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病院

 換気のため、診察室の窓が少し開けられていた。湯たんぽを手に握りしめ、私、一生懸命に症状を先生に訴えた。ところが、私、病院が大嫌いなので無理やり夫に連れられて来院したのは発熱してからかなり日数が経っていた。日頃から体温の上がり下がりが激しく、発病してからもまるでジェットコースターのように熱が上がったり下がったり。一日二日前のことなら、私だって、ちゃんと症状を上手に説明できたのに。おまけに、飲まず食わずと熱で頭がぼんやりしていた。先生と私と、話の嚙み合わない会話が続いた。それに追い打ちをかけるように、ガタン、ガタン、と窓のブラインドが風に煽られ、なんとも耳障りな音を立てる。
 医学書通りの受け答えができない私に、先生、イラッ、とした様子。
 そのうえ神経を逆なでするブラインドの窓枠を殴打するガタン、ガタン、という音に、先生、またイラッ。
 もしかしたら、私、不治の病?
湯たんぽをギュっと抱きしめていたら、いきなり先生、「ただの風邪」、そう言い放って診察室を乱暴に出ていって次の患者さんの所に行ってしまった。啞然とする、私。
「せんせー‼」 一人ポツンと診察室に取り残された私は、やっぱり病院なんか来るんじゃなかったと思った。ブラインドが風に震えて、ひときわ大きくガタンと鳴った。
 それから10日ほど経って、予約変更していた大学病院の歯科へ行った。
実は私、10年ほど前にデンタルインプラントを1本入れたので3ヶ月に一度検診のため大学病院に通っている。6階のエレベーターを降りて右(6B)が、いつも私が行くところ。ところが他の歯に不具合が生じて同じフロアー左(6A)の歯科保存治療室という診療科へ行くことになった。
 初めての長髪の先生はうちのお兄ちゃんと同じぐらいの、とっても元気な先生だった。診察台が倒れると同時に、「何度もお会いしてますよね」といきなり先生が言われるので、「いいえ、初めてです」と答えると、「いいえ、会っています」ときた。「いいえ」「いいえ」と押し問答が続いて、やっと治療が始まった。それって、どうでもよくありません?
 若い頃なら、「先生、私、女優の真野あずささんじゃありませんよ」とでも言えたのだろうが、今の私は誰も見間違えようはずがない。
 やれやれ、と思っていたら、今度は、「この場にあまりにも馴染みすぎている」ときた。
「インプラントの検診に3か月に一度6Bに来るからですよ」というと、「いや、そうではない。そんなんじゃない」ときた。それって、どうでもよくありません?
 私、インプラントのK先生から歯を抜歯することになるかもしれませんよ、と言われて意を決してきたのだ。結局その日はCTを撮って終わりということになった。
 病院を出ると、雨が降っていたので、私は病院の無料送迎バスで電停まで行くことにした。バスに乗ると、カーラジオから騒々しい曲ががんがん流れていた。
 運転手さん、さぞ退屈でしょうが、病院に来る人は皆、健康じゃないから病院に来たんです。ラジオを切って静かにしていただけませんか。医学書通りの受け答えができなくても短気を起こさないでいただけますか。少しテンションを抑えていただいて歯の治療以外に興味を持たないでいただけますか。
 家に戻ると私は、生クリームをたっぷり入れて珈琲を飲んだ。大好きなジプシーキングスの"インスピレーション”を聴きながら。再放送「鬼平犯科帳」のエンディングでこの曲が流れて初めて聴いたとき、私は凍りついた。おやつのビスケットを手に持ったまま。
 曲の中に浮かび上がるのはきっと私の知らない世界。なのに、スーと私の心に凄まじい風が流れ込んできた。これって、いったい、何なの?
ジェレミー・ブレット演じる「シャーロックホームズ」のなかで、ある領主が敷地内にロマを住まわせるお話があった。そのとき、"ジプシー=流浪の民”という認識を持っていた私は、目を伏せて物淋しく見えた人々の瞳に、ある凄みがあることに驚いた。それは長い時間かけてゆっくり築き上げてきた人間のしたたかさのようなものだ。
 ホームズ(ジェレミー・ブレット)が孤独にバイオリンを弾くシーンがとても好き。バイオリンの音色が微かに私を包み込むようにして私の琴線を震わせる。私は私の作品がとても好き。私の文章が微かに私を包み込むようにして私の琴線を震わせるから。そして、ジェレミー・ブレットのホームズが好き。いつもワトソン博士に迷惑ばかりかけているけど、一番大切なことが彼は絶対にぶれないから。


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