点を採ること、一定の約束に随ふことを意味する。私たちはまづ見方を教へられなければ、見ることさへ出来はしない。それを誰にも教へられず、既成の観念を排除して、専ら自分の理性と感覚により事物をありのままに見てゐると信じてゐる人たちは、よほど好人物か、よほど頭が悪いか、そのどちらかである。
                    

「批評家の手帖」

 福田恆存らしい辛辣な物言いである。だが、かれがいっていることは、まことにもっともな話だ。私が我が家の猫を見て、「猫」であると認識できるのは、「猫」という言葉を知っているからであり、しかもそれが日本語の体系という「既成の観念」によって位置づけられているからである。あらゆる前提を括弧に入れることが現象学的還元であるのだが、素直にそれを徹底して実行してしまえば、われわれは認識どころか、「見ることさへ出来はしない」のだ。

 しかしここで見逃してはならないさらに重要な指摘は、認識とは、「その都度、一つの拠点を採ること、一定の約束に随ふこと」という何気ないくだりである。かれにとってあまりに明白な事ゆえに、福田恆存自身、この着想のこの上ない重要性を気にもとめていないようだ。
 それだからこそ、こういうところに、「福田恆存を勝手に体系化する」ことの醍醐味がある。

 それはさておき、「一つの拠点を採ること」は、「一定の約束に随ふこと」に帰着する。で、対象と私の位置関係が「一つの拠点を採ること」である。その時空における相関性のもつ意味が、「一定の約束に随ふこと」である。「事物の認識」とはいいながら、ここにこそ、福田恆存の考える人間の根本的現実の相がある。人は「その都度、一つの拠点を採ること、一定の約束に随ふこと」において、他者や事物との関係を正確に測定してみずからを位置づけ、そのことによって存在しているのである。しかもそれは言葉を媒介とすることによってのみ、なしとげられる。

 従来の認識論において、その始祖であるデカルトは、人間の根本的実在を思考に見出した。その場合、私と事物との関係性は必然的に、主体と客体ということになる。なぜならば、「私の思考」を根本的真理としてしまうと、それ以外のすべての事物は第二次的な疑わしい存在とみなされて、第一次的真理である「私の思考」に依存することとなるからである。私の意識に現前した事物の像を私の思考がとらえる。それはある種の主従関係である。主体と客体とのあいだに支配・被支配の関係性が見いだせる。そしてまさにこれが、近代以降纏綿とつづいてきた基本的なスタンスである。

 ニュートンの「絶対空間」とそこから引き出される近代の科学的実在論を徹底的に否定したフッサールにしてもなお、主体と客体という相関性を克服できてはいない。弟子のハイデガーは現象学の本質について、次のように書いている。

 デカルトは明らかに、第一哲学を思惟するものに基づかしめている。カントの超越論的問題構成は意識の領野を動いている。このように存在する者から意識へと目を転ずるということは、果たして偶然に起こっているのであろうか。こうした意識への還帰の必然性を原理的に解明すること、この還帰の途とその辿り方を根源的かつ明確に規定すること、そしてこの還帰において開示される純粋主観性の領野を原理的に限定し、体系的に踏査すること、これがすなわち現象学なのである。

ハイデガー「ブリタニカ草稿」木田元訳

 ハイデガーは何気ない顔で、フッサールの現象学を「意識への還帰」であり、「純粋主観性の領野」にとどまるものであると批判しているのである。このへんから師弟関係にひびが入り、二人はべつべつの道をたどるようになっていったようだ。それはそうだろう。ハイデガーの指摘はフッサールの急所を見事についている。いやな弟子もいたものだ。
 まあしかし、現象学についてのハイデガーの的確な歴史的位置づけについては、簡略でもあり、さすがというほかにない。

 福田恆存において、思考は人間の根本的実在ではない。思考はさながら、耳目や手足同様、人間特有の器官として考えられている。それらは人間の生に奉仕するものであって、その逆ではない。したがって私と事物とは主従関係ではない。もはやいうまでもなくそれは、対等な共存関係として記述される。自我は、生きようとする欲動であって、デカルト的な主語ではありえない。福田恆存の言葉でいえばそれは、「無限定」なものである。かんたんにいえば、進むべき方向も、とるべき手段も、なんら固定されてはいないということだ。
 無限定であるがゆえに、自己は事物とのかかわりにおいて、「その都度」、一定の規定が仮設される。要するに、私のパースペクティヴにあらわれるさまざまな事象は、私を限定し、私に「自己」を贈ってくれる相棒なのだ。

 馬糞ころがしが馬糞を丸くこねるのは、決して選択によるのではない。その方が運びやすいからといふのは、人間の思ひ過ごしである。もし馬糞ころがしが馬糞を丸くこねることを選んだと言ひうるなら、逆に馬糞の方で自分を丸くこねてくれる馬糞ころがしを選んだとも言へる。両者は同様に真理である。馬糞ころがしは生物であり、馬糞は物であるといふことは、なんら差別の理由にはならない。生物にだけ意志を見るのは人間の勝手に過ぎない。                     

「批評家の手帖」

 微妙な比喩ではあるが、福田恆存がここでいわんとしていることは、明瞭につたわる。
 われわれの根本的現実は「思考」ではなく、「生きる」ということである。それはとぎれることのない絶えざる変化であって、さまざまな事物との出会いと、その結果として私のパースペクティヴの内部に多様な事象とのかかわりが生起することである。ものは私のまえに現れ、私に語りかけてくる。あるいは障碍となり、私を脅かしてくる。私の方もそれらに働きかけて、対処し、そこではじめて自己を発見するのである。それはまた、私に現前する事象が私を規定しているということでもある。

 私は富士山を見ている。そのとき富士山も私を見ている。その瞬間、両者は時空において絶対的な枠組みを構成する。そのとき富士山は私の知覚に基礎づけられている実在であるが、同時に、私もまた富士山に基礎づけられている実在なのである。「私は生物であり、富士山は物であるといふことは、なんら差別の理由にはならない」
 私が目を瞑れば富士山は消える。しかし同時に、富士山に見られている私も消え去る。両者の関係は主体と客体、主観と対象ではなく、相互に基礎づけあうことで成立する一組みの根本的な現実なのだ。さしづめ、一枚のコインの両面ということになる。

 それはたとえば、磁石に近づけられた鉄が磁石となるようなものである。鉄片は磁石と一定の位置づけと一定の時間をかけた関係性をむすぶことで、電子のスピンの向きがそろい、鉄片は磁性をもち、それ自体が磁石へと変容する。同様に、「私」はさまざまな事象と時空間における関係が成立することで、その時その場の「私」が生じる。それはカメレオンのような外皮だけの変化ではなく、相関関係の対象のもつ性質と状況に応じて、存在様態そのものの変革が起こるのだ。

 それゆえに、「純粋主観性」など原理的にありえない。
「私」という実体はどこにも存在しない。あえていえば、「私」とは、私のパースペクティヴにあらわれるあらゆる事象との関係性の総体である。私と私以外のすべてのものとの関係と、そこから生じる出来事によって構成された――のみならず、時間と空間に限定された一つの事件の過程、すなわちドラマなのだ。
 人間は、存在論的に、劇的なるものである。

 ここまで読んで、おそらく、ははあ、これはいわゆる「生の哲学」だな、と早合点する人が少なからずいるだろう。しかしそれもまた、ぜんぜんちがう。福田恆存の思想は、生の哲学でも実存主義でもない。厳密な思考をこころがければ、誰にもその差異は明白に了解される。

 たとえば、それらのなかでも最良の思想家であると目されるベルクソンと比較すれば解りやすい。かれは生の根本的現実として、「持続」という概念を直観において措定している。ゆえに、人間の意識は「持続」によって基礎づけられる。たしかにそれは、この上なく貴重な指摘ではある。普遍的で機械的で客観的な「時間」は否定され、空間的なものから質的なものに再定義される。すなわち、「持続」はベルクソンにおける「存在」なのである。
 なるほど福田恆存も時間を質的なものと考えている。そこは変わらない。だがしかし、ベルクソンにおいては「持続」という内面的な唯一のものに世界が基礎づけられるゆえに、結果として、世界は主体の意識にのみこまれてしまう。「意識に還帰する」のだ。
 ベルクソンの「直観」は、どこまでもコインの片面にとどまる。柄谷行人ではないが、それは「案外、デカルト的なもの」ではないだろうか。

 私と事物は主従関係ではなく、事物が私に依存しているとするなら、私もまた同程度に事物に依存する対等な関係である。というより、二者の位置とその枠組みこそが、第一義的な事実存在なのだ。こうした福田恆存の根本的世界観は、いくら強調してもしたりないくらい重要な意味を帯びていると、私はおもう。
 なぜならそれは、近代から現代までつづく、つねに主体の意識に還帰せんとする「純粋主観性」の呪縛を、アレクサンドロスの剣のように一刀両断し、存在の相対論性を基礎づけるものであるからだ。

 ここまでくどくどと、ルネサンスやデカルトやフッサールについてしつこく語ってきたのも、ただひたすら、この福田恆存の根本的な着想にたどりつくための必要不可欠な地ならしのつもりである。福田恆存のあらゆる言説、作品は、現代の風潮にたいする激しい批判に見えながら――いや、事実そうなのだが、より深いレベルにおいては、「意識に還帰する」近代以降の世界観にたいする根源的な否定をふくんでいた。それは、私と事物との枠組み、その相対論的絶対性を根本的事実として想定する新たな世界観である。

 その歴史的な重要性に誰も言及せず、それどころか気づいてさえいないという状況は、私からすると、なんとも不可思議というほかない。
 へたをすると福田恆存自身、それほど重視してはいなかったのかもしれない。かれにしてみればその着想は「生きる」ことに奉仕するための基礎的成分でしかなく、人生の目的は生きること、つまりかれの場合、文学をつくることにあったからだ。
 それゆえ、かれの発見した根本的現実は人間の行動へと適用される。

 私が東にむかって時速十キロの速度で歩いているとしよう。その場合、「東にむかって」とか「時速十キロ」とは、何を意味しているのだろうか。いうまでもなくそれは、地球を基準としなければ導きだすことのできない指標である。私と地球という関係性をとりはらって、暗黒の空間に私がいるとすれば、私は自分がどこにむかっているか、動いているのか、止まっているのかさえ把握できない。
 しかも基準となっている地球は、銀河系の外部にある観察者から見れば、太陽の周囲を猛スピードで進み、急速で自転さえしているのだ。つまり、私が東にむかって時速十キロの速度で歩いているということは、私と地球というその時点での両者の枠組みにおいてのみいいうる運動なのである。
 地球は私の指標であると同時に、私もまた地球の指標なのだ。

 それは物理的な運動にかぎらない。
 たとえば、私が一人の女性と向かい合ってすわっている。私はこの女性に好意をもっている。いや、恋している。私は彼女の態度や口ぶりに、なんとか私への好意を発見しようとあせっている。
 彼女もまた、私に好意をもたれていること、自分が同様に好意的であるのかを相手がさぐっていることを感じている。
 その時その位置における私の認識は絶対的である。それは私が彼女の内面を知りうるという意味ではなく、私と彼女はたがいに事実存在を確認しうるという意味において、である。私と彼女という二つの実在は相対論的なのだ。時空において、分かつことのできぬ相関性によって、二つの人格は実在しているのである。ちょうど、地球を基準に自分の方向と歩行速度が決定されるように、私は彼女の実在によって、私のありようが決定される、恋する男として。
 そしてまた彼女も、私のありように応じて、多様な可変性をもつのである。

 私や彼女がどのようであるか――たとえば、性格とか知性とか体力とか風貌とか、そういうものよりも、現実においては、その時その場で二者のあいだで何が起こり、どのように影響をあたえ合うかということが先行する。したがって、私や他者という実在する事物からなると一般におもわれている世界の実相は、起こりうる相互作用から生じる事象の総体へと書き換えられる。現実は相互作用であり、また関係の多様なのだ。

 福田恆存のいう、「無限定の自己」は、こうした世界認識に立つものである。かれが「個性」を尊重しないのも、ここにその根本的な理由がある。生きるとは変化することであるから、私と対象との間に生まれる相互作用は、また別の関係性に推移することで、異なった相互作用へと変化する。その推移の過程をわれわれは人生とよぶ。性格とか個性がもしあるものならば、それらの相互作用の過程において、その都度、瞬間、更新される可変幅の限界を意味するにすぎない。それらの性質も、あくまで対象となる事物との関係性に依存しているのである。だとすれば、私のなかに持続するものがあるとしても、いわゆる性格の一貫性などというものはあだな幻想にすぎない。

 ある瞬間の自分の感情に、いや、それを感情と名づけることがすでに実在からの離脱の第一歩だが、かりにそれを感情と呼ぶことにして、そのある瞬間の自分の感情に「お前を愛する」といふ言葉を与へてみて、それでどうなるといふのか。どうにもなりはしまい。その言葉を口に出す以前の、名づけがたい感情をもつてゐた男が死んで、その代りに、「お前を愛する」といふ口をきく男が生じただけのことに過ぎない。                

「批評家の手帖」

 このように、福田恆存の存在論においては、主体のありようは関係性の枠組みの変化に応じて明滅する。すなわち、人間の存在とは、その時その空間における関係性において生ずる一度限りの事件であり、出来事であり、ドラマである。ある実体が通時的に連続して変容するのではなく、その都度、特定の状況のなかで生起する。人間だけではない、私とはそのパースペクティヴであるから、われわれが認識している世界や事物もまた、そのたびことに、生じ、滅ぶのである。

福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。