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(ほぼ)100年前の世界旅行 アムステルダム〜ブラッセル〜パリ(ヴェルダン) 9/12-21

ベルリンでシーメンスの面々と旧交を温めた金谷眞一。この旅行中2度目のパリへ向かいます。

ベルリンーマインツーケルンーアムステルダムーブラッセルーパリ

この道程は、一泊しながら毎日移動していますが、短い時間でも観光は欠かしません。この時眞一は46歳。長旅でも元気な様子です。

この移動中に出会った日本人のことが日記にあります。ケルンではアメリカに2年半留学し日本に帰る途中の下野一霍(しもの いっかく)砲兵大尉と出会いました。ブラッセルでも欧州の教育視察中だった児玉九十(こだま くじゅう)氏(1923年明星学苑創設)と知り合いました。ブラッセルで泊まったパレス・ホテルには日本人客も多く驚いています。

ブラッセルと言えばやっぱりこの子ですよね。


アムステルダムはちょうど市制650年の祝日にあたり、「町中が酔っ払っている」と。現在は再来年の市制750年に向けて、準備が始まっているようです。
また、移動中にポーターや手伝いの少年などにチップを渡すとそれが少額でも大変喜ばれることも書かれています。第一次大戦後復興に向かいながらもまだ各国が経済的に困窮している様子が伺われます。眞一は行く先々でコインを集めていたようですが、「戦争後は金貨が出回っていない」とも書いています。ベルリンで宿泊したカイザーホフホテルで世話になったウォルフリスバーグ氏らには日本から持参した一朱銀を記念に渡しました。

一朱銀


9月17日パリに到着した眞一はルツェルンのハウザー氏から紹介されたホテルを訪ねますが満室で、結局8月にも宿泊したホテル・スプレンディドに落ち着きました。以前は90フランでしたが今度は同業者とわかってもらったのか、30フラン値引きされたと書いています。大きな荷物はここに預けてスイスやドイツを周っていたので、ちょうどよかったことでしょう。この時、クラリッジホテルにも電話で部屋を尋ねていますが、こちらは風呂付きシングル(パーラー付き)がなんと280フラン!ずいぶん違うものですね。

大戦の傷跡

今回のパリ滞在中、眞一は遠出して一泊で戦場をめぐるツアーに参加しました。まずランスに移動し、第一次世界大戦中の1916年独仏が10か月に渡り戦い、双方合わせて70万とも言われる(諸説あり)死者を出したヴェルダン、また1918年には米国が史上最大規模の120万人を投入した戦地アルゴンヌの森にも行きました。1919年のベルサイユ会議が終わってから6年がたっているのですが、まだ延々と続く塹壕、堡塁に驚いています。

塹壕
アメリカ人戦没者の墓
破壊されたヴェルダンの町

眞一が持ち返った絵葉書には、破壊された町や打ち捨てられた戦車、目を疑う数の墓標。浜辺の貝殻のように死者の骨があり、足の踏み場がない、とも。

ドイツ軍の戦車

そこで弾丸を拾います。狩猟も趣味だった眞一は、その火薬がまだ乾いていて十分に使えることに気づきました。パリに戻り、日記に記した言葉は、”Tired.”。疲れたのは、二日間で400kmに及んだ移動のせいばかりではなかったことでしょう。

次の目的地、ニースに向かう前に、まずはすでに90キロを超えた大きな荷物をその先の目的地ローマのトーマスクックに送ります。パリのトーマスクックからは、今後行く予定の都市の各支店宛の紹介状(日本でホテルを経営している者、対応方よろしく)ももらうことができました。さらにその先のエジプトから日本に帰る旅程も検討し、12月初めに神戸に着く予定を考えていたようです。10月に中国・大連でホテル協会の会議があるので、弟・正造は香港あたりで落ち合おうといいそうだが、それには少し遅いだろう、とも日記に書いています。パリでサイダーを飲んだ後から少し胃の調子が悪くなっていることが気になりますが、次の目的地は南仏ニース。コート・ダジュールで、また古い友人と再会します。

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