朝ドラ見て考える
今期の朝ドラをみながら、戦前の話なれど、今の世の中のことを考えずにはいられない。
自分が子どもの頃には、なんだかんだ言っても、戦後民主主義というものを信じていて、だから時々悪徳政治家みたいなものが出てきても、そういう手合いは最終的に陽の当たるところに居続けるのは難しいのではないかと信じていた。
何しろ悪徳なのだから。
あの絵に描いたような悪人顔の、田中角栄が失脚したのが、まさにその証左のように思われた。
まだ「正義は勝つ」という文句を、無条件に受け入れられていたのだ。
長じて学生生活も最後の方では、世の中そこまで単純ではないことも、だんだんと理解した。
いつまでたっても、与党は下野しないし、万年野党は長期低迷している。
どうやら、保守に対して革新といわれた側も一枚岩ではないし、内部的には必ずしも美しい話ばかりではないこともわかってきた。
それにしても時は80年代半ば、本邦はGNP世界2位まで上り詰めていた。
気楽な大学生であった自分は、体制も反体制もだらしないなりに、なんとかするだろう、そうそう無茶なことはすまい、という安心感を依然として持っていた。
やがて就職して実社会に出てみると、今度は出世や保身のために、上のいうことに唯唯諾諾と従うという、漫画の世界のような人は、実はいくらでもいるのだと知った。
学級会的な多数決などというものは、重要な案件になる程、適用されないのだという現実に苛立ち、いよいよ世の中に対する幻滅を深めた。
しかしだからといって、わたしのいた環境では、管理職が法を曲げてまで何かを強要してくることはなかったし、例えあった場合にはそれなりに大問題になった。
だから、そういう意味では、わたしのこの社会に対する信頼は、まだ揺らがずにいたのかもしれない。
そうこうするうちに、失われたウン十年に突入し、日本はどんどん貧しくなった。
同時にインターネットという、巨大な井戸端会議が出現して、皆、匿名で露悪発言をすることに躊躇いがなくなった。
少なからぬ人々が、己の現状を肯定するために、勝ち馬に乗ること、あるいは他者を攻撃することに、血道をあげることになる。
こんなふうに、局地的な撤退を繰り返しながら、わたしはこの国を信じ続けていたのだが、いつの頃からか、もう後戻りできないところに踏み込んでしまったのではないかと思わずにはいられなくなった。
それはもちろん、体制の劣化ということもあるのだが、それより何より、体制を支えている国民の側の劣化によるのではないかと考えている。
つまり「正義は勝つ」という時の「正義」のありようだ。
弱者と強者がいるならば、弱者の方に心を寄せる。
理不尽には声をあげ是性を求める。
巨悪はゆるさず小悪はその背景に目を向ける。
法を尊重する
そういったことは、かつてわれわれの共通認識として、存在していたのではないのか?
朝ドラで描かれた、事件のいくつかは、実際に当時起こったことを参照しているという。
今朝、策謀によって窮地に陥った無辜の人々が、当然の手続きによって当然の判決を受ける場面に、こんなにも心動かされたのは何故だろう。
例えドラマとしてつまらないと思っても、昔は大変だったのだなぁなどという、呑気な感想が言えたなら、その方が良かったのではないだろうか。
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