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(ほぼ)100年前の世界旅行 香港〜上海1925/12/9〜19


曽祖父・金谷眞一の7ヶ月に及ぶ世界ひとり旅も、いよいよ最後の訪問地です。

夏はもちろん、冬も大活躍


12月8日にサイゴンを出発。船はセイロンから乗っているフランス船アンボワーズ号です。南シナ海は荒れたようですが、眞一は「船酔いしない体質」で甲板をゆっくり歩くのが良い運動だ、と書いています。しかしサイゴンで蚊が船室に紛れ込んで安眠できません。そこへ船友のフランス人ベカート氏がくれたのが、なんと日本の蚊取り線香。調べてみると蚊取り線香は1890年(明治23)に除虫菊の防虫効果を用いて線香型が生産され、お馴染みの渦巻き型も1895年(明治28)には生産されています。この形は、一般的な睡眠時間6時間燃焼し続ける形として発案された、というのには唸りました。すごい。東南アジアへの輸出は1930年代だそうですが、日本からアジアへの駐在員にとっては多分必携で、現地で虫に悩まされる欧米人たちにあげたりしたこともあったのでしょうね。

その頃眞一をもう一つ悩ませていたのがお土産問題です。アンボワーズ号が夜遅く入港、朝早く出港のため、買い物ができないので困った挙句、エジプト・ポートサイードで世話になった南部憲一氏の弟でシンガポールの南部商会にいる辰三氏に手紙を書き、日光にステッキを10本送るよう依頼しました。まるでハワイのマカダミアナッツチョコですが、やはり100年前の世界旅行、お土産も気張って、記念の品として長く残る良いものを、と思ったのでしょう。

香港に寄港


12月11日夕方6時、香港島に入港。その様子を眞一は、「高い頂きまで建築物で満たされ自動車道路は香港を一巡できるよう設けられ、無数の建築は水面より島の大半を占め中腹に及ぶ。全市電燈にて覆われ、桑港(サンフランシスコ)に入港せし当時を思わしむ。」と書いています。船から輝く島の様子をみた高揚感が伝わってきます。
早速引き続き船友の三井物産 一色氏、京都の續木氏、さらに与田夫妻とともに上陸し、「清風楼」で夕食。食後には車に分譲して「香港ホテル」をみて船に戻りました。

香港ホテルは1866年に設立されたThe Hongkong Hotel Companyが1868年に開業。当時「中国と日本においてこの分野で最大」と言われたプロジェクトでした。この会社は今ではペニンシュラホテルをはじめとする超高級ホテルを傘下にもつ、The Hongkong and Shanghai Hotels, Limited(HSH)になっています。

https://www.hshgroup.com/en/about/hong-kong-heritage-project

同社ウェブサイトには、“Hongkong Heritage Project”としてユダヤ系のカドゥーリ家が150年に渡り香港、上海、さらに近年は日本や東南アジアの国々で営んできたホテル・不動産投資事業の歴史が当時の写真と共に細かく記されています。モットーは“Tradition well served.” うーん、かっこいい...

戦前の上海や香港では、このHSHのカドゥーリ家と共に、サッスーン家が富と繁栄を謳歌していました。どちらもバグダッドに起源を持つユダヤ系の一家です。ユダヤ系の富豪といえば、ヨーロッパではロスチャイルド家が有名で、サッスーン家も「アジアのロスチャイルド」と呼ばれることもありましたが、実は不満だったとか。というのもバグダッドのユダヤ人は紀元前6世紀の「バビロン虜囚」で連れてこられた人々の末裔で、中でもサッスーン家は数百年に渡りバグダッドで代々の為政者に財政面でアドバイスを与えてきた名門であったから。一代で富を築いたロスチャイルド家と同列に扱われることは不正確だと思っていた、というもうなんだかわからないスケール感です。この両家について書かれた“The Two Kings of Shanghai” という本がとても面白いので、読み終わったら感想をどこかに書きたいと思います。

さて船に戻った眞一ですが、「それにつけてもアンボワーズ号はまた明朝8時に出港予定で、トーマスクックに郵便を受け取りに行くことも、ピーク頂上から風景を楽しむこともできなかった。ついでに言うと、船足も遅いし食事はまずい、風呂場は不潔で到底入浴できない、船客の観光事情になんら配慮がなく不親切だし船員は規律なし、もう将来絶対フランス船には乗らない、人にも勧めない!」とかなりお怒りのご様子。観光客目線と、それをもてなす側の目線の両方がうかがえるのが、眞一らしいなと思います。

上海滞在


12月12日朝、アンボワーズ号は香港を出発。今は飛行機で3時間もかからない距離ですが、当時は3日間の船旅の末、15日昼前に上海に到着しました。南満州鉄道会社の桟橋に横付けされた船内から見た湾内には日本郵船、大阪商船、山下汽船などの巨船が日章旗を翻しているのを見て、「英米各国が警戒するのもやむなし」と書いています。ここではトーマスクックに立ち寄ることができました。日本に「香港気付の郵便は受け取り損ねた。何か言伝や買い物の用があればトーマスクックに連絡を。19日に出発する。」と電信をだしました。何か、今の私たちが帰り道に「なんか買い物ある?」と家にLINEを送るような気軽さを感じます。

上海には当時数万人の日本人が暮らしており(香港は2,000人程度)、日本町がありました。上海はすでにかなり寒く、まずはすき焼きで腹ごしらえです。その後中国人街でお茶を飲もうと思ったら「多数の婦女子の襲来を受けて初めてその性質を知り、虎口を脱したる」と、男子貞操の危機の一幕もあったようです。

 -アスターハウスホテル

美しいロビー❤️

上海では船に戻らず、アスターハウスホテルのバス付き上等室(一泊12ドル(16.8円))で出港まで休養することにしました。ここは1921年(大正10)にも弟・正造と来たことがあり、その時に世話になった日本人のフロント係とも再会、支配人Troller氏にも挨拶しました。

アスターハウスホテルは1846年、「リチャード・ホテル」として創業しました。その後売却されアスターハウスホテルとなり、東洋一のホテル、と称されましたが1923年にパレスホテル(サッスーンハウス南楼。後年、金谷ホテルが運営を請け負い、私の祖父が赴任しました)とアスターハウスホテルを上述のHSH社が運営するようになり、上海の社交界の中心地として華やかな時代を迎えました。戦後はだいぶ気軽なタイプの宿になったようですが、2006年に大規模改修をしたようです。2018年に一旦休業したようですが、今も営業しているようです。ロビーなど、往時の姿をとどめているようで、素敵です。
(5/8修正:  香港にお住まいの方から、アスターハウスホテルは現在博物館になっている、とのご指摘がありました。ありがとうございました。)

 -マジェスティックホテル

当初アスターハウスホテルに3泊するつもりだった眞一でしたが2泊で切り上げ、1924年に開業したばかりのマジェスティックホテルにも投宿しました。ここは英国人実業家マクベイン氏の邸宅だった土地建物(8エーカー、約1万坪!)をHSH社が買い、大規模なボールルームを新設したものです。連日舞踏会が開かれ、眞一が滞在した頃は大変華やかだった時代ではないでしょうか。のちに蒋介石と宋美齢の結婚式もここで行われましたが、1930年には営業を終了したようです。

Courtesy of “Retro View of Mankind’s Habitat”


眞一は副支配人の南條一雄氏にHSH社や実際のオペレーションについて色々質問しています。そしてHSH社の積極的な買収は銀行主導で経営難や抵当流れの土地建物を多数手に入れて、顧客の階級に合わせた色々なクラスの施設で展開していること、そのためどこかが悪くても他が好調なら全体的に利益が上がる、という点に興味を示しています。HSHが神戸のトーワホテルも買収、横浜に進出する計画もある、と聞いて、「京都・西村氏が考えたチェーン構想と同様(もちろん大々的にして秩序ある)の手順だろう」、「同業者の一考を要する点なり。」と書いています。

「京都・西村氏のチェーン構想」というのは、京都の都ホテルのオーナー、西村仁作氏が帝国ホテル、金谷ホテル、富士屋ホテル、大阪ホテルを誘って1902年(明治35)に発足した「五大ホテル同盟会」、それに続くホテルチェーン化構想のことを指すと思われます。「五大ホテル同盟会」のメンバーでのチェーン化は実現しませんでした。この旅行の時点で眞一は日光金谷ホテルしか手がけていませんが、後年鬼怒川温泉ホテル、日光観光ホテル(現中禅寺金谷ホテル。こちらは当初運営受託、のち自社化。)と展開していく際、HSH社のことを思い出したかもしれません。

当時の世相

港には日章旗をたなびかせる多数の日本の大型船舶、その一方でこの年日本企業の工場で働く中国人労働者のストライキに端を発した反帝国主義運動・五・三○事件、それに続く日貨排斥などが起こり、当時の日中関係は不安定なものでした。眞一にとっては充実した滞在となった上海ですが、当時の世相を窺わせるこんな記述も。

「支那町見物中ノ安全策トシテ支那帽ヲ被リオリタルタメ巡査、車夫等ヨリハ軽蔑サレタルモ多少ハ安全ナル心地セリ。」(原文ママ)

1925年12月17日金谷眞一日記より

この後はいよいよ日本へ。懐かしい人々との再会が待っています。


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