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パラレルワーカーという生き方 vol.1

今を生きること。
それはある意味簡単で、ある意味難しい。

目まぐるしく情報が行き交い、
瞬間的な判断が求められる、今この時に。
自分の人生を振り返りたい。そう思った。

思えば27年。あっという間に過ぎていった。
大学を卒業し大学院を中退した筆者は、
バイトの掛け持ちで今現在生計を立てている。

そんな仕事事情のために、
「どんな仕事をされているんですか?」
という質問に答えるのが、本当に難しい。

色んな仕事やってます、と答えるしかない。

巷では、このような働き方をする人を
パラレルワーカーと言うらしい。

なんだかよくわからないが、
仕事が出来そうな感じがするではないか。
今後はパラレルワーカーとして生きよう。

このnoteでは、筆者の仕事の話をしていく。

人に誇れる人生を歩んできた覚えはないが、
少し特殊な人生を歩んできた自覚はある。

「ふーん。こんな生き方するやつもいるんだ」
と軽い気持ちで読んで頂けたら幸いである。

子ども店長時代

自営業家系の三男坊に生まれた筆者は、
小学生の頃からお店を手伝っていた。

両親が営む飲食店はそこそこ繁盛しており、
姉も兄も手伝いをしていた。

そのような環境にいた筆者が店を手伝うのは
自然の流れであり、至極普通の事だった。

習い事終わりに働く時などはダルかったが、
店の手伝い自体は好きだった。

子どもというだけでチヤホヤされたり、
逆に「ビールがジョッキから勝手に流れて。
減っていくんやけど…新しいの持ってきてよ」
と、からかい半分で言われたこともあった。

今となってはいい思い出である。

父親が作ってくれたネームプレートには、
「子ども店長」の文字が記されていた。
なんとも粋な演出である。

プレートはすぐに、無くしてしまったのだが。

そんなこんなで
子ども店長時代の手伝いの経験が、
今の人付き合いや接客の礎となっている。

子どもの労働が問題視されている昨今では、
もしかするとグレーな話なのかもしれない。
筆者においては
親を悪く思う気持ちもなければ、
かえって良い経験ができたなぁと
思っているので、ノープロブレムである。

大学とバイトと私

大学最初のバイトは、
某有名チェーンのラーメン屋だった。
賄いがラーメンだったので、
飽きるまで食べていた。

炒飯を提供するには試験があり、
その練習で作った炒飯が夜食。
半月ほどで、5キロ太った。

ラーメン屋に2年程勤めた大学3年生の半ば。

新しいバイトへの道が2つ、同時に開かれた。

1つは喫茶店。
珈琲に興味を持ち始めた筆者。
近くのカフェに入り浸っていた所に
喫茶店の社長が来店され、スカウトされた。

もう1つは家庭教師。
障害児教育の少人数授業に
家庭教師の代表の方が来られた。

障害児教育を専攻していた筆者は、
障害を持つ子の実際が見れれば、と
その日の夜に代表に電話を入れる。

急な電話だったが大変喜んで頂き、

発達障害を持つ児童の家庭教師を始めた。

結局喫茶店は3年、家庭教師に至っては
ほんのついこの間まで生徒を見ていた。

筆者の教育観や珈琲の礎は、
この2つのバイトから頂いたものである。

大学卒業を見据えた筆者。
教職の道に就く同僚達との間に溝を感じ、
モラトリアムによって進学を決める。

研究と称した、ネットサーフィンの日々。
アメリカの教育システムを題材にした事で、
英語が得意ではない筆者は
自分の首をキリキリと締めていった。

院生時代もバイトの日々。

正直研究職の道は早めに見切りをつけており、
喫茶店を開くのも悪くないなぁと思う一方、
客単価が安いのがネックだった。

お酒が出せたらいいよな、と思い立つ。
間もなく、BARのバイトを始める。

喫茶店と、BAR


喫茶店と、BAR。
営業時間や客層は相容れないが、
その本質は面白い程似ていた。

人を喜ばせるのがサービス。
人を放っておくのもサービス。

平穏と混沌の入り混じる、カオス。

技術と、気遣い。客と店主の相性。
そのどれもが、筆者には繋がって見えた。


BARのバイトを続ける中で、
自分はこちらが向いているかもしれない、
と思うようになった。

酔っ払いは嫌いだが、
酒の席で話を聞くのは好きだった。

バリスタの技術には興味が湧かないが、
バーテンダーの技術には興味が湧いた。

勉強の為にBARに立ち寄る事が増えた。

その中でどうしても気になったのは、
珈琲に対して無関心なBARが
あまりにも多い事だった。


「なんとなく」「割り切って」「ついでに」
珈琲を提供しているBARが、散見された。

由々しき事態だが、チャンスだとも思った。
自分が生き残る道は、これなのだ。

筆者が行き着いたのは、
どちらの魅力も引き立てる
"カフェバー"という営業形態だった。

大学院生活がいよいよ苦しくなる。
留年覚悟で研究留学するか、
もしくは研究を辞めるかの選択になった。

院生活を辞めると決断した日。

飲食店を立ち上げると、腹を括った。

コロナ惨禍の職業難

院生を辞め、一転フリーターとなる。
働いているBARで社員になるのが
1番いいと考え、出勤数を増やす。

新店舗の立ち上げの際、
メインで回す駒としてお願いされ、
いよいよ飲食店への道が開かれようとした時。


コロナが、全てを白紙に戻した。

コロナに関する情報については、
わざわざ記す必要もないと考え、省略する。

飲食店への影響は甚大で、
BAR営業に至っては
営業停止、時短営業、酒類販売禁止と
四面楚歌な状態だった。


新店舗の話は流れる。出勤数が減る。
生活が一気に苦しくなる。

なり振り構っていられない。
BARのバイトは続けながらも、
飲食店以外の求人を探した。

求人の条件は、
フルタイムで働けて、
最低限の福利厚生がある職場。


コロナ禍の職業難により
採用が見送られたり、断られたりした。

このまま職場が見つからず、
野垂れ死ぬかも、
という不安が頭をよぎった。

そんな中採用が決まったのは
運送会社の仕分け作業。
人生で経験したことない、
全く新しい仕事だった。



vol.2に続く

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