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福田恆存を勝手に体系化する。6   「外発的」自己の歴史性 終末論とはなにか。



西欧精神の中枢に斬り込む

 いよいよここから、福田恆存における最深部「外発的自己」に錘を下すことになる。かれはその中核について、直接的には語っていないので、正直な話、ここからは推測の域をでない。しかしそれは、まちがいなく、西欧精神の中枢であるキリスト教精神に斬り込むことを意味する。
 私は私の視点から、そこにせまろうとおもう。(注)

 イエスはユダヤ民族の歴史的軛をはなれ、純粋なる個人として神に対した。それゆえに、神のまえに平等なのである。「神のものは神に、カイゼルのものはカイゼルに」といったとき、それはほかならぬ個人的自我と集団的自我の峻別が宣言されたのである。そしてかれは神の国の到来という終末論を説き、カイゼルのものを拒絶しつづけ、ついには神に殉じて十字架にかけられる。

「マタイ福音書」に、次のようなイエスの譬え話がある。
 種を蒔いたばかりの麦畑に、夜中、敵が来て毒麦の種を蒔いていく。それに気づいた家僕は主人に毒麦の芽を抜くべきかどうか問う。主人は答える。

いな、おそらくは汝ら毒麦を集むるに、これとともに麦をも抜かん。刈り入れまで二つながら育ておけ、刈り入れの時、われ刈る者に向かいて、まず毒麦を集めて焼くためにこれをたばね、麦をば、わが倉におさめよ。

「マタイ福音書」十三章

 麦畑は世界であり、主人は神、家僕は人間、毒麦を蒔いたのはサタンである。この挿話は、サタンの誘惑に負けた者と信仰を正しく保った者が世界に必然的に混在していることの比喩であると考えられている。しかしながら、人間がその選別について判断することは固く禁じられる。最終的な審判は神だけが下すのだ。そしてここで強調されているのは、「待つ」ことだ。いつの日か下される最後の審判を自覚して生活し、敵意に満ちた世界にあっても、いたずらに憎むことなく、神の到来を忍耐強くひたすらに待つことが要請されている。この譬えは、イエスの終末論を端的にあらわしていると、私はおもう。また、さらに――


  
 また汝らは、親、兄弟、親族、朋友より売られ、そのうち、あるいは彼らに殺さるる者もあるべく、またわが名のために、すべての人に憎まれん。しかれども汝らの髪の毛の一すじだも失せじ。忍耐をもって、その魂を保て。
                  

「ルカ福音書」二十一章

 なんというはげしい言葉だろうか。イエスはここでクリスト者の終末論的宿命について語っている。家族、友人さえもカイゼルの側に立つものとして退けられ、絶対的な孤独がクリスト者の甘受すべき運命であると明確に予言されている。

 その後、パウロによってクリスト教神学の根幹がかたちづくられる。それは、当時の知識人に支配的だったギリシャ的世界観からの離別を意味していた。その意味で、ギリシャ的教養を身に着けていた改宗者パウロの存在は象徴的である。

 おおざっぱにいえば、ギリシャ哲学の根本は理性による世界理解であった。徳や美は理性による調和がもたらすものであり、原動者――すなわち神はコスモスを調和し動かしている存在者である。そこでは時間は円環をなして動いていると考えられていた。理性は万人のものであり、普遍の原理である。
 それにたいして、パウロはクリストの復活と再臨を信仰の基礎に位置づけた。神の到来にたいしてクリスト者はただ一人で立つことを求められる。そして再臨は、未来からのクリスト者への不断の呼びかけなのだ。行動への決断は自由であるが、日常の彼は公人として過去から生じる集団的な状況に縛られている歴史的存在者である。ところが、クリストの再臨が呼びかけているのは、あくまで永遠の倫理にもとづく個人の決断なのだ。この呼びかけによって、クリスト者はすくなくとも可能性として未来に開かれる。

 終末とは、宇宙的な破局ではなく、古き世界を終わらしめる神の行為である。つまり、消去されるのは集団的自我にかかわる社会、世上権力、国家体制、民族、家族であり、ただ純粋な個人のみが残留する。クリスト者は歴史の現在において、つねにこの集団の歴史を捨象した終末からの照射を純粋なる個人としてうけている。決断はみずからの未来を決定づけるが、その場合、カイゼルのものとしての集団的・政治的・歴史的な要求ではなく、神のものとしての愛と理想、永遠の掟にしたがうことがあくまでもとめられる。クリスト者は、集団的存在として歴史の地平にありながら、同時に個人として永遠の相のもとにある。歴史性をもちながら、一方では歴史を超越しているのであり、クリスト者は、いわば存在論的ケンタウロスなのだ。下半身は大地に足を着けながら、上半身は遠く地平のかなたを観想している。これが私のみるところ、クリスト教の逆説的な歴史性であり、独特な倫理思想である。

 こうした終末論的倫理のありかたは、ギリシャの世界観とは決定的に相いれない。なぜならば、倫理の根本は神への信仰という理性ではけっして接近できない不合理なものを核としているからだ。むしろ理性で計量できるものいっさいを排除したところに成り立っているというのがクリスト教の終末論であるといえよう。アリステレスの哲学を導入したトマス・アクィナスも、この点においては一歩も譲ってはいない。

 時間は円環をなすのではなく、神によって始原と終末とに区切られている。神は原動者ではなく、コスモスから完全に独立した唯一普遍の存在者なのである。とすれば、その超越的な要求は国家、社会、家族、法律、生命、財産、政治など、すべての集団的なものにたいして、絶対的に優先する。しかも歴史が区切られることによって、時間は終末から逆算される。その結果、極端な話、クリスト者は一挙手一踏足にいたるまで意味をもたらされ、個人と時間の関係は一回かぎりの決定的なものとして意識されるにいたるのである。
 したがってクリスト教における罪とは、こうした神の要請にそむくことであり、神の前から逃走することである。エリオットはかつて、何もしないより悪を犯した方がいいといったが、この言葉は以上のべたような理念を背景としなければ、たんなる放言でしかないだろう。

 私のみるところ福田恆存は、こうした終末論的世界観を知識としてではなく、骨身に徹した生き方として理解し、「外発的自己」としてみずからのパースペクティブの主要な成分として位置付けていたと考えられる。それゆえにこそ、かれは終始、日本人らしからぬ攻撃的論争者たりえたし、徒党を組まず、孤高をたもちえたのである。

「カイゼル」のものとはすなわち、「集団的自己」の領域である。自己は「社会」という強制力をもった存在者と相対的関係をむすんでいる。「社会」は推定的存在者であるから、実際にその強制力を直接行使するのは、その成員たる人間である。かれらの「生の衝動」は成員間に権力の流れを生じる。かれら相互の生の衝動のもつ質と量に応じて、権力は分有されることになるからである。権力それ自体は悪でも善でもない。ただ、ある特定の人物の「自我解放」はかならず、その他の人物の自我抑圧を生む。自由と平等は必然的に相克をくりかえす。「社会」はそこに一定の緩衝地帯をもうけてはくれるが、推定的で機械的存在者である「社会」を媒介として他者と集団を形成する個人においては、それは万人を納得させうる公正なものとはなりえないのである。
 そこから、「万人による万人の戦い」が生じる。たとえそれが戦争や階級闘争といった顕在化した危機ではなくとも、われわれの人生においては潜在的に大小さまざまな権力闘争の小競り合いがたえまなく行われているのである。それが「社会」と相対的な関係をむすぶわれわれの「集団的な自己」の仮借のないすがたである。

 ユダヤは苦難の歴史をたどっていた。外的にはローマの支配、内的には律法の拘束によって、ユダヤ人の生の衝動は頭をおさえられて、人びとは社会的現実に絶望していたのである。そこに現れたイエスは、神の名のもとにそれら現世的価値を全否定してみせた。
――いわく、「貧しき者はさいわいなり」

 かれは「集団的自我」がもとめる価値――権力や富裕を否定するだけにとどまらず、それらの序列を転倒したのだ。イエスは一切の妥協を許さない。愛の実践のためには、他者に、それも敵対者にたいして、惜しみなくすべての自己を残すことなくささげなくてはならぬ。そこにあるのは絶対的倫理の相である。
 真正の価値は天上にあり、キリスト教徒は完全に受動的存在として規定される。価値判断は神の専権事項である。啓示の名において、神が一方的にかれらをみたす。しかもそれは聖職者や教会といった「社会」を媒介せずに、直接、神から個人へともたらされるのだ。

 こうしたイエスの思想は、そのラディカルさゆえに、とうてい生身の人間のたえられるものではないことから、かれの死後、すぐさま教会が形成されて、キリスト教団は集団を媒介とした信仰へと変移した。イエスの捨象した集団的自我の要素はしだいに拡大してゆく。その頂点をなしたのはトマス・アクィナスだ。かれはアリストテレスを援用しながら、天上と地上教会が併存しうる体系をたてたことは前節でのべた。受動的な盲目的信仰に、明晰な合理的知性を対置し、それが永遠普遍の神の存在にくらべればかぎられた能力であるにはしても、その合理性は神のもつそれと符合し一致するものであるとトマスは考えたのである。いいかえれば、限定的ながら、ギリシャ以来の理性の復権をなしとげたといえる。

 とはいえ、イエスの登場によって、キリスト教徒のパースペクティブにおける「個人的自我」の場が拡張され、補強されたことにかわりはない。その結果、かれらは社会から離脱し個人にひきこもることで、そこ映じた絶対的倫理を楯に、社会のおしつけてくる「正義」を相対化し、それらに抵抗する根拠としての「個人的自我」の場を発見したのである。

 こうしたキリスト教信仰の枠組みは、正直いって、私のようなふつうの日本人からすれば、およそ近づきがたいものではある。ところが、しっかりと距離をたもって静かにみるならば、そこにはかならずしも神がかり的な世迷言とのみはいえぬものがあることに気づく。キリスト教にかぎらず、古代からの人間の叡智がその種子となっているのだ。

 宇宙的な時間にくらべれば、人生はまことに短く、そして日々の生活の裏側にはつねに死がはりついていて、いつ終わりの時が来るのか誰も知らない。生前と死後は人間的自由は通用しない領域である。人の誕生に主体性はなく、死後にはその肉体は腐敗する。すなわち、私の時間的パースペクティブは、開始と終了とで明確に区切られていて、私はその期間の外部に出ることも、そこを覗くことすらもできない。よくいわれるように、私がどこから来て、どこに行くのか、まったく知る由もないというわけだ。いいかえれば、われわれ人間は、この件については徹底的に蚊帳の外におかれており、かつ完全に受け身なのである。私に生を授け、そしてふたたびそれを奪う主体が何であるか、私がそれを認識する手立てはどこにもない。

 こうした人間存在の基本的条件を、始原と終末を設定するキリスト教の歴史観は明確化し際立たせたのである。イエスという至高の天才は、かれの言葉と行動を注意深くみていくと、おそらくその関係性を合理的に意識していたと、私はおもう。だからかれは、神による安易な救済を否定し、神をためすことを拒否し、終末の日までひたすら待つことをもとめたのではなかったか。

 死が私の人生に不意に介入しそれをコントロールすることができないという動かしがたい人間の真実は、それを意識すればするほど、人生の時間を圧縮し濃密なものとする。いつ訪れるともしれない死は、人生を切迫したものにし、それをすこしでも意味あるものとする動機となり、あらゆる瞬間に人をせきたて、生きがいを得るように人をうながすのである。
 人間はみずからが限界をもつ卑小な存在であるからこそ、限界を超越した永遠の価値を夢見て、それに自己の人生を関連づけようとくわだてるのではないだろうか。
 無神論者のマルクスやハイデガー、あるいは織田信長においても、この点でなんら変わるところはない。すなわちこれは、人間に課せられた宿命なのである。

 こうした人間的生の逆説的構造を、キリスト教の終末論は、世界の外部に絶対的存在者を設定することで、明確化し補強して再提示する――私の目には、そして福田恆存にも、そのような強化され拡張された枠組みとして終末論は映じているのではないだろうか。これは組織内のメンバーではないからこそ見えてくるものなのかもしれない。
 
 十六世紀にあらわれたガリレオは、『天文対話』『黄金計量者』などの著作を出版して、アリストテレスの世界像を批判した。それは事実上、トマス主義の否定であり、教会にたいする敵対行為でもあった。神聖ローマ帝国の皇帝すら膝を屈したカトリックの権威にたいして、一学者がたったひとりで戦いを挑んだのだ。ガリレオの武器は、実証主義であり、合理性である。時代はルネサンスといえど、当然、かれはひどい迫害をうけた。しかしそのことが、ガリレオの実証主義をますます強め、近代科学への道を切り開かせるこになった。
 福田恆存は、こうしたガリレオの個人としての強さが、イエスの用意した個人的自我の場を源泉とするものであると見ていた。一方に集団的自我がおしつけてくる厳格で不合理な現実があり、他方に絶対者と相対する個人の場がある。その振幅は広く、はげしい。そしてここにこそ、近代文明を樹立し世界史を席巻しえたヨーロッパの秘密の核があると、福田恆存はめぼしをつけたのだ。 

 以上がかんたんながら、福田恆存がみずからのパースペクティブのうちに定着しえた「外発的自己」の内実の中核と考えられる。

注) 福田恆存は、オイディプス王を翻訳上演したときのインタビューで、自分の最後の著作のプランについて語っている。それはかれの世界観をかたちにするものであり、「終末論的なものになる」と語っている。いうまでもなく、その最終的な著作が書かれることはなかった。
 このことが、この「福田恆存を勝手に体系化する」に、私を駆り立てた直接の動機であり、それゆえにこそ、「終末論的」というのは最重要なキーワードの一つなのである。

 とはいえ、キリスト教徒でもない日本人の批評家が、自分の思想を「終末論的」であると説明することの異常さを、解っていただけるであろうか。私がはじめてこのインタビューを読んだとき、まだ学生だったのだが、まさに目が点になった。終末論って、なに? 

 それから今日にいたるまで、終末論を私なりに理解するのに、ブルトマンをはじめとして、おびただしい量の神学書を読まなくてはならなかった。ところが、神学書というのは、いわば「身内」にむけて書かれているので、暗黙の了解が前提となっている上に、ジャーゴンだらけなのである。派閥によってその前提もジャーゴンも微妙にちがう。しかも「終末論」というのはキリスト教の奥義に属するテーマなのだ。キリスト者の友人も、しぶい顔をするだけで、私のくりだす質問に率直に答えてはくれない。
 しかし、まちがいなく、福田恆存もここをくぐりぬけてきたはずだ。頭の出来が根本的にちがうので、かれはすぐにその奥義を察することができたのであろう。いや、察しただけでなく、みずからの血肉とできたのだ。

 福田恆存の逆説的な思考は終末論から結果する。もしくは、かれの終末論は逆説的思考の嫡子である。
 いずれにしても、ここに記した「終末論」がかれの思想の底にたえず流れている主調低音なのである。「一匹と九十九匹と」はいうにおよばず、「私の保守主義観」だって、そういう観点から書かれていることを見逃してはならない。

福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。