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福田恆存を勝手に体系化する。2-1   


絶望の現象学

フッサールとの対決

 フッサールに『デカルト的省察』という著書がある。これは、デカルトのいわゆる「方法的懐疑」を批判的に読み解くことで、それを称揚しつつ深化・超克して、みずからの現象学の方法論へと変換しようとする野心作である。フッサールは自己をデカルトの正統的・発展的継承者であると位置づけているようだ。
 そこで、フッサールはデカルトの独我論的傾向を否定し、他者との関係性において「間主観性」という概念を導入している。そのほかにも、「現象学的還元」「共現前」など、まことにおもしろい。まあしかし、文章は行きつ戻りつをくりかえして、まどろっこしいことこの上ないが。
 哲学との距離を強調した私があえてここで『デカルト的省察』をとりあげるのは、そういうエピソード的興味からではなく、フッサールの議論を読んでいて、福田恆存の「デカルト的」な要素が、じっさいにはちっともデカルト的ではないことを、より鮮明にきわ立たせるのに好都合であると考えたからだ。しかもまた、オルテガのパースペクティヴィズムが、ニーチェよりもむしろ、フッサールの現象学から多くの着想を得ているのは周知の事実であり、だとすれば福田恆存の場合も同様であろうと、私は推測するからでもある。それはかれの基礎的認識論を解説するのに役立つ。

 デカルトの超越論的観念論は人間理性に基礎をおくものであるが、暗黙のうちに、因果率の精緻な網目で構成された世界の本質――神の摂理というものが前提されている。その場合、理性とは、そうした世界を組成するシステムに接続するプロトコルをもち、それを解析しうるようにプログラムされた世界にただ一つのソフトウェアのごときものである。『方法序説』のうちにデカルトは高らかに宣言している――理性にしたがって正しい手順をふんで演繹をかさねていけば、はるか遠きものにたどり着くことが可能であるし、われわれの目から隠されているものを発見することもできるのだ、と。私は「超越論的」という業界用語をこのように理解している。
 デカルトにしてもライプニッツにしても、そうした同様の世界観にもとづいていた。それは、中世への反逆という近代のイメージとはべつに、案外、トマス・アクィナスのようなアリストテレス―スコラ的世界観をその母胎としているという事実を示唆するものである。
 フッサールはまず、そこからの脱却をめざしたのだ。かれはまずそうした諸前提を排除するところから再出発する。

 第五省察でフッサールは、「原初的世界」というものを設定し、自我がはじめて他我と出会うという場面を想定している。端折っていえば、他我と出くわした自我は、その外見的アナロジーから自分と同類の存在者であると了解するのだと、フッサールは主張する。「他者は、現象学的には、自己の変容である」とかれはいっている。そこから「間主観性」という独自の考え方へとすすんでゆくのである。ここだけでいえば、「見る人間とはいひながら、それは絶対的な観照者ではなく、あくまで相対的で、他からは見られる人間である」という福田恆存の考察と一致するようにおもえる。だが、ここもぜんぜんちがうのだ。両者は似てはいても交わることのないパラレルな二本の直線である。

 第一に、フッサールの設定する「原初的世界」は、抽象的な観念であり、現実の生活からは隔絶した実験室のごときものである。かれは科学主義を批判することから現象学を創始したにもかかわらず、「厳密な学としての哲学」に執着するあまり、ここではあきらかに科学主義の罠に陥っている。第二に、外見的アナロジーとしてかたづけられるほど、私と他者は似ているのか、すくなくとも私には、そこが疑問である。少なからず安直な立論ではないか。第三に、こうした現象学的還元から得られた他我の存在証明は、かれの「間主観性」という独自な世界観をささえるにはあまりに「独我論的」すぎる。それはあたかも、撮影した自我のポジとネガを見せて、他我の実在を立証しようとしているようなものだ。

 福田恆存は次のようにいっている。

 私たちは自分の内臓の痛みによつて他人の内臓の痛みを想像し、それが同じ痛みであり、同じ症状によるものであると知る以外に手がない。たとへその痛みが異なるものであつても、私たちはそれが異なるといふことを証明しえないばかりでなく、それと知ることさへ出来ない。
                      

「批評家の手帖」

 私の胃の痛みは、私だけが痛いのであり、それを他人に譲りわたすことも、他人と交換することもできない。自分の痛みをもとに、相手の痛みを想像することはできるが、どれほど観察したところであくまで推測の域をでない。そうであるならば、外見の様子から得られたデータを基礎として他者が「自己の変容である」と規定するフッサールの主張には原理的に無理がある。

 福田恆存の場合、そもそも人間は社会的・歴史的存在者なのだという前提があることはまえにものべた。ここでフッサールを真似て、あえて「原初的世界」を設定するとすれば、それは人間の誕生の瞬間ということになろう。

 われわれはこの世に生まれおちて、はじめて意識するのはなんだろうか。デカルトやフッサールの想定する「自我」であるのか。否、お釈迦様でもあるまいし、誕生の瞬間に「天上天下唯我独尊」と宣言することはなかろう。まして「我おもう、ゆえに我あり」なんてことあるはずがない。
 哺乳類である人間は、一般的に、まず大きい声で泣くことで自分の存在をアピールし、乳房をもとめるはずだ。その時点ですでに、それが意識的であろうがなかろうが、その行為は、乳をあたえる他者というものを前提としている。とはいえ、この時、乳児に自我も他我もない。自他の区別など意識する前に乳房ないし哺乳瓶にむしゃぶりつく。むろん、哺乳者が母であろうと誰であろうと気にしない。そこにあるのは口に入ってくる液体が自己の生命維持に有効であるか否かの生理的判断だけだ。

 他者との共存――それは人間において原初から存在する。乳幼児の期間、人間には自他の意識はおそらくないとおもう。人間が人間となるには、言語、文化、慣習などを習得する必要があるのだが、それらはもっぱら他者および、周囲の他者からなる「社会」からあたえられる。共生の過程において、泣いたりむずかったりという原初的コミュニケーションが、方法論的にしだいに洗練されてゆくのである。その過程のうちに、自他の区別がゆっくりと芽生えてくる。

 人間は生まれると同時に、それぞれの国語が形造つてゐる異なつた世界に登場する。私たち日本人は自然のなかに住む前に、日本語といふお伽噺の世界の住人なのである。私たちは登場人物であつて、作者ではない。
                    

「批評家の手帖」

 人間は生まれながらに理性的存在者であるわけではない。理性というソフトウェアも後天的に獲得する。

 そう考えると、フッサールとは逆に、他者の存在が自我を覚醒させるという順序をふむという方が妥当なのではないかと推定されるのだが、どうだろう。私は哲学者でも心理学者でも文化人類学者でもないので確かなことはいえないし、じつのところ文学においてはどうでもいいことではあるが、そう推論することにかなりの程度の妥当性があると感じる。
 順序のことは脇におくとしても、人間の生命が他者との共存を基本的条件としていることは火を見るより明らかなことだ。だとすれば、福田恆存の思想を体系化する上で、「他者」とは何か、人間が社会的・歴史的存在者だと規定する場合の、「社会」「歴史」とは何なのか――そうした基礎的な概念をまず定義してから先にすすむ必要がある。ここは人間学を論ずる場ではないので、手短で暫定的なものにならざるをえないが、それでも、それらの概念の輪郭だけでも明確にしておくにしくはない。

福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。