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KとY

桐島聡は、我々の世代にとっては、子供の頃からずっと指名手配されていた人なわけだけれど、自分にはあの手配写真は屈託のない笑顔に見えていた。

調べてみると19の時の写真のようだ。
桐島は尾道あたりの出身。
写真を撮られた頃は、おそらく田舎から上京して来た、ただの学生であったのだろう。

彼は所属していた過激派一派の中で、唯一前科がなく、警察にも把握されていなかった。
もしかしたら大した信念もなく運動に参加して、大ごとになって逃げたら、逃げ切れてしまって、表に出てくるきっかけを失ってしまったのかもしれない。

まぁもちろん憶測なのだけれど、50年逃げている人生というのは、どんなものだったのだろうか。

さて、学生の時にYくんという、熊本から出てきた同級生がいた。

苦学生で、親から学費を出してもらえず、入学金すら予備校の先生に借金したという、なかなかの苦労人だ。

当然、学費と生活費を稼ぐために彼はバイト三昧の日々を送っていたのだが、当時の物価と学費と時給のバランスの中で、何となくそれは成り立っていて、大学にこそあまり出てこなかったが、だからといって極貧というわけでもなかったようだ。

時はバブル直前、そういう意味ではあの頃は今より豊かだったのである。

そんな彼は、ある日バイト帰りに成田空港開港反対の署名に何となく名前を書いた。
八王子駅前だったという。
あの頃は弱りかけていたとはいえ、今よりずっと、そういった市民運動に対する社会のシンパシーは強かったわけで、署名は素朴に彼の正義感の発露であった。

ところがあろうことか、その場で彼は運動にスカウトされてしまうのである。(余談だがこれをオルグという)
もともと気の弱く、純朴で真面目な男である。
一緒に抗議活動に参加してくれよ、と言われて、単純に断れなかったらしい。

彼にとっての不幸は、当時はもう成田闘争はかなり過激化しており、特に彼をオルグした一派は、強硬な姿勢で知られていたことだ。

誘いを断れないまま、集団の後ろの方でシュプレヒコールに参加したりしているうちに、とうとうバイト先に公安が訪ねてくるようになったという。

ひどい話ではあるが、別に過激派でも犯罪者でもない彼は、大いに畏怖した。
側から見ていても、当時の彼は焦燥していたと思う。

それで考え抜いた末、運動から抜けるために彼の出した答えは、「夜逃げ」であった。
何ということはない、ほどなく彼は八王子の西口から東口へと引っ越したのだ。


それきり一派からも公安からも接触は無くなったという。
それで抜けられる程度の活動しかしていなかったのだから、当たり前の話なのだが、彼は大いに安堵した。


桐島もやばいと思った時に引き返す、というか夜逃げしてしまう選択はなかったのか?

Yくんも屈託なく笑う男だったので、そんなことを考えた。



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