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(ほぼ)100年前の世界旅行 エジプト(カイロ〜ルクソール)1925/10/23-30

曽祖父・金谷眞一の世界旅行、1925年6月に横浜を出発し、アメリカ、ヨーロッパと進み、いよいよ欧州を出てアフリカ大陸へ。約2週間のエジプト編、今回は前半です。

世界一高い船の旅

南イタリアで旅の友となったマーシュ夫妻、エヴェレスト姉妹らを見送り、10月23日、1人でナポリを出発。夜の汽車でブリンディジへ向かいます。夜中に寝台車に乗り換えて、翌日午前11時にブリンディジに到着。トーマスクックの社員が出迎え、そのまま汽車から降りないように教えてくれました。汽車は桟橋に付き、そこから船に乗り換えです。

Helouan号。のちにイギリス軍海軍の病院船にもなりました

これが、手配したトーマスクック・ローマ支店長も気の毒がった「世界一高い」Helouan号。カイロまでの2日間で39英ポンド(468円)です。今の価値に換算するのは難しいですが、一番安い計算でも50万円を超えます。この船を予約するしかなかった眞一の懊悩は、前々回の「フィレンツェ・ローマ」編をご覧ください。

この船は、第一次大戦前の1911年就航の大型豪華船で、ロイド・トリエステが運航していました。船内の一等船室に落ち着いた眞一は、流石に上等な設備や料理を楽しみましたが、いちいち値段が頭をよぎるのか、「これだけ高ければ当然だ」と書いています。思い出すだに「あ”ー!」ってなる心境、わかるなぁ。

税関で一悶着

地中海は波が高く、Helouan号のベッドは狭く、あまり安眠できなかったようですが、2泊後の夕方にアレクサンドリアに到着です。下船を急ぐ人々とは逆に、エジプト人官吏の団体がイタリア政府の特使一行を迎えに乗り込むなどして船内は大混乱。ようやく下船した検査場では、全ての荷が開けられ、イギリスで買ったシャツが10組以上あるという理由で約2円の税金を取られました。「荷物の多き人には実に残酷なるほど乱暴なる検査をなし、ある婦人など声をあげて泣いていた」と日記に書いています。後日眞一はエジプト出発前に税関長宛に「仕事なのはわかるが、上陸して最初に受けるもてなしがあの乱暴さでは、この国への印象は最低になる」と改善を求める手紙を書いています。改善した方があなた方にもメリットがある、という書きぶりが眞一らしいなと思います。

カイロの名ホテル

カイロ到着の翌日、早速トーマスクックに出向き、その勧めですぐルクソールに行くことにしました。費用は4日間で22ポンド(2.75円。エジプトでは1ポンド=0.13円)です。宿泊したホテルがよくなかったようで、昼はシェパーズホテルへ。1841年創業の老舗ホテルのランチは流石に素晴らしかったようですが、風呂付きのシングルルームが130ポンド(15.6円)と高く、「旅費は英国並み」と書いています。この値段のせいか、エジプト滞在中はこのホテルには食事に立ち寄っただけで宿泊はしませんでした。

シェパーズホテル。Wikipediaより

このホテルは1952年のカイロ大火で失われ、今ある同じ名前のホテルは少し離れた場所に新しく作られたものです。一時はヘルナン・シェパーズ・ホテルという名で営業していたこともあったようです。その後別の会社の運営で改修の計画もあったようですが頓挫し、2014年から休業中。2024年にマンダリンオリエンタルホテルの運営で再開業予定とのことです。古いホテルにはそれなりに色々変遷があるものですね。

ルクソール

カイロでエジプト美術館、アラブ美術館、2−3の代表的モスリム寺院を見物した後、10月27日夜、他のイギリス人乗客たちと汽車でルクソールへ出発です。食堂車で夕食を済ませ、寝台車に入ったところ、同室のイギリス人からメキシコの鉄道敷設権を持っているので日本人移民を一緒に輸送しようとか、汽船会社をやろうなど、雲を掴むような話を延々と聞かされて閉口しています。文書で日本に送ってくれ、と言ってやり過ごしました。イギリスがエジプト王国成立を認めたのは1922年。まだ不安定なこの国には山師的な人物も多く集まっていたのでしょうか。スーダンのハルトゥームの私書箱を宛先にしたこの人物の名前が日記に残されています。

翌日朝ルクソールに到着し、ホテル差し回しの馬車でウィンター・パレス・ホテルへ。

BBCのポワロシリーズにも登場しました

美しいこのホテルは、1905年にスイス人ホテリエ チャールズ・ベアラーらとトーマスクックのエジプト支店が設立し、1907年に開業しました。王家の谷でツタンカーメンの墓を発見した英国人考古学者のハワード・カーター、そのパトロンのカーナボン卿の定宿で、アガサ・クリスティが「ナイルに死す」を執筆したホテルです。ホテルの入り口から緑の木々を背景にナイル川に浮かぶ白帆の小舟が見える様子に「前世紀の情緒を誘う」と感心しました。

ホテル近くのルクソール神殿を見学しミイラをみて「ローマで2500年前のものを見て驚いたが、ここでは5000年前の人間が防腐薬により頭髪まで完全に保存されている」と書いています。たくさん絵葉書も持ち帰りました。

翌日は案内人とお弁当を持ってボートでナイルをわたり、そこからロバでポコポコとしばらく行ったところで馬車に乗り換え王家の谷を見物です。ツタンカーメンの墓は1922年11月に見つかったのち、すでに中身は皆カイロに移動され、見るものは特になかったようです。

多分、ツタンカーメンの墓の入り口

(12月30日筆者注:↑これは、ラメセス6世王墓入り口で、ツタンカーメンの墓の入り口は手前にあるそうです。Xで「ルクソールの空」様からご指摘いただきましたので、訂正します。ご教示ありがとうございました。)

アメンホテプ2世やセティ2世の墓の方がミイラや装飾が残っており、よほど時間をかけるべきだ、と書いています。

ラメセウム

ラムセス2世の墓の後ろには、「ヨセフの穀物庫」と呼ばれる細長い煉瓦造りの建物がある、という眞一の記述をみて、はたと遠い昔に読んだ旧約聖書の物語が蘇りました。そうそう、父ヤコブに溺愛されたヨセフは兄弟たちに妬まれ、隊商に売られ、エジプトで奴隷になるんですよね。で、ファラオが見た「7頭の太った牛と痩せた牛」の夢を解き、宰相に取り立てられ飢饉に備えて穀物庫を作り、エジプトを救ったのでした。ヨーロッパ人たちは用途がわからない古代エジプトの建物に、旧約聖書にちなんだ名前をつけたわけです。この名称は中世にはピラミッドのことをさしていたこともあるようです。

なんとも美しい女性
あんな美人を妃にしていた?ラムセス2世像

ルクソール観光中、一緒に観光している一行と遺跡の日陰に座って持参した弁当を食べました。痩せた野犬も一緒です。帰りも同様に馬車、ロバ、小舟と乗り継いでホテルに戻りました。天気は乾燥していて気温は高くても凌ぎやすいけれど、蚊や蝿が多く閉口しています。案内人がナイルの茶色い水を瓶に汲みグイグイ飲むのには仰天しています。

ウィンターパレスホテルで眞一は支配人と面会し、ビジネスについて話を聞くことができました。第一次世界大戦中はルクソールに5件ある系列のホテルを含め全部休業し、1919年から営業を再開。11月の観光シーズンから3月中ごろまでの営業で、だいたいアメリカンプランで20円(160ポンド。カイロより高い!)程度。24年は戦前レベルまで業績が回復したので来シーズンはもう1軒開業予定、と絶好調です。エジプト観光は、トーマスクック社がスエズ運河開通以降大いに力を入れたところで、このころは「エジプトには4つの季節がある。ハエの季節、蚊の季節、甲虫の季節、そしてトーマスクックの観光客の季節。」というジョークもあったそうです。

現在もあまり変わらない姿で残っているこのホテルには、ナイル川を見晴らすテラスがありました。眞一は、日光の大谷川沿いの高台にある自分のホテルにも、将来同じようなテラスを作ろうかと思いついたようです。スケートリンクを「レークプラシッド」と呼んだ人ですから、もしかしたら大谷川を見下ろす「ナイルテラス」が日光金谷ホテルにできていたかもしれません。

日光金谷ホテル スケートリンク「レークプラシッド」の絵葉書。
左から10人目、ネクタイ姿が眞一です。


この後カイロに戻り数日滞在ののち、ポートサイードから紅海へ、旅は続きます。異国に根付いた日本人青年との出会いが待っています。

参考文献:
講談社現代新書「トーマス・クックの旅ー近代ツーリズムの誕生」本城靖久 


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