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福田恆存を勝手に体系化する。7  日本的なるもの

 前節では、福田恆存における「外発的自己」について検討した。
 それならば「内発的自己」とは何か。

「大祓」によれば、古代日本では、罪は天つ罪と国つ罪に分類されている。天つ罪は、田をけがし水路を破壊するなどの農作業を阻害する行為にたいするものであり、国つ罪は、殺人、傷害、姦淫、その他、驚くべきことに皮膚病などの病気も含まれる。
 どの解説書にも、天つ罪は天上においてスサノオが犯した罪であるからそう呼ばれるのであって、国つ罪のとの上下関係はないとされている。しかし私にはそうは思えない。古事記においてスサノオがアマテラスの田を荒らす行為は、現代人からみるとぴんとこないが、当時の人々にとっては誰もが怖れる大罪だったはずだ。そうでないとその後の神話のプロット自体が成り立たない。
 要は、殺人のような倫理的な罪よりも、農業という社会基盤に打撃をあたえて共同社会に悪影響をおよぼす方がより悪質だという共通認識があったのだと私は考える。すくなくとも、集団に個人を対置しようという意識はぜんぜん見出せない。犯罪と倫理的な罪とは未分化のままに放置されている。

 古代日本人は、神々の心にもとる事柄を罪であると考えた。そこまではどこの民族もおなじだ。だが日本人の特異性は、罪それ自体の意味を追求することなく、したがってそれを善悪の問題とむすびつけることをせずに、ひたすら神の怒りを恐れ、その逆鱗にふれぬようにふるまうことを第一に考えたというところにある。そういう行動様式を「忌み」といい、神官は神々の怒りをうけずにおくために、「穢れ」を取り去った。
 その結果、不潔は罪の主要な要素だとみなされるにいたった。けがや病気、それどころか泥がついて汚れることも罪である。むろん、「けが」は、「けがれ」からきた言葉だ。

 したがって、日本人における「善」は、真理でも理想でも永遠でもなく、「清潔」という言葉でいいかえられる。前段の終末論的倫理は頭で理解できたとしても実感はもてないが、現代の日本人にとっても、醜いとか清らかといった表現で道徳的価値を判断することにおいては、古代人となんら変わるところはないはずだ。いまでも「禊」選挙などということをいうし、道徳的な悪を「不潔」とか「醜い」と表現する。

 自分のことばかりにこだわることは醜いことであるから、「滅私奉公」ということがいわれた。そしてそれが武士道の中核をなしている概念である。もちろん、「御恩と奉公」という功利主義もたしかに存在したが、それを超越する理想として、滅私奉公は掲げられているのである。

 いずれにしても、善と清潔はいまだに混同されていて、不潔ということと罪悪を同一視する習慣は、意識しようがしまいが、私たちのうちに現代も生き続けているのである。あるいは、それがいかに正しい主張であろうとも、それによって集団の和を乱すことを極力さけようとする傾性がある。それを醜い行為であるとみなす心性をかかえているからである。自己本位どころか、滅私が思考の前提をなしているのだ。
 そういう心性は、組織防衛ということにたいする異常な気遣いとしてあらわれる。そこに積極的な要素は見いだせず、責任の主体もあいまいで、たがいに牽制しあうかたちで組織防衛の圧力は形成されている。極端にいえば、一人の悪人もいない集団から組織の悪はうみだされる。悪人がいないということは、善人もいないということなのだ。より正確にいえば、小さな善意と凡庸な悪意が向き合っているのである。

 本質論からいっても、けがれがないというのは消極的概念であり、いうなれば空白ではないか。それはけっして行動のモメントとはなりえない。価値への欲求が主体的行動とむすびつく道すじは原理的に閉ざされているのである。何もしないよりは悪を犯す方がましだというような激しい精神とは無縁な、生ぬるい色調をおびた日本の古層は、われわれの深いところで、ともすると集団から逸脱しようとするわれわれの衝動を中和している。これはもう、直接手の施しようのない基礎的条件なのである。まずはそのことを自覚するのが先決だ。

 諸行は無常であり、時間はただうつろい流れ去る。日本においては、人間が何をなそうとなすまいと、すべては空しい。

 もはやお解りのことだろうが、日本における「個人的自我」は本来的に弱く狭小なのに、さらに「社会」から圧力がかかることで、ますます縮小傾向にある。しかもこのことは、「集団的自己」の強度や拡張をも意味しない。対立項が弱いために、両極間の振幅は弱く、狭い。したがって双方ともにエネルギーは蓄積されない。
 たとえば、「情けは人のためならず」という言葉が典型的に示しているように、善悪は慣習へ、個人は集団へと吸収される傾向を強くもっている。個人の抵抗が弱いために、社会や国家も強い凝集力を必要とはしなかった。例外は外敵の脅威にさらされたときにかぎられた。
 日本の近代化がほかのアジア諸国よりもおそるべき速さで進んだのも、こうした社会優位の性格が大きく寄与している。しかしそのぶん、個人は置き去りにされ、個人的自我が近代と真っ向から対決することはなかったのである。

 こうした理念構造が、われわれの「内発的自己」の中核にある。福田恆存はこうした問題を、「日本及び日本人」「一度は考へておくべき事」など、さまざまな機会をとらえて俎上にあげている。

 ここでとりわけ注意すべきことは、なにも福田恆存は「内発的自己」にたいする「外発的自己」の優位を主張しているわけではない、ということである。くり返していうが、日本と西洋を比較して、優劣を論じているわけではけっしてない。かれはただ、同居していながら対立を避け、没交渉である二つの自己を、ただ引き合わせるだけでなく、対峙させ、噛み合わせ、火花を散らせようとしているのである。
 なぜならば、それが人間本来のありかただと福田恆存は考えている。そこからしか、何も生まれはしない。人間とは劇的なものであるからだ。生きるとは、われわれの内部に生じるドラマなのだ。
 だとすれば、日本的なるものを防衛するのではなく、あるいは逆に、いたずらに無意識の領域に手をつっこむのでもなく、ただ「外発的自己」を分析するのでもなく、まずそれを生きてみるほかにない。そこにしかドラマは生まれない。

 おもりを重くしなくては、翼は強くならぬ。軽いおもりのために飛べなかつたやうな翼なら、それを除いてやつたところで、どうせ高くは羽ばたくまい。 
        

坂口安吾『白痴』解説 新潮文庫版

注) ここまで解説してきた、内発的・外発的自己をめぐる具体例として、「三島由紀夫VS福田恆存 いわゆる「暗渠論争」に決着をつける」という項目をもうけております。
 よろしければご参照ください。

福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。