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陰と陽 (まだ下書き)

この世の中には陰キャも陽キャも存在しない。全員どこかしら陰と陽を両方持っていて、勝ちとか負けとか、上とか下とかはないんだなって事がハッキリと分かった。


これが私がオーストラリアに来て一番衝撃を喰らった真理かもしれない。


それは私の母親の元同僚の、オーストラリアに10年ほど住んでる方とお話させて頂いた時に気付かされた。おそらく普遍の真理であり、これからも僕の中の軸として有りつづける大切な教えだと思っている。


けれど一体どういうことなのか。みんなこぞって俺は陰キャだ、けどあいつは陽キャだとかカテゴライズしては盛り上がってる。それはそれで大いに結構だがちょっと考えが甘い。少しおかしいと思わないだろうか。自分に問いかけてみてほしい。自分の事を陰キャだと思っているあなたは、果たしてこれまでの人生ずっと根暗だっただろうか?楽しい瞬間は一個も無かっただろうか?

反対に自分の事を陽キャだと思っている人も、果たして今までの人生を振り返って、一度もネガティブな感情に襲われた事は無かっただろうか。

おそらくないはずだ。きっとどんな明るい人でも時々悩む事もあっただろうし、いつも暗い人も時々楽しい事はあったはずだ。

だから、人間を陰キャ陽キャと一括りにして二極化させることには限界がある。みんなどこか両面持って生きてるはずだから。


では、なぜそもそもこんな話になったのか。それは、「僕は今まで長い事病んでたんですけれど、今はもう他の同級生を逆転したような感覚があるんですよね」と素直な気持ちを打ち明けた所から始まった。

すると、その方の顔色が変わった。そして、どこかから、勾玉のような陰陽を表すマークを持ち出してきて、「いいやそれは違うよ、みんな常に陰と陽を持っていて、常に平等なんだよ」と言い出した。

そこから長い事、陰と陽についての対話が始まった。内容が怖いくらい腑に落ちたのと、にこやかに、けれど抽象的な言葉で僕に教えてくれるので、さながら自己啓発セミナーに来て洗脳されてるような、フワフワした感覚があった。もしビジネスライクな関係だったら、変な高い壺を買ってたかもしれない。

それくらい、話が深かった。

では、どういう事なのか。どうして、人間はみな常に陰と陽を持ち合わせていると言えるのか。

抽象的な言葉で話すと分かりづらいと思うので、私の実体験から話してみようと思う。

私は時々自分の人生を振り返るのだが、その度に私の人生のピークは東京にいた3年間だったなと思っていた。

なぜなら、勉強もできて、ある程度友達も多くて、生徒会もやって、しまいには成績が優秀だったからという事で、大田区の税金で私は一銭も払わず、アメリカのボストンあたりを2週間ほどホームステイさせてもらえたという輝かしい功績があったからだ。そんな事があれば、そりゃあ人生のピークだと思うでしょ。

けれど、そんな話をしたあと、その方はこう聞いてきた。じゃあその反面、失ってるものは無かった?と。そう聞かれてしばらく考えた。そしたら、あ、俺その3年間一切恋愛してねぇやって事に気がついた。その3年間は、体操競技の習い事に通っていたし、塾にも通っていたため、毎日夜10時くらいに家に帰っては寝るという生活の繰り返しだった。中学生、せっかく田舎から大都市東京に来たのに、大して遊びに行かなかった。そして、恋愛もこれと言って全くしてなかった。

それに気付いた時、ハッとされた。今まで自分の人生で1番輝いていたように思っていた東京での3年間の中にも、「彼女がいなかった」という黒い陰が潜んでいたのだ。

では反対に、彼女がいた人の場合はどうだろうか。東京にいた3年間に、彼女のいなかった僕からしたら、女の子と帰り道とかに一緒に帰ってる男友達を見てると、そりゃあ当然羨ましく思っていた。

しかし、その彼女持ちの男にも、失っていたものはなかっただろうか。おそらくだが、彼女と過ごす分友人と遊ぶ楽しい時間は削られただろうし、揺れる恋心で勉強が手につかなくなり、成績が悪化してしまったかもしれない。

つまり、私達自身から見て陽に見える人の中にも、実はひっそりと暗い影が潜んでいるのかもしれない。

このように考えると、一見輝いて見える人にも必ずどこか失ってるものがあって、陰と陽は誰しも常に持ってると言えるのではないだろうか。

そしてその方は、その陰と陽は毎日どちらかは絶対にあると言っていた。陰な時期もあれば陽な時期もあるという訳ではなく常にいつでも持ち合わせているのかもしれない。これはまだ良く分かってないのだが、まぁなんとなく分かるような分からないような、フワフワしている。

陽の人には陽の人なりの陰の部分があって、陰の人には陰の人なりの陽の部分がある

私は、私の母親の元同僚の、現在オーストラリアに10年ほど住んでる方に3日間程お世話になった。個室の部屋で泊まらせてくれたし、美味しい料理も頂いた。おすすめのスポットにも車で連れて行ってくれた。本当にありがたかった。

けれど、ではなぜこんな他人の僕にそこまでしてくれたかというと、その方が僕を見たのは産まれて以来だったからだそうだ。

その方は私の母親が新卒で入った会社の同僚で、私の母親が僕を出産する際にお見舞いに来たことがあった。

けれどそれ以来、特に接点も無く、20年の時日が流れていた…

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